漢字教育士ひろりんの書斎日本語の本棚
2015.7.  掲載

 【失敗作】抗生物質

 以下の文章は、このHPに掲載するために作成したものですが、ほぼ完成した後に、全くの間違いであることが判明しました。文中に他者をあげつらって「思い込みは怖い」と書いている本人が、思い込みによる間違いを犯してしまいました。ボツにすればそれでいいようなものですが、今後の自戒とするために、あえてそのまま掲載して恥をさらすことといたします。
 なお、「正解」は最後に書き加えました。


「抗生物質」という言葉

 「抗生物質」を広辞苑(第6版、岩波書店)で引くと、読みの欄が「こうせい-ぶっしつ」と区切られている。この区切りは、「語構成を示すため、語源上からこれを二つの基本部分に分ち、「-」でつないだ。」(凡例)とのことである。
 果たしてこれでよいのか。物質はともかく、「抗生」という語は意味をなすのか(生に抗するということは、死ぬためのクスリか?)。もちろん、当の広辞苑にも、「抗生」という語は収録されていない。仮に「対抗する性質を持つ物質」という意味を表したいのなら、「抗性物質」と呼ばなければならない。
 抗生物質という語は、明らかに外国の専門用語の訳語として作られたものである。その決定の経緯も学会などに残されているかもしれないが、容易に見当たらないので、以下に推論を述べる。
 英名はantibioticsであり、antiは「抗」に対応する。bioticは「生物の」という意味の形容詞であるが、antibioticで「生物(すなわちばい菌やウィルス)に対抗する」という意味となり、これにsがついて名詞形となったものであろう。
 この英名を考案したS.A.ワクスマン自身による抗生物質の定義(1941年提唱)は、「微生物によってつくられ、微生物の発育を阻止する物質」である(世界大百科事典 改訂新版 平凡社 2007年、下線筆者)。ここにも「物質」が出てきてまぎらわしいが、平たく言うと、ばい菌やウィルスの繁殖を抑える薬ということである。下線部の「阻止する」を「抗」、「微生物」を「生物」と要約すれば、「抗・生物」となる。「生物」を「生」と略すことは、日本語としてまずありえないだろう。
 語尾に「質」をつけて物質を表す造語法は、生化学の分野では普通に用いられる。たんぱく質、キチン質、細胞質など、多数の例がある。
 したがって、抗生物質とは、抗・生物・質と区切るべき言葉であると考える。そうなると、読み方も、「こうせいぶっしつ」ではなく「こうせいぶつしつ」とするべきであろう。
 「抗生剤」という言葉もあるが、これは抗生物質を上記の認識無く省略した言葉だと思われる。
 以上のことは、それほど高度な知識がなくても考え付くことだと思う。広辞苑執筆者や「抗生剤」の命名者は、「物」と「質」がたまたま続いているために「物質」という熟語をまず認識してしまい、「抗生」という語?の不自然さに気づかなかったものであろう。思い込みは怖い。

 以上、エラそうにぐだぐだと書いてきたが、ここで念のために最新の辞書をいくつか調べてみた。「明鏡国語辞典 第二版」(大修館書店)、「新明解国語辞典 第七版」(三省堂)、「学研 現代新国語辞典 改訂第五版」(学研教育出版)。いずれも、「こうせい」「ぶっしつ」と分けるように記載されている。綺羅星のごとき国語学者が名を連ねている各辞書が全て(かどうかは未確認だが)広辞苑と同様の立場をとっている。さらに日本最大の国語辞典である「日本国語大辞典 第2版」(小学館)でも「こうせい」「ぶっしつ」となっているだけでなく、「抗生剤」まで収録されている。こうなると、自信過剰気味の筆者とはいえ、やみくもに「私の説が正しい」と主張するのは無謀なことのように思えてしまう。本稿を読まれた方はどう思われるだろうか。



 上記の論の誤りは、「抗生」という単語は存在しないという思い込みによるものである。文中にあるとおり、「生に抗する」では意味が通じないし、筆者が見た限り、「抗生」を見出し語とする国語辞典は一冊もなかった。しかし、薬学辞典にこの項目があることが分かった。
抗生 英antibiosis  2種の微生物を同じ培養基の中で増殖させると、一方が増殖するのに対し、他方の増殖が阻害されその数を減少していく微生物間の拮抗現象。(「薬科学大辞典」第4版 2007年 廣川書店)
 しかも文末には(→共生)とある。抗生とは共生の対義語だったのだ!うかつであった。
 さらに調査すると次のような解説も見つかった。
微生物相互の発育増殖については共生symbioseと抗生antibioseという現象が古くから知られていた(村田道雄:日本大百科全書 第8巻 小学館 1986年)
 自然科学の用語を調べるのに、専門分野の書籍を見ず、国語辞典ばかりに頼ったのがそもそもの間違いであった。

 抗生が共生の対義語であるとわかると、抗生は「生に(あらが)う」ではなく「抗って生きる」という意味とわかる。共生が「共に生きる」としか解せないからである。
 しかしそうなると、抗生物質は「抗って生きる物質」となり、物質が生きていると言っているようで違和感を生じる。先のワクスマンの定義のとおり、抗生物質は「微生物によって作られた(中略)物質」で、抗生現象の原因となるものであるから、「抗生原物質」または「抗生性物質」とでも訳したほうが良かったのではないだろうか。
 専門分野の用語でも、往々にして多くの国民が使うようになることがある。命名にあたっては、その分野の専門家の独りよがりの名前とならないよう、語学専門家の関与も必要と思われる。理系と文系のコラボレーションが、気持ちよく使える日本語を作り上げるうえで、重要であると考える。
 (反省文のつもりが、またエラそうなことを書いてしまいました。)