夕暮れ便り
・・・こちらは潮風も随分冷たくなって朝晩は寒い位だ。窓から見える遠くの山々も日を追うごとに赤く色づき始めて
いて・・・覚えているかい、去年君と一緒に登った山だよ・・・
ドイツの秋はどんな様子だろう・・・・・・君の住む街はきっと・・・今度そちらに行く機会があったら・・・
・・・せめてクリスマスの頃にはまたこちらに帰って来られるかな?聖夜の美しさは君の国にはとても敵わないけれど、僕も皆も
首を長くして待っているよ。
・・・だから・・・この次会えたら、アルベルト、君があの時・・・
そこでタイプライターを打つ手が止まった。部屋は静まり返り、指はキーの上で固まって、これ以上どうしても進もうとはしなかった。
ジョーはキーを打つ姿勢のまま点々と活字の並ぶ紙をじっと見つめ、やがて溜息をついてそれを破り去った。
たかが手紙を一通仕上げるのにもう三日も費やしている。最初は手書きにするつもりでペンを握ったものの、自筆というのが何だか重い様な気がしてきて、一
歩も筆は進まなかった。
それで今日はわざわざタイプライターをグレートから借りて来たのだ。キーを押すだけで文章が綴れるタイプは、手書きよりももっと簡単に伝えるべき言葉を
引き出せる筈だったが。
元々何を書くかなんて自分でも解っていないのだ。ただ意味の無い言葉を綴って、自分に言い訳しているに過ぎないのだった。
部屋の時計は午後五時を廻ろうとしていた。
ジョーはキーの表面を指でぼんやりとなぞり、ひとつ大きく伸びをして、立ち上がって窓へと歩み寄った。
今日の終わりを告げる光は眩く、太陽は既に赤く染まっていた。カーテンを捲くったジョーは思わず目を細め、ほんの一瞬、胸に疼く悩みを忘れた。
二週間前、ジョーはこの部屋のこの同じ場所で、ある告白を受けたのだった。
『愛している』
『お前さんを困らせるつもりは無い』
『返事はいつでも構わない。だが・・・』
『・・・だが・・・』
──────・・・『待ってる』
そう言い残して彼は翌日ドイツへと帰って行ったのだ。
その言葉に何か応える事も彼を見つめ返す事もジョーは出来なかった。
彼は直ぐの返事を求めず、何を強いる事もしなかったが、代わりに重すぎる荷物をこの自分に負わせて行った。
今まで予感がめいた物が全く無かった訳ではない。けれどこれが彼の愛の重さだと受け入れるには、自分は愛を知らなさ過ぎた。
ジョーは頭を冷やすつもりでふらりと夕暮れの色に染まるテラスに出た。
そうして手摺に凭れてしばらく目を閉じ、冷たい潮風に体を浸していたが、やがてゆっくりとポケットを探って、一枚の
絵葉書を取り出した。手紙を書こうとやっきになっていた最中の昨日ジョー宛てに届いたもので、ずっと持ち歩いていた為に皺になってしまっている。
何だって彼は急に絵葉書など寄こしたのだろう。お伽の国の様な町並みの写真の裏、訝しい気持ちで読んだ、少し滲んだ消印と共に書かれた内容とは。
・・・こちらに帰ってからほとんど休みが取れず、仕事の滞在先の街でこれを書いている事、長いこと日本に居たせいでドイツがこんなにも寒いのを忘れてい
た事、もう張々湖の作る中華料理が恋しくなっている事・・・。
最後に跳ねる様な筆跡で彼のサイン。
何でも無い言葉、ごく気軽な文章。
改めて読み返しながら、ジョーの胸の中には、ひっそりと一つの記憶が蘇っていた。
夏の初めの頃だった。二人はこの同じテラスで、今と同じ色をした夕映えの中に居た。取り留めの無い会話はいつの間にか途切れ、黄昏の潮風に吹かれて、二
人は互いの瞳の中で小さな夕陽が徐々に色を変えて行くのを見た。
この時自分たちはどこか二人きりで遠く離れた世界にいたのだと思う。
そこには過去の悲しみも戦いの憂いも存在しなかった。
言葉など要らない、もうどちらかの居ない世界など考えもつかない、そんな場所だった。
心の内に何か温かく切ないものがこみ上げる。
眼前で黄金の欠片が海一杯に散らばった。
皺になった葉書とそれを握る手が濃い赤に染まる。日没。
見上げた紫色の東の空にはガラス粒の様な星がいつの間にか浮かんでいた。
ジョーはそっと葉書をポケットにしまった。
そして、その日最後の輝きを吸い込む様に目を閉じる。
彼が伝えたかった事、彼が思っていた事。
タイプライターはもうグレートに返してしまおう。
明日、もう一度ペンを取り、葉書を書こう。
今見た夕暮れの景色を彼に伝えて、最後にこう書けたらいい。近い未来の日、もう一度同じものを君と見たい・・・。
そしてそれに返事が来たら・・・
今度は手紙を出すだろう。言葉を選んで心を込めて、迷わずに。
駆けて行く太陽、夕暮れの便りを乗せて、海の彼方のあなたへ。
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