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(2)






 これから陽が翳るに従って雨は止むだろう。湿気た潮風が海上を渦巻いているだろう。
リアの右手指がぴくりと動き、瞳の色が一層強まった。彼はこの時を待っていたのだった。このドルフィン号に来て初めて持った具体的な意志だった。
体内の秒針が肉を切り刻む。心臓にさっと血が集まり始める。
手の枷が彼に呼び掛ける様に小さな音を立てた。
  

 扉の向こうで再び人の気配がした。ばっと顔を上げたリアは扉が開くのと同時に目を見開いた。
  

 「・・・・良かった、居てくれて」
  
 
 ほっとした様に小さく顔を綻ばせた009がすぐ其処に立っている。
  
 
 絶句するリアの目の前で、009はするりと部屋の中に身を滑り込ませ、扉を閉めた。
  
  
    
 「・・・・・此処に来ていいのか?」
  
 「何とか頼み込んだ。・・・・・君の目の包帯、もう取っても差支えないって博士が言ったから、その包帯を外すのは僕の役目だって。 ・・・最後まで僕が責任を持ちたいって」
  
 
 真正面から見つめ合う形になってリアと009は黙りこくった。外から聞こえる絶え間ない雨音が、二人の僅かな距離を満たす役目をしていた。  009は傍らに置かれたサーベルにそっと視線を走らせた。素知らぬ顔で蒼みがかって輝くオニキス、昨日保管庫で目にしたばかりのそれは、 薄い光の中本来の持ち主の傍で息を吹き返し始めた様に見えた。
嘗て血を流し合った日、彼の手の中で唸りを上げて、ふたりのこれ以上の運命の交わりを押し留めんとしていた。今、再び彼の元へ帰ろうとし、 これから数時間の猶予と共にもたらすであろう答えを、009に教えている様だった。
 
   
 「・・・・僕に外させてくれるね?」
  
 ようやく009は切り出した。そろりと手を伸ばすと同時に伸びたリアの声が、009の手を止めさせた。
  
 
「一人きりで此処に来て、俺が今度こそお前を殺してしまうと考えなかったのか」
  

009は澄んだ瞳を相手に向けた。
  
  
 「・・・・君には出来ないよ」
  
  
 「・・・・・・」
  
  
  
 「君にそんな事は出来ない。もう十分分かった筈だ。あの月の夜、最初に君は僕を見過ごした。あの日に戻らない限り、・・・もう遅いんだよ、リア」」
  
 009は淡々と告げ、真っ直ぐにリアを見返した。彼と出会って以来恐れ続けた、何かの始まりと終わりを今こそ見届けようとする様に。
あの日、メンテナンス室でリアが言った『覚悟』の意味を、この数日間の別離の間に009はようやく理解したのだ。
  
  
 「さあ、包帯を取ろう・・・・」
  
  
 手を伸ばされてもリアは何も抵抗しなかった。
  
 009の手でゆっくりと包帯は解かれていった。黒髪がさらさらと揺れ、リアの素顔が徐々に露わになった。
包帯の終わりが、当たられていたガーゼと共にするりと床に落ちた。
  
  
 「・・・・・開けられる?そう、ゆっくりでいいから・・・・・」
  
  
 張り付いた様に閉じられたリアの右目の瞼がぴくぴくと動いた。
  
細く一筋開き、やがて小さく震えながらゆっくりと持ち上がって表情の無い瞳が現れた。
眩しそうな目の中に荒いノイズが一瞬横切り、奥からじわじわと光が現れ始める。
 リアは数度瞬きし、今度ははっきりと目を開けた。焦点が定まったのだと分かる。
  
 「・・・・見える・・・・?」
  
  
 009は相手の顔を覗きこんだ。
  
  
 「・・・・ああ・・・・」
  
  
 「良かった・・・・」
  
  
009は黒い両の瞳を覗き込んだ。そこには泣き出しそうな笑顔の自分が二人、映っていた。きっと同じ様に自分の瞳にも彼が映っているに違いなかった。
   
 雨はいつの間にか止んでいた。木の葉からぽたぽたと落ちる雫が遠くで聞こえて来る。湿った風の帯が天窓から流れ落ちて、冷たい牢の中を一撫でしていっ た。
鳥が一声鳴いて、窓の外を羽ばたいて行った。雨の終わりと共に、世界が長い眠りから覚めた様だった。
 数日前のメンテナンス室での激情が嘘の様な穏やかな一時だった。
 天窓の外の空が一瞬翳った。009が見つめる瞳の色もそれに合わせて暗くなった。と、思うと灰色の雲が割れてレースの様な光の帯がふわりと舞い降りて来 た。  その瞬間暗い瞳は息を吹き返し、何かが乗り移ったかの様に輝き始めた。
  
 光の帯に包まれ、二人は間近の互いの眼差しに捕えられて身動き出来なかった。009はリアの瞳にいつか見た漆黒の宇宙を思い、リアは009の瞳に夕暮れ に 海に還り行く太陽を思った。
  
 今二人を隔てる物は何も無かった。切なく優しい感情の波が二人を包んでいる事が分かっていたから、リアが静かな声で突然語り始めた時、009は驚く事は 無かったし、当然とも感じていた。
  
  
 「・・・・・ああ、そうだ、あの夜俺はお前を見た」
  
  
 平坦に聞こえるリアの声の、僅かな息遣いの裏に見え隠れする感情の色目が、今此処に晒されようとしていた。
  

 「扇形の滝壷の中に月が・・・・あんな澄んだ月は見た事が無い。そしてその中に誰かが居て、俺は動けなくなった」
  

 二人は一瞬にしてあの夜に駆け戻って行った。裸を包む冷たい水飛沫、閉じた瞼に感じる月の光は、暗い夜空の幕の中で展開された映写機の光源の様だ。  闇に浮かび上がった情景の中に突如現れた細い稲妻が、二人の間に投げ掛けられ、身を切り裂いたのだ。
  
 
「それから・・・・・?」
  
  
 
「眼下の水の中に、岩の上に、お前が濡れて、月の光を浴びていた。自分の手が、心臓が凍りついていた。熱くて、とても冷たかった。」
  

 「・・・・それから・・・・?」
  
  
 「余りに熱く、冷たくて、俺は生身に戻ったかと錯覚した。だったら今なら俺は死ぬ事が出来るかもしれないと、そんな事を考えていた」
  
  
 「・・・・・・・・」
  
  
 「俺達は近い内、再び戦場で相見えるだろう。そうすれば俺はその時初めて自らの意志で生きて、死ねるのだと思った。だが、お前は俺を二重に 縛り付けてそれを許さなかった。俺は気が狂いそうだった。失った生身の記憶が、目の前の手の届かない場所にまざまざと現れる様な・・・・  もう決して取り戻せないと、分かっているのに」
  
  
  
 009は黙って彼の言葉と息遣いを聞いていた。あらゆる記憶と言葉が胸の中を渦巻いては去って行った。
 目で窓の外を横切る鳥の影を追った。頬に柔らかな風を感じた。そしてゆっくりと厳かに微笑んだ。
  
 リアは眩しそうに目を細めた。途端に009の瞳の奥が揺れて、そこに映る自分の姿がたちまち歪んで押し潰され、光の粒になって彼の頬の上を  きらきらと滑り落ちて行くのをリアは見た。
たった一筋きりだった。
  
 リアの手がゆらりと動いて009に伸ばされた。それが合図になった。
取り憑かれた様に二人の顔が近付いて、もう唇が重なっていた。僅かに離れてもう一度、そしてもう一度、次の瞬間には既に離れられなくなっていた。
 唇が開いて舌を絡め合った。あやす様に、噛み付く様に繰り返される止めどない口づけ。呼吸が縺れ、溜らずに009は相手の腕に縋った。
熱い息がふたりの口の端から漏れた。リアはひと際舌をきつく絡めて、弱く強く吸った。009の頬から耳まで唇が彷徨った。009の体が仰け反り、 リアが支えて抱きよせた。その拍子にまた唇は深く重なり合い、互いを求め合う事を続けた。
  
 
二人の唇と体が躊躇いがちに離れて行った。
頬と目元を上気させ、009は息を弾ませながら放心していた。
  
 肩に触れていたリアの指が落ちた。その一瞬で我に返った009は、うろたえて指で濡れた唇に触れた。
  
  
 「あ・・・・」
  
  
 リアの眼差しが歪んだ。009を突き飛ばし、勢いよく離れて距離を作った。
  
  
 「リア・・・・・」
  
  
 「もう行け」
  
  
 リアは背を向けた。
  
  

 
 「リア・・・・・!」
  
  
  
  
 「・・・・・行け・・・・・!!」
  
  
  
  
  
  
  
  




 雨雲が去ってすぐに陽が落ちた。暗い独房に丸で海そのものが迫って来る様に波の音だけが重く響いていた。
 
 冷たい床の上に黒い大きな物体が蹲っている。時折小さく大きく震えて、蠢く。荒い呼吸音がそこから響いている。苦し気な、苦し気な今際の際を 思わせる喘ぎだった。
 
 喘ぎながらその黒い物体はゆっくりと床の上を動き始めた。ずるり、ずるりと幽鬼の如く、僅かに離れた所に横たわるサーベルの元へと灰色の床を這って行く のだ。
 そこから突如伸ばされた手が、探る様な動作で床を引っ掻き、ぐっとサーベルの柄を掴んだ。震える両手が鞘を抜いた。
ばさっと云う音と同時に床に滑り落ちたのは黒いマントだった。リアは豹の様に丸めた背中を何度も上下させると、抜き身になったサーベルの先を、 押し殺した呻きと共に自らの喉元に勢い良く突き立てた。
 
 切っ先は喉元の数ミリ手前で止まった。血管が浮き出る程力が込められた柄を握る手がぶるぶると震え、汗が首筋を流れて行った。
 
 ガランと重い音がしてリアの手からサーベルが落ちた。
 
 臓物を吐き出す様な息は途切れなかった。両の目がぎらぎらと暗い虚空を睨んでいた。
 
 
 
 
 
 
 明かりが消された個室。ベッドの上に丸く蹲る、灰色の毛布を引っ被った体。震える様に何度も蠢き、合わせて性急な息遣いが漏れ出て来る。
 低い嗚咽と共に体が蛇の様にのたうった。
 突然静かになって毛布が払い除けられた。汗と涙で髪が頬に張り付いていた。浅い呼吸に合わせてを繰り返して体が上下した。
 濡れた赤い瞳が虚空を見つめていた。
 
 
 
 


 
 六時間が経過した。真っ暗な独房には誰も居なかった。当然、マントもサーベルも姿を消していた。
 
 
 




 
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