(3)
控えめなノックの音に、005はベッドの上の頭を一撫でし、立ち上がった。薬が効いた009は青ざめた顔を枕に埋めてようやく眠りに落ちた所だった。
ドアの隙間からエメラルドの瞳が心痛を湛えて、薄暗い室内を覗き込んだ。
「今眠った所だ」
「・・・・・そう」
003はそっと一枚の紙を差し出した。リアのデータ解析図の更なる詳細と、彼の所属するB.G基地の大まかな座標図だった。
「正確な場所はまだ特定出来ていないの・・・・・。でもそれも時間の問題ね・・・・・」
005は頷き、それをじっと見てポケットに仕舞った。
「・・・・・戦うのは嫌、そんな事を言っていた自分を、私、引っぱたいてやりたい」
003はドアの縁をぎゅっと握り締めた。
「今、009の持つ苦しみに比べたら・・・・・」
「彼の苦しみもお前の苦しみも、それぞれ一つ一つだ」
「彼の苦しみは私の・・・・・、私達の苦しみよ・・・・・!」
003は両手で顔を覆った。その時、彼女の中の戦士は消え、ごくありふれた一人の少女となった。彼女はまだ19なのだ・・・・・。
少女の胸のひたむきな恋心は005の中の戦士をも揺るがせた。二十歳にも満たぬ少年少女の涙は、美しく残酷な生身の夢だった。
005は彼女の背中に優しく手を添えて促した。
「・・・・・さあ戻ろう。あいつが何も考えずに居られる時間を出来るだけ守るのが、今の俺達の役目だ」
二人は連れ立って廊下に出た。005は小さな寝息にもう一度耳を澄ませ、ドアを閉めた。
睨み合いは続く。そこは戦場だった。だが全てが終わった後の戦場だった。瓦礫は崩れ、草木は灰となり、炎は地面に吸い込まれて、
悪魔が舌で舐め回した様な黒い跡が地面に続いていた。そこには二人以外の生きた者は居なかった。赤い瞳の009は居なかった。彼の体も声も、
何かも彼の気配を感じる事は出来なかった。004の左腕から、リアの右目から血が滴り落ちる。その血はきっと彼の居るであろう場所まで続い
ている事だろう。二人の体から流れ出る夥しい血、それが彼の涙となっていくのを知りつつ、二人はそれでも尚、互いの命を削り合うのだろうか。
「リア」
「・・・・・・」
「お前にあいつは渡さない」
「・・・・・・」
「渡さない」
リアの瞳が暗く光った。
「それだけじゃない。お前達が共に闇に飛び込もうとしているのを、俺は見逃す訳にはいかない」
「・・・・・だから・・・・・?」
「生きてもらう」
リアの目が見開かれた。
「004、お前は・・・・・そう、お前は馬鹿か。俺が生き延びれば、また『お前の』009をかっ攫って行くかもしれないんだぞ」
「そうなればもう一度取り戻すまでだ」
リアは押し黙った。彼の口元が僅かに強張ったのを004は見逃さなかった。核心を突いたのだと思った。必ず生きて帰る・・・・・生きる理由があ
る・・・・・、 青ざめた唇が数語を形作った。見開かれた左目は記憶の文字を読み取る様に小刻みに蠢いていた。
「・・・・・そうか・・・・・やはりそうか・・・・・」
リアは何度も呟いた。すべて理解したとでも言う様に。
彼が呟く言葉の意味する所は分からなかったけれど、彼が心の中で辿り着いたらしい一つの結論を004は受け入れたいと思った。そこに彼が
009との心中を一方的に選ばなかった理由のひとつがきっと在ると感じていた。
「リア・・・・・」
004は 静かに再び切り出した。
「博士や皆とも話し合ったのだが・・・・・我々はお前をB.Gから保護し、受け入れる準備がある。そこでこのままお前を日本にある我々の
研究所に搬送し、そこでリンクの切除に踏み切るつもりだ」
リアは目を剥いた。
「正気か?リンクがいつ復活して爆発するかわからないんだ。運んでいる間にでもドッカーン!でお前らはこの船もろとも木っ端微塵だ」
「かも知れん。だがやってみる価値はある」
茫然とした表情が徐々に歪み、やがて彼の口からヒステリックな笑いが飛び出した。
前のめりになり、シーツをつかんで体をひくひくさせている。
「・・・・・全く・・・・・!馬鹿としか言い様が無い。お前らは最強の馬鹿だな・・・・・!!
「だからリア、俺達と一緒に来い。B.Gとの事について決めるのはそれからでも遅くは無い。009の為にも、お前は生きなければならない」
下を向いたリアの笑い声は段々小さくなり、消えた。静まり返った中で白い包帯に包まれた背中を見せて、同じ姿勢のままじっと動きを止めている。徐々にそ
の背中が震え出したかと思うと、がばっと寝台から身を起した。
「・・・・俺にどうしろと言うのだ。伸ばして来るその手を取れと言うのか!?違う世界の者同士が交わる事が可能だと思うのか。元はお前は生身の世界に身を
置いていたのだろう、なら分かる筈だ・・・・・!」
コードが引っ張られ、テーブルの上の器具が触れてガチャガチャ音を立てた。下からぐっと004を睨みつけるその顔は、先程009の腕を掴んでいた時の表情
に、僅かに近付いていた。
「俺に生身だった頃の記憶は無い。だがお前達は違うのだろう。自分の存在が許されない場所がある事を、何よりもお前達は知っているのではないか?嘗て犯し
たであろう罪への悔恨を、殺人兵器となり果てた自身の苦悩の下に押し込んで我が身を嘆き、それを他の相手に投影する。自身の償いの手段に俺や009を利用
しようと云うのか・・・・・」
「・・・・・・・!」
リアの最後の言葉は鋭い槍になって004の胸を貫いた。
反射的に言葉を、恐らく意味を成さないであろう言葉を発しかけ、飲み込んだ。
004はほとんど無意識に自分の喉元を探った。けれど指に触れるのはマフラーだけで、代りに後ろの壁に頭を
打ち付け天を仰いだ。
────── 愛していてもその手に触れる事は叶わない。なぜなら互いの世界はもう違うのだから。
祈ることなど疾うに忘れた身。そんな自分を哀れみ、彼(か)の名を呼ぶのは罪か。
004はこの面会が終わりに近付いている事を悟った。
「生きて欲しいと願う心に手段も何も無い。・・・・・此処に居る以上、望もうと望むまいと、もう自分の命は自分だけの物じゃ無い。
それが分からんのか」
背けた目の隅に光る物が飛び込んで来た。004の左手が大きく宙を切った。
尖った金属音が床の上で鳴った。それが滑って行った壁際に、真っ二つになった医療用鋏が転がっていた。
「・・・・・これがお前の答えか」
「・・・・・愚かなお前と、俺の、答えだ」
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