645年大化の改新の後、都は飛鳥から摂津に移され、摂津国は当時我が国の政治の中心であった 当時、全国は畿内(五畿)と東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道に分けて治められており、各地に国司・郡司が設置される一方、中央には左右京職、摂津には摂津職が置かれていた 当初、摂津国は十二郡であったが、その後、713年(和銅六年)に川辺郡から能勢郡が分かれたことにより十三郡となった 平安時代後期に武力を養い大小の武士団が成立し、摂津では渡辺党、多田源氏が代表的武士として勢力を持っていました 多田源氏は摂津守に任じた源満仲の後裔であり、源満仲の嫡男頼光は摂津源氏の租となり、子孫が各地に繁栄した 摂津能勢地方を領した能勢氏は頼光の流れで、多田頼綱の孫国基が摂津国能勢郡を領したのが始まりと伝えられる 国基は頼朝の親密な一族として扱われており、後の世で幕府に加担することとなり、一族の盛衰を分けることとなる 幕府方について繁栄した能勢氏も室町時代が終わり、織田信長の登場により凋落の道を歩むことになる 頼道は将軍家を滅ぼした信長に味方することはできないとし、塩川国満に討たれる 頼道を討ち取った塩川勢は、一気に北上して能勢へ攻め寄せた 能勢氏は頼道の弟頼次を家督に立てて防戦したが、本城である丸山城は陥落、頼次は為楽山(のちの妙見山)に移って抵抗を続けた 豊臣秀吉と明智光秀との間で山崎の合戦が行われ、能勢氏は光秀に加担した そのため能勢一帯は秀吉軍の侵攻を受け、神社仏閣はことごとく焼き払われ、 頼次は数名の家来を連れて備前国岡山城下へ落ち延びて行った 秀吉が死去したのち徳川家康の世となり、頼次は家康に召し出され、ささやかながら能勢氏を再興することができた 能勢氏を再興した頼次は、感謝の念から法華経の信仰を深め、日乾上人の説法を聞き、その法話に感激し広大な山屋敷を寄進した かくして、能勢に住した日乾上人は眞如寺を興し、能勢地方一帯に日蓮宗=能勢法華が成立していった さらに上人は、能勢氏が信仰する妙見大菩薩を法華宗の守護神とし、上人自ら彫刻した妙見大菩薩像を能勢領が一望できる為楽山の山頂に祀った ときに慶長八年(1603)のことで、これが能勢妙見山の始まりである |
<能勢氏と妙見さん >