モドル | ススム | 009

  十八歳  

 カーテンが海風を孕んで窓一杯に旗めいている。空に収まりきれない雲が部屋の中にまで侵入して来たかの様だ。


 まだ浅い夏の日、青い空と風の色が、若いふたりを押し包もうとしては去って・・・。



 ────── ・・・ねぇ・・待って、ジェット・・・!


 ────── いいだろ・・・ちょっとだけ、ちょっとだけだからさ・・・!



 潮の香りのするベッドの上で、ジョーは弱弱しく訴える。
ジェットは遠慮がちな抵抗を封じ込め、相手のシャツの下の肌に手を這わせた。
 
 息を飲んで身を震わせたジョーの顔は、真っ赤に染まっている。その瞳に浮かんでいるものは驚きや羞恥の色であって、嫌悪や侮蔑では決して無い事をジェッ トは知っている。この自分の愛撫が彼の中に熱を与え悦びを目覚めさせつつある事実に、ジェットは恍惚とする。

 乱れたシーツに散る茶色の髪に顔を埋め、耳に舌を這わせる。ジョーは堪らず切ない息を零す。
押し殺した声も、乱れた息も、紅潮した頬も、何もかもが愛おしい。
 ジェットは相手の首筋に唇を押し当てながらシャツをぐいと胸の上まで押し上げ、しっとり汗ばんだ肌に唇を押し付けて、いよいよ本格的な愛撫に取り掛かろ うとした


 その時、


 ────── ・・・・・・・!!
 
 

ジェットの体の下でジョーが大きく身を捩った。はっとしてジェットが顔を上げると、ジョーは真っ赤な顔をし、焦った様子で起き上がろうとしている。



 ──────  あああ、あの、ご・・・ごめん、アルベルトが呼んでるから・・・!


上ずった声でわたわたと後ずさり、ジェットの下から這い出した。
そうして捲れ上がったシャツを急いで下ろし、乱れた胸元とぐしゃぐしゃの髪を焦って覚束ない手付きで直しつつ、ばたばたと部屋から出て行ってしまった。



ジェットはベッドの上で呆然とそれを見送った。




 部屋に一人取り残されたジェットはしばらくベッドの端にじっと座っていたが、やがて立ち上がって窓に歩み寄り、膨らんだカーテンの中に入り込んで外を眺 めた。
 息を飲む程に青い空。真夏にはまだ少し早い季節の隙間。海は穏やかに優しく凪いで、天球をじっと支えている。
春を忘れ、輝きの季節を待ち望む。
ふんわりと体を包む潮風には僅かに夏の香りが交っているのに、眩しい太陽も砂混じりの熱い風もまだ水平線の向こうにある。
今の自分にはそれは永遠に来ないか、来ても気づかずに通り過ぎていくだけの様に思えた。


 部屋一杯に吹き込んだ風がオレンジ色の髪を大きく波打たせた時、ジェットは窓枠に足を掛けて身を乗り出し、一気に大空へと飛び出した。

エンジンをフル回転させて青い空を一直線に突き抜けて行く。
胸に海の香りを、耳に潮騒の響きを、瞼に太陽の眩さを感じ取る。家の屋根は見る見る内に小さくなり、砂浜と白い波打ち際が現れ、やがて眼下には海が広がっ た。


 体を突き抜ける圧倒的な爽快感。まばらに浮かぶ雲の間を突っ切って行くと、顔に当たる水の粒の冷たさが心地よかった。
ジェットはすっかり楽しくなり、調子に乗って更にスピードを上げた。頬を打ち、体を揺さぶり翻弄しようとする風に真っ向勝負を挑む様に。

 さざ波に揺れる海面はまるでかき混ぜた青いゼリーだ。
所々点在しているいびつな形の島々は散乱したパズルのピースだった。
 
このまま海を渡れば太陽を超える。行ってしまおうか。故郷の街、N.Yへ。



 
愉快な思いつきにジェットの心は興奮に踊った。風が髪と防護服では無い衣服を旗めかせ、まるで本当に翼を背負っている様に感じた。
自由の空気の味は知っているはずなのに、今心を満たす感覚はかつてのどれとも違っていた。
たったひとり遮る物が何も無い大空、此処には誰も来られない。此処に自分が居る事は誰も知らない。



 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 霧状の雲が強い風に押し流され、切り立った山々の真上に集まって旋回しているのが見えた。 
見知らぬ場所だった。どの位の時間が経っていたのだろう。もう自分がかなりの距離を飛んで来た事にジェットは気付いた。
いつの間にか薄い雲が増えて太陽の光が陰っていた。 
真下では灰色の岩肌に群がる様に白波が繰り返し打ち寄せている。
粉々になり、飛び散った海の欠片。それを見て何かに似ていると考えたら、裂けた皮膚から噴き出す血飛沫なのだと思い当たった。


ジェットはエンジンを弱めて上空で停止した。


見知らぬ海、見知らぬ山々、見知らぬ風の色。

遠くに目を凝らしても懐かしい街は見えないし、振り返っても今しがた自分が居た家が目に入る筈は無かった。


置き去りにした想いと届かない季節。

 
 戻ることも進む事も出来ずにジェットは、青く塗りつぶされた心を抱え、風に吹かれたままいつまでもその場に漂っている他無かった。







2010.9.12改訂
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