商・夏の会井藤敬三の書斎
2020.2  掲載

 「鉄」字考

一、 はじめに
 日本語研究第15号の応募論文に、常用漢字「鉄」に関する論文を投稿したが、原稿用紙6枚という枚数制限と、資料等に当たるための時間的余裕の無い状態で出来上がった文章を提出することとなった。
 その後調べた書籍等から分かった事実も含めて、枚数を気にせずに結論に迫ってみたいと思う。

二、 常用漢字「鉄」
「『鉄』という字はなぜ、『金』偏に『失う』と書くのですか」という素朴な疑問がネット上に出ていた。
 質問者がどのような立場の人なのかは分からない。けれども、質問者は回答者の人たちの答に納得できていないだろうなという感覚を強くもった。
 どこを探しても、「鉄」字に関するまとまった研究論文が見つからなかったため、回答者の資料等を参考にして、整理していくことにした。
 角川字源辞典には「金属の意味を表す『金』と音を表す『kyuutetutukuri.png(1588 byte)』とからなる形声字。この音の表す意味は『(でつ)』=黒色の土の意」とあった。
 しかし、この説明は旧字の「鐵」の説明ではあっても、現字の「鉄」の説明にはなっていない。
 鐵は、昭和21年アメリカ占領軍GHQの戦後処理の一環として、「漢字全廃を目的に漢字を制限するための表」に掲載された一八五〇字の当用漢字の一つに選ばれた。画数が二十一画と多いため、当時既に略字として使われていた「鉄」と表記されることに決まった。
 このあたりの経緯は、明石市にある兵庫県立図書館で昭和20年以前の書籍を検索した中で、昭和十五年発行の石黒修著「日本語の問題」という書籍を見つけ、その中に以下のような文章を見つけたことで一つの真実が分かった。
 「・・・漢字は十五画以上のものは整理すべきであるといわれているが、・・・中略・・・〔一月一日以降に惨、関、歯、塩、余、台(擡は抬とせず)弁、双、鉄などと増えているのは當を得た處置と思ふ。・・・〕
 この著書は、そのときの私からすれば戦前の本であるにもかかわらず漢字の在り様に否定的な感じのする初めて出会う質の本であった。
 その後、野村雅昭著「漢字の未来」(株)筑摩書房で衝撃的な学習をすることになる。その内容は本題から回り道になるので後に回すとして、その本の中で常用漢字「塩」という字に関して、鎌倉時代吉田兼好著「徒然草」一三六段に既に「鹽」の俗字として存在していたことを知った。
 香港中央大学日本語研究学科、兒島慶治氏の"塩"字考によると、「奈良時代から昭和初期まで一貫して「しお」字の俗字体は、土偏(どへん)の"塩"字形が主流であった」という。正字といわれた「鹽」は「大唐帝国においても写文形式や石刻形式のもので、主に支配者または、貴族階級の目に触れるのみで、一般の庶民までの普及に至っていなかったと言える。その為に唐人が俗字体を書くのは漢魏六朝以来の旧習に沿うもので・・・」あったという。

 話を「鉄」字に戻すが、鉄の字源が説明される場合、形声文字として旁の「失」は"テツ"という音を表す部位としてのみ使われ、失そのもののもっている"なくす、うしなう"という意味は無いかのごとくに表現される場合が多い。
 しかし、「失」そのものには"シツ、イツ"しか音は無い。
 鉄を形声字としてその旁「失」を"テツ"と読む根拠として、更迭・蹉跌・佚蕩などの熟語が引き合いに出される。が、迭・跌・佚のいづれの字も単独で"テツ"と使われることはない。それに、先の熟語には"地位を失う、失敗する、しまりを失くす"など「失う」という意味合いが色濃くある。
 私が疑問に思ったのは、「失」を"テツ"と読む先の根拠は、むしろ逆で、鉄を"テツ"と読んだために、更迭、蹉跌、佚蕩などを"カフテツ、サテツ、テットウ"と読むようになったのではないかというものだった。
 それほどに、"てつ"という字のもつ意味は大きかったのではないだろうかという疑問であった。
 表音文字に対して表意文字が極めて優れている点は、文字そのものに意味と根拠(歴史)があり、象形文字として始まり、時代とともに変化しても、遡ってその語源に到達でき、字そのものが単独でも豊かなイメージをもって想像力をかきたて、過去の真実に迫る原動力を有している点にあると思う。
三、 異体字「yatukuritetu.png(587 byte)
 私がこの疑問にこだわるのは、ずいぶん前になるが、帰省先から神戸に帰る車の中から「東洋製yatukuritetu.png(587 byte)(株)京都工場」という大きな看板が見え、奇異に感じたことがあったからだ。一拍おいて同乗する家族に字の誤りを指摘し、「字の誤りにさえ気づかないような会社は、それが如何に大きな会社であろうとも早晩潰れるだろう。」と断言したことがあったからだ。
 このことは久しく忘れていたが、勤務する工業高校の機械工場準備室で、旧字の鐵が話題になっていたとき、民間人材登用「匠の技」で旋盤講師で鉄工所を経営されている本校卒業生の方から「テッコウショの"テツ"は、金偏に『矢』か『失』か、どちらが正しいのですか」と訊かれたのだ。
 (はた)と先の出来事を憶い出し、ネットで調べてみることにした。すると、
「鉄道業・鉄鋼業関連の会社では、『鉄』という字は、"金を失う"と読めることからこれを嫌い、"金が矢のように入る"という願望をこめて、わざと『yatukuritetu.png(587 byte)』を使っている」ということだったのだ。
 鉄道業では、赤字経営に悩む(四国・東海を除く)JR日本旅客鉄道㈱各社が社名をロゴ(意匠デザイン文字)として使用しているということだった。
 この字「yatukuritetu.png(587 byte)」は、大修館漢和辞典(京都大学人文科学研究所漢字情報センタ所蔵)に「金部五画やじり、鏃に同じ」と出ていた。
 また、JIS(日本工業規格)補助漢字X0212 535Aに歴として存在していて、パソコンでもワードなどで印刷することもできる。
 私が家族に自信を持って語ったことは間違いだったのだろうか。
四、 古字「銕」
 銕は鐵の古字であるという。古字とは、昔は使われていたが、死語となった字のことをいう。
 鉄に関する歴史・民俗調査研究家の窪田蔵郎氏はこの字から、曾て日本に齎(もたら)された鉄は、旁の「夷」が示すように東夷=トルコ系民族突厥或いは韃靼人のものであり、日本古来の踏鞴製鉄のタタラという語は、韃靼の語源である「()(ター)()」から転訛したと判断されている。「鉄から読む日本の歴史」講談社学術文庫
 旁の「夷」は、大部三画の字である。(因みに「失」は大部二画)大正拾四年発行の「大漢和辞典」㈱春秋書院、神戸市立図書館蔵 には、「野蠻人が常に弓を持っているところから大(人の義)に弓を配して、夷、未開野蠻人の義を示す。会意」とある。(福武漢和辞典には「もとは矢」と書かれている)また、「銕は、「くろがね、鉄の古字〔集韻〕銕、鐵謂二之銕一古以爲二鐵字一(銕は鐵の意味で古は鐵の字として使われた)」大修館漢和辞典―前出
 銕はいつごろ使われ、なぜ死語となってしまったのだろうか。
 少しでも参考になる資料はないかと思い、「塩鉄論」という書物(山田勝美著―中国古典新書、明徳出版社)を読んだ。時代が漢の時代だから上記窪田氏が語る時代に近いのではないだろうか。
 漢の昭帝(BC86~74)が天下の各郡から賢良・文学の士を召集し、塩鉄酒の専売制度の是非を下問したときの口頭の問答をのちに文書化したものを解説したものである。どの場合でもそうだが、当時の漢字の問題にまで言及している文献はないといってよいほどである。漢の当時、"テツ"字を銕・鐵・鉄のいづれの字を使っていたのかは、この文章からは分からない。文章化された場合、文章にされた当時正字とされた字が文面に残ることが多い。(すなわち、宋の時代に書かれた漢の文章は宋の時代に正字とされた字が書かれているだろう。)「銕」字が漢の当時使われていたかどうかを知るにはその当時の石碑なり、写文なりに直接触れる以外にないのである。
 ただ、その著書紹介の中で、各種「塩鉄論・塩鐵論・鹽鐵論」などがあったが、中に唯一つ「塩銕論訳義大意」有吉敏著というのがあった。直接その本に当たることは難しく検証をしていないが、著者は時代考証を考えてこの字を使われたのではないかと考えた。

五、 旧字「鐵」
 鉄鋼科学の第一人者といわれる本多光太郎博士が、この字を三部に分けて「金属の王なる哉」と分析したのは、鉄学に傾倒の深い人ならではの解釈であろう。
 白川静著「桂東雑記」に「saikamae.png(706 byte)」に初めてという意味があるという。これを加えて解釈すると「初の金属の王」(秦の始皇帝のように)となる。この字は、歴史的に最も長く正字として君臨してきた。
 鉄鋼業で日本を代表する新日本製鐵株式会社がこの字にこだわり、また、各地に鐵工所と表記し続ける会社があるのは、単に戦前からの会社で昔の表札を掲げているとか、旧字への郷愁があるという理由ではないことがよく分かる。
新聞紙上では、新日本製鉄(株)、JR西日本鉄道(株)など「鉄」字が使われているのはいうまでもない。

六、「titu.png(1844 byte)」の古字「鉄」
 思わぬところから、仮説を裏付ける証拠が出てきたように思った。断片的な資料にとどまっていて整理がつかなかったのだが、このように字の変遷を歴史的に見てくると、見えてきたものがある。
 昔、「titu.png(1844 byte)」という字があったという。欽定四庫全書(漢字情報センター前出)には、「・・・縫也、納也、索也 古作鉄」(縫う・納める・綱の意味、いにしえは鉄と書いた)とある。
 この全書は、清の乾隆年間(1736~95年)のものであるが、どのあたりを古といっているのかは分からない。しかし、「鉄」字が鐵・銕の俗字として使われる前は"チツ"の意味で使われていたということが分かる。

七、 結論として
 このように歴史を振り返ってみると"テツ"字の変遷を以下のようにまとめられるのではないか。
 東周(BC400年)の頃、農耕の生産性を飛躍的に増大させた鉄製農具や鉄製武器の製法は当時東夷といわれた民族から齎された。その頃は、その字の意味から「銕」と表現されていただろう。
 漢(BC200~AD200年)の頃になると、塩鉄論が示すように"テツ"は、国家統制が必要になるほど農耕・工業・戦争における生死を決するほどの位置を占めるようになる。
 「夷(野蛮人)の金属」という蔑んだニュアンスをもつ字の変遷が迫られる時代になったといえよう。
 唐(AD600年~)の頃、東夷といわれた突厥・タタールの中国への同化の時期になると「銕」は差別字として使用が禁止されたのではないだろうか。
それより以前に"テツ"は「金属の王として」の位置を確保し、「鐵」字が正字として確立するようになる。
 しかし、印刷技術の発達する宋朝(AD11C)の頃までは正字は一般庶民にまでは徹底せず、漢・魏・六朝以来俗字が使われるのが慣習であった。国家が「金属の初の王」と意識して、字画数十八画の「鐵」を使うのとは違った感覚で、一般庶民にとっては書くという行為において字画数の問題は大きかっただろうと推測できる。そして、塩鉄論にもあるように生死を決するほどの金属ではあっても「多く儲(たくわ)ふれば、錆生ず」金属であった。
 もとは「銕」であったが、大部三画「夷」の代わりに大部二画の「失」がとってかわったと考えられるのではないか。「矢」は「夷」の意味に近いがその意味自体が避けられたと考える、また、鏃の俗字として使われていた可能性もある。
 「鉄」字は、古くは、納める・綱などの意味で使われていたが、その用法はむしろ「糸」偏がより適切であろうということで「titu.png(1844 byte)」にかわり、一つの役目を終えた「鉄」字が「鐵」の俗字として使われるという入れ代わりが生じたのではないか。
 この仮説が正しければ、「鉄」字はこのときから"テツ"という音をもつことになる。
 鐵の俗字として「鉄」は、中国では清朝・中華民国・中国まで、日本では明治・大正・昭和21年まで使われることになる。

 戦後日本の復興と技術の飛躍的発展によって、鉄錆は人々の目から見えなくなった。

質問者への解答をするときがきた様に思う。

「鉄はなぜ金偏に失うと書くのですか」

 私がこの問いに答えるとすれば、簡潔に以下のように答えるだろう。
 「鉄は、炭素など不純物が含有されることで、また、熱処理を行うことで人間にとって様々に有効な性質をあらわす金属である。その性質を利用して人類は文明の発展を続けたといっても過言ではない。しかし一方、それゆえ(いにしえ)に貨幣にも使われた鉄は同時に極めて錆びやすく、その機能を失い自然に還りやすい金属でもあった。また、人間の劫から起きるとも言える戦争においては、最も優れた武器としてその機能を発揮した。それ故「鉄」と「人の命・国を失う」という言葉とすぐに結びついたのも想像できるだろう。現在では、技術の発達によって錆びにくい鉄がつくられ、また表面処理技術で錆は我々の眼から見えなくなっていった。しかし、鉄そのものは今も錆と無縁ではない。
 工業における「鉄」は、そのもつ音の響きと意味の大きさから「鋼」(神戸製鋼kkという会社はあるが)という字で置き換えられないニュアンスがあって使われ続けているが、「失」という意味を忌避する傾向がある。が、私たちは、弱点もその大切な性質のうちの一つであることを理解したうえで接しなければならないと思う。
 「titu.png(1844 byte)」という意味を表していた「鉄」字が、金属の「テツ」を表すようになったときから庶民の間で千数百年続いてきた。そのことの意味は、たとえ技術の進歩がその弱点をほぼ克服したとしても、そのもっている負の歴史性「失」の意味を忘れてはならないと警告しているのだろう。」

八、 あとがき
 漢字は、英語で"Chinese  Chracter"といわれる。八月に北京オリンピックがあり、開会式で各国国名が漢字表記されているのをテレビで見た。
 また、今年9月、台湾から高雄上級専門学校の生徒が本校へ交流で来た。本場中国(特に台湾)では、繁体字といわれる難解な漢字が日常的に当たり前のように?使われていることを考えると、漢字を得意としてきた自分が底の浅いものに感じるようになった。
 教材研究もネット資料に頼り、久しく通わなくなっていた書店に足を運ぶことにした。そして、提出論文のテーマ「鉄」にかかわる本を探し、以下の書籍を図書館で借り出すことができ、短期間で関心のある事項のところに付箋を張り読みきることができた。

 白川静著 「桂東雑記Ⅰ~Ⅴ」
 吉田金彦著 「日本語の語源を学ぶ人のために」
 山田勝美著 「塩鉄論」中国古典新書
 野村雅昭著 「漢字の未来」
 一海知義著 「漢詩の世界」
以上の本は、この機会があってこそ読めた貴重な書籍だった。
私たちが子供たちに名前をつけるとき、漢字の音・訓とともに、偏や旁まで、またその意味や語源まで重要視する。
 しかし、私自身工業機械科の教師として数十年鉄と深くかかわりながら、鉄の字の旁を"失う"と意識したことはなく、鉄という字を"金(貨幣・金属)を失う"という風に読むことはなかった。
 このことは、一見当たり前のように日常を通り過ぎている。が、これが日本の国語問題にかかわる重大事だと分かるようになってきた。
 白川 静著「桂東雑記Ⅳ」に「道」の字の解釈があった。「金文の『道』という字は『首』に『手』がついている。異民族の首を手に提(ささ)げて、お祓いしながら進むという意味」であるという。
 また、その「道」字に関して、吉田金彦氏は「日本語の語源を学ぶ人の為に」-世界思想社-でヤマトタケル東国遠征の伝説地名の一つである秩父地方の「秩父」の字の語源について、「私は秩父地方を歩いて、チチブは『道』だなと考えた。」という。「秩父の土地はチハヤブルの土地柄で」あり、「千早振る」は「道を早く経ていく」が語源だという。征夷大将軍という言葉があるように、異民族の土地を制定して帰還するとき、道道経ながら、気がせいて早く都に帰りつきたいという心境がイメージとして浮かび上がってくる。この「道」という字に関しても「首」という字を意識したことはなかった。
 異体字「yatukuritetu.png(587 byte)」を使うことに関して、金偏は決して貨幣のことではなくて、金属のことなのだろうけれど、漢字をこのように読む力は極めて日本人的ではないのだろうかと思うようになった。縁起を担ぐという次元ではなく、生活に結びついた人々の切実な発想ととらえるべきではないか、とも考えるようになった。そもそも俗字というものがそういった形で市民権を得た場合生き残ってきたのではなかろうか。
 しかし、このような混乱が起きるのは私も尋常とは思えない。恣意的な解釈が許されるなら、最後には、日本全体がそれこそバベルの塔のようになってしまうではないか。
もしこの曖昧性が、日本語=漢字(訓)のもっている劫ならば、野村雅昭氏が「漢字の未来」の中で次のように述べるのも頷けよう。
「漢字のなくなるひは、かならず、おとずれる。しかも、それは徐々にではなく、カタストロフィー的に、おとずれる公算がつよい。その確信はいまでも、かわっていない。」二五二頁

 しかし、「ヒラガナの中に漢字が浮かんでいる。ふだん見なれた紙面も、よく見つめると醜悪なものである。」二三九頁
「もし、漢字に意味があるならば、『熔接』『鎔鉱炉』を『溶接』『溶鉱炉』と書き換えることは絶対にできない筈である。」一四五頁
といわれることに関しては、それは、間違いだろうといわなければならない。
 一点目に関して、日本には中国から(朝鮮を経て)はいった漢字を訓読みという日本独特の読み方に確立していった歴史がある。
 白川静氏は、「日本人がその言葉のもつ意味内容を理解するのは訓読を通じてであった。」(桂東雑記Ⅰ一二八頁)「母国(中国)の人よりも我々(日本人)のほうが正確に理解できる。それは、日本人は理解しなければ読めないからです。中国人は『お経読み』に読んでしまう。」(Ⅱ七九頁)
 そしてその結論として、「漢字を完全に国語化したわが国は、漢字が中国に発し、朝鮮を経て日本に達したその末子であるとしても、漢字伝達のアンカーであると同時に完成者でもある。(Ⅳ九六頁)という。
 ひらがなと漢字が共存する日本語は、決して醜悪なものではなく、日本人の歴史そのものであり、日本の美しさである。歴史を完全否定して未来はないと思う。

 二点目、漢字の書き換えについて
 私は長年工業高校で機械技術にかかわる実習と教科を教えてきた。最近では、「機械工作」という授業で製品製作の最終段階の表面処理技術の章を教えたことがある。代表的なものに、古くから「メッキ」という技術がある。この一見外来語と見える言葉が実は日本語であるということはあまり知られていない。この字は、歴史的に「塗金→鉱金→鍍金→メッキ」と変化してきた。(東京都メッキ工業組合)
 奈良東大寺の大仏は十一年の歳月をかけ、AD749年に完成したが、そのときのメッキ技術は、水銀液中に金・銀を入れて溶融し、その液体(固溶体)を刷毛で塗るという水銀アマルガム法といわれるものだった。水銀中で金が溶解して見えなくなることは、携わる人間にとって貴重な金が溶けてなくなってしまったと見えても不思議ではないだろう。これから「滅金」という言葉になったという。
 AD1800年代電気メッキが主流になっていった。電解液中の金属イオンが陰極の工作物表面の電子に引かれ、陽極の金属板が溶けてイオンになって液中に流れ出す様(さま)は、まるで「渡し」の船の移動のようである。この時期にメッキは鍍金と表現されるようになっただろう。字の変化が技術史の変化を表しているのである。
 絶対にできない筈といわれる溶接の「溶」の字についても、鋳造等において溶けた液化状態の金属を「湯」と表現する現場の人たちの意識がそこに働いてきたのだろうと思う。この他にも「慈石→磁石」への変化など漢字には数限りない逸話がある。
 国立国語研究所員であった野村氏が、日本語・漢字を学ぶこと、また教えることの曖昧性・困難性を危惧し、同時に国語の民主化・国際化を真摯に求められていただろうことは以下の文章から十分に感じることができた。
 氏が、家でも漢字を使わず、自室のドアにひらがなで伝言を書いたのを見て、氏の子供が「お父さんはなぜ、ひらかなしか使わないの」という場面に私は胸の痛みさえ覚えた。
 大正デモクラシーといわれる時代、大正十二年に現在の常用漢字のもとといわれる常用漢字表がつくられている。これは結果的に実効されなかった。その原因は、昭和21年にできた当用漢字表との違いであり、一五四字の略字・正字併存の二重構造にあったのではないかと私は思う。
 野村氏が言うように、「戦後の国語改革は占領軍の押し付けではなかった。」と私も思う。しかし、白川静氏が言うように、その後も「常用漢字の字体は一つずつ検討を加え、十分な審議の上で確定されたか、否ほとんど審議が行われていないという様な字が多い。・・・審議の過程は記録には何も残っていないのです。」というのが真実であろう。
 皮肉な見方をすれば、大正十二年の常用漢字表の正略併存の部分を略字のみとしたことと、國という字を囗に王と書くのを玉に変えただけといっても過言ではない。
 当用漢字は、「漢字全廃が前提」であったとして、やむを得ないとして、常用漢字と定義された現在では許されることではないだろう。
 「鉄」字一つにしても、これほどの論議が必要な漢字というものは限りない無限性をもっている。そのことに費やす労力は表音文字で生活する人たちには分からないだろう。最近、素粒子物理の世界で日本の科学者の受賞が相次いでいる。とことん真理を追求する姿勢を要求せざるを得ない日本語は、こういった学問世界に向いているのではないかとも思うようになってきた。これほどのレベルを要求される学問が庶民のものだと言えるだろうか。特定の学問環境に恵まれた人たちにしか分からない学問があるとすればそれは決して民主的なものといえないだろう。とすれば、漢字は全廃すべきものだろうか、…今の私の答えは否である。
 「鉄」という字は、流行(はやり)の様に10年、20年続いたから定着したという質のものではないのである。「yatukuritetu.png(587 byte)」が100年、200年生き続けるだろうか、
 教育に携わってきた者として結論を言えば、「鉄」字は千数百年の歴史を生きてきた。それは、決して各王朝や貴族たちによって支配者の印璽を受けてきたわけではない、否、弾圧さえ受けてきたのである。(徒然草一三六段)
「鉄」字は庶民が作ってき、使い続けてきたのである。真理はなかなか姿を現さないものである。しかし、人間として真摯な、まっとうな感覚で物事に接していけば、見つかっていくものではないだろうか。それゆえに、漢字一つもおろそかにしてはならない。

平成20年12月8日

 当初の原稿用紙6枚から20数枚になった。関連することが次々と頭に浮かび、それらのことに触れなければなぜ書き続けているのか説明できない気がしてきたからだ。まだ、足りない気がしているが、年の瀬を迎え、ここでひとつのまとめとしたい。
 この文章をまとめるにあたって、中国語ができないことや、古典・漢文が得意ではないことなど気になる障害が多いことに気がついた。それでも結論めいたところまで辿り着けた。勝手解釈や間違いに気がつかれたらぜひ教えてください。