何でも無い事
ジョーはテラスの窓ガラスに張り付いて、ぼんやりと外の海を眺めていた。
闇夜だった。海は時折白い波の端を見せるだけで、その他は何もかも黒い闇一色に塗り潰されている。
── 雨になりそうだ
そう呟くと、
── あら、大変!洗濯物を取り込むのを忘れていたわ・・・!
言葉を聞き付けたフランソワーズが、お茶を皆の茶碗に注いでいた手を止めてポットを慌てて置き、バタバタとドアの方へ走った。
── ああ、僕が行くよ・・・!
ドアの近くにいたピュンマが裏庭へ走って行った。
彼のココア色の手が、横顔が、最後に靴下を履いた足が、ドアの向こうの闇に飲まれ、消えた。
ピュンマがすり抜けて行ったドアの隙間から廊下の冷気がさっと忍び込んで来たが、淹れたてのお茶から立ち上る熱い湯気がそれを瞬く間に奪ってしまった。
香ばしいお茶の香りを感じながらジョーは、ほとんど黒一色の外の景色のほかには何か見えぬかと、額を冷たいガラスにぺったりとつけた。
その時、ガラスの向こうで何かが動いた気がした。
ひたと見つめてみた。── 何も気配は無い。
ジョーははた、と思い当たった。
外に何かが居るのではなく、ガラスのこちら側で何かが動き、反射したのだと。
まるで何でもない、当たり前の事だった。なのにそれが一瞬の注意を引いたのは、その動きや気配が何となく不自然な気がしたからだ。
ジョーはくるりと振り返った。
それは『気配』と言うより『視線』に近かった。
フランソワーズが続いてお茶を淹れている。
アーチ型の壁の向こうのキッチンで、陳大人が盛大な鼻唄を歌いながら明日の朝食の下拵えをしていた。
ジェットはカーペットに寝そべって雑誌をめくり、
ソファの上ではアルベルトが新聞を読んでいた。
ぼんやりした疑問が頭に浮かんだものの、それは全く対した事では無かったので、すぐに消えた。
── ジョー、お茶が入ったわよ
フランソワーズの言葉に笑顔で答えて、窓から離れた。
ある日の昼下がり、ジョーはリビングの室内の鉢植えの手入れをしていた。
鋏で伸びたポトスの茎を景気良く切り落としていると、また不自然な気配を感じた。
部屋を見渡すとジェットが鼾をかきながらカーペットの上で昼寝をし、
窓の外では、花壇の手入れをしているジェロニモが肩に肥料の袋を担いで倉庫の角を曲がって行く所だった。
アルベルトはソファで本を読んでいた。
──ジェットが風邪を引きそうだ
そう考えてジョーは毛布を持って来ようと立ち上がった。
ジェットと街へ買い出しに行く事になった。
もう既にガレージに行ってしまっているジェットを待たせまいと、玄関ホールでジョーは急いで靴の紐を結んだ。
ふと上を見上げた。
ホールには吹き抜けになった階段が二階へ続いている。
その二階の手摺から、アルベルトがこちらをじっと見下ろしていた。
── ・・・何か買って来る物ある・・・?
── ・・・そうだな・・・いや、大丈夫だ。特には無い
── 分かった。行って来るね
── ああ、気をつけて
銀色の頭は手摺の向こうに消えた。
それを見届けてからジョーは玄関の扉を開け、ガレージへと歩き出した。
2010.9.12改訂
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