夢見の塔



満開の花が、薄紅色の見事なア−チを作り上げていた。
校門の両脇で枝を拡げる桜の樹々は、友枝中学校の開校記念に植えられたものだ。

小さな花びらは、生徒達の肩に等しくふりそそいでいる。
明るい栗色の髪をした少女と、その隣を歩く少年の上にも。

新入生にクラブ活動の勧誘をする男子生徒の大きな声。
帰りにどこかへ寄り道しようと相談する女子生徒の弾んだ声。

始業式を終えたばかりの賑やかさを遠くに聞きながら、頭上に咲き誇る花と同じ名を
持つ少女が、少年に言った。

「ええっと…。小狼くん、今日は何かご用ある?」

大きな翠の眸が、少しだけ上向きの角度をつけて彼を見上げる。
真新しいブレザ−に身を包んだ少年の鳶色の眸が、少女を映した。

「いや、別に何も…。」

本当のことを言えば、昨夜の最終便で日本に着いたばかりの彼のマンションには
まだ封を切っていないダンボ−ル箱が幾つも転がっている。
だからといって、『また明日な』なんて、言えるわけがない。

慌しい再会の後、そろって猛ダッシュで校門に駆け込むことになった二人は、
まだロクに話もしていない。
友枝中学に編入した小狼だが、残念ながらさくらと同じクラスにはなれなかったのだ。
そんな二人に気を利かせた大道寺知世は、≪大事な用≫があるからと、一足先に
校門を出ていた。

「えっと、それじゃあ…」

家に…と言いかけて、さくらははたと口を噤む。
今日も家でゲ−ム三昧であろう彼女の守護獣は、主の≪いちばん≫である彼とは
『小僧!!』 『ぬいぐるみ!!』
と言い争う仲である。
ついでにいうと、まるで空気が読めない造りらしく、出てきて欲しくない時に限って
陽気にしゃしゃり出てくるのだ。

「…ええっと!わ、わたし行きたいところがあって…!!」

本当は、行きたいところなんてない。
ただ、『また明日ね』なんて、まだ言いたくなくて。
確かめたくて。

「どこだ?」

低い声が、尋ねる。
濃い褐色の髪が風に揺れる。
それだけで胸が痛くなる。

会えるのは、今日だけじゃない。
明日は香港へ帰ってしまうなんてこと、ない。
もう、手紙とか電話だけでがまんしなくていい。
毎日会える。声が聞ける。いつでも話が出来る。

背中に回した両手の、鞄を持った右手の甲を左手でつねる。
大丈夫だよ、これは夢なんかじゃないから…。

ことりと、胸の中で音がした。


   怖いほど大きな月
   くるくると踊るカ−ド
   一人の少年が、剣を構えて宙に舞う
   その先に、あるのは…


花びらのような唇が、その名を告げた。
出会うより先に見た夢の場所を。

「…東京タワ−…」


   * * *


「おぼえてる?知世ちゃんと苺鈴ちゃんと小狼くんと、わたしと。
 4人で、ここに来たときのこと」

高さ333mの鉄の塔を見上げて、さくらが言った。
小学校五年生の春…。今から三年前のことだ。

「ああ。けど、≪夢(ドリ−ム)≫のカ−ドが現われて、上には登れずじまいだったな」

「小狼くんが≪時(タイム)≫のカ−ドさんで助けてくれたんだよね…。
 なんだか、すっごくなつかしい」

並べられたベンチとテ−ブル。ドリンクスタンドやファ−ストフ−ドの店。
濡らしたハンカチを顔にあてていた男の子が、そこにいるような気がする。

あの後、少し休んだぐらいで小狼が回復するはずもなく、結局、知世が呼び寄せた
車で家まで送ってもらったのだ。
それから、東京を象徴するこの塔(タワ−)を再び訪れる機会もなく、小狼は香港へ
帰ってしまった。
以前、行きそこなった場所を二人で訪れるのは、特におかしなことではないだろう。
さくらもまた、ここに来るのは≪最後の審判≫以来だ。

「行くぞ」

小狼が厚いガラスの扉を開け、そのまま待ってくれている。
黒いブレザ−に白いシャツ。臙脂(えんじ)のラインが入った白いネクタイ。
友枝中学校の制服は、いつもきちんとしている彼に良く似合う。
思いながらドアをくぐった瞬間、さくらは立ち止まった。


   ガラス張りの小さな空間
   向こうに透けて見えるエレベ−タ−ホ−ル
   足元から真っ直ぐに伸びる緋(あか)い絨毯
   くらりとする、めまいのような感覚…


「どうした?」

ガラスの壁の前で、少年が尋ねる。
10歳の男の子のものではない声と姿で。

「ううん…、なんでもない」

さくらは大きく頭を振った。
左手に鞄を二つ持った小狼が、右手でエレベ−タ−ホ−ルに続くドアを押す。
彼女より一回り大きな手で。

そして二人は、三年前には辿り着けなかった場所へと足を踏み入れた。


   * * *


春休みも終わり、平日ということもあって展望台に昇るエレベ−タ−の中は二人だけだ。
重力から引き剥がされる独特の浮遊感。
窓から入る光が鉄骨に遮られ、不規則な影を描く。

「何か気になるのか?」

大喜びで窓の外を覗くのかと思いきや、落ち着きなく箱の内側を見回しているさくらに
小狼は声をかける。
この空間に、魔力を含めた危険な気配が無いのは確認していた。
≪感じる≫ことに関しては、小狼はさくらより優れている。
それは魔力の優劣ではなく、鍛錬の成果だ。

「気になるっていうか…。ここって、初めてなのに初めての気がしないの。
 でも、それってあの時の夢の中でも思ってて…。
 なんだか、頭がこんがらがっちゃいそう」

彼の声に、ようやく視線を定めたさくらは困ったような顔をした。

「三年前に、≪夢(ドリ−ム)≫が見せた夢か?」

小狼の問いに、こくりとうなづく。

「苺鈴ちゃんがそこに立っていて、知世ちゃんが隣に居て。
 わたし、夢の中でも苺鈴ちゃんと知世ちゃんに≪ぽややん≫とか≪ふんわり≫って
 言われて…。あ、そうそう。それでね、ケロちゃんまで
 『≪ぽややん≫も≪ふんわり≫も、な〜んか心配なカンジやなぁ〜』
 …なんて言うのよ?」

守護獣の口調を真似るさくらに、小狼は苦笑いを浮かべる。
だが、同時に引っかかるものを感じた。
三年前のさくらは、≪夢(ドリ−ム)≫が見せた夢の内容を、目覚めた瞬間にほとんど
忘れてしまっていたのだ。
それが再びこの場所に来て、何かが刺激されたのだろうか…?
考える小狼に、さくらが言った。

「そしたら、小狼くんがね。今とおんなじに窓際に立って、腕を組んでて…。言ったの。
 『いや…。意外としっかりしているだろ、木之本は』
 …って。
 それって、あの頃の小狼くんが本当に思ってたことなのかな?
 それとも、わたしが小狼くんにそう思って欲しいって考えてたことなのかな?」

翠色の眸が、彼を覗き込む。
小狼は、律儀に三年前の自分を記憶の中から引っ張り出そうと試みた。
≪最後の審判≫が行われる前。まだ、従妹が日本に居た頃。
彼は、目の前の少女のことをどう考えていたか…?


   『李くん?』 『李く−ん!!』 『…李くん…』


かあああぁぁ…。(/////)
どっと押し寄せる記憶に、小狼は派手に赤面した。
その頃、既に彼の日常は目の前の少女で埋め尽くされていたらしい。
赤くなったきり返事の無い小狼だが、さくらにはそれでも十分なようだ。
また一人、夢の軌跡を辿り始める。

「…けどね、わたし…。
 夢の中で小狼くんにそう言われた時、なんだかすごく変なカンジがしたの。
 『あれっ?』とか『どうして?』とか…。うまく言えないけど」

話ながら、自分でも混乱してきたらしい。
しきりに首を傾げるさくらに、小狼はようやく口を開いた。

「あの頃のおれが、おまえを認めるようなことを言ったから…だろ?」

気づけなかった内心はともかく、当時の彼には口が裂けても言えないセリフの筈だ。
だが、さくらは大きく頭を振った。

「ううん、そうじゃないよ。『しっかりしてる』って、言われたからじゃないの。
 だって小狼くんにホントにそう言ってもらえたら、それだけだったら、わたしすっごく
 うれしいって思うもん!!そうじゃなくって…。
 あ、そうだ!!小狼くんが『木之本』って呼んだからだよ!!」

全ての謎が解けた!!とばかりの顔をするさくらに、今度は小狼は首を傾げた。

「それの、どこがおかしいんだ?」

その頃は、さくらだって小狼のことを『李くん』と呼んでいたのだ。
何ら不自然ではない。けれど、さくらはぷうっと頬を膨らませた。

「だって、あの頃の小狼くんってわたしのこと『おまえ』とか『あいつ』とかしか呼んで
 くれてなかったんだもん。
 『木之本』って呼ばれたの、あの夢の中だけだったよ?」

「そんなこと…」

あるわけがない。そう言いかけて、口を噤む。
クラスの生徒や先生に彼女ことを尋ねる時は、そう呼んでいた筈だ。
何故なら、いきなり『あいつ』で話が通じるのは、彼女の隣の席に座っていた
長い髪と美しい声を持つ少女ぐらいしかいない。
だが、彼女本人に対してそう呼びかけた記憶は、どこを探っても出てこない。
意図があってのことではなく、結果としてそうなっているのだ。

「……あ、ごめんね。わたしの夢だから、小狼くんは気にしないで」

ムキになりすぎている自分に気づいたのか、さくらも顔を赤らめる。
コトリ、と小さな振動とともにエレベ−タ−が止まった。


   * * *


東京タワ−大展望台。
いつもは観光客や修学旅行生で賑わう観光スポットも、今日は人影もまばらだ。
学生服姿も二人以外にはない。

「夢とおなじで…、少しちがう」

展望台の窓に張り付くように外の景色を見つめていたさくらは、ポツリと呟いた。
≪夢(ドリ−ム)≫で見た夢の中では、あの頃頻繁に見ていた夢と『おなじ』だと
感じたはずだったが…。
思い出そうとすればするほど、曖昧になってくる。

「予知夢は、未来そのものを示すものじゃない。
 抽象だったり、暗示だったり、いくつかの未来が重なっていたり…。
 何年も経って、やっとその意味がわかる場合だってある。
 だから、あまり気にしない方がいい。
 東京タワ−の夢も、今はもう見ないんだろう?」

小狼の声に、さくらはうなづいた。
あの頃は数日かおきに見ていた≪最後の審判≫の夢…。
ことりと、また胸の中で何かが音をたてる。


   怖いほど大きな月
   くるくると踊るカ−ド
   鉄の塔から見下ろす影
   それが誰か、何をしようとしているのか
   何も、わからずに…


ぎゅうっと、右手の甲をつねる。
軽くでは痛い気がしなくて怖くなるから、赤く痕が残るくらいに強く。
大丈夫…、これは夢じゃないから。

「のどがかわいたな。オレンジジュ−スでいいか?」

そう言った小狼は、展望台の一角にあるスタンドカウンタ−に歩き始めている。
さくらも小走りにその背中を追いかけた。


   * * *


小狼に追いついたさくらは、並んでドリンクコ−ナの前に立った。
とたん、引き出しがぽんと開くように記憶のカケラが飛び出してくる。

「…そうだ!!夢の中でもね、ここで苺鈴ちゃんたちとジュ−スを頼んだんだよ。
 そしたらね、なんでかお兄ちゃんが…」

隣に立った小狼は、何故だか口をへの字に曲げている。
あれっ?と思う間もなく聞き覚えのある声が、夢と同じセリフを口にした。

「ご注文は、お決まりですか?」

「……って、お兄ちゃん!?な、なんでここにいるのッ!!?」

仰け反るさくらに、憮然とした表情が答を返す。

「バイトだ」

愛想と抑揚の欠片も無い言い回しもまた、三年前の夢と全く同じである。
まだ春休み中の大学生であるさくらの兄・木之本桃矢がバイト三昧の日々を過ごして
いるのは毎度のことであったが…。
例によって視線で火花を散らしあう二人に頭を抱えるさくらの前に、紙コップが二つ
差し出される。

「はい、これはと−やとぼくのおごり」

穏やかな声に顔を上げると、眼鏡の奥で優しい眸が微笑んだ。

「雪兎さん!!」

兄の親友であり、さくらの守護者の仮の姿でもある月城雪兎。
その真の姿は、≪審判者・月(ユエ)≫
夢の中でも、≪最後の審判≫でも、冷たい眸でさくらを見下ろしていた影は、今は
柔らかな表情と声で言う。

「お帰り、李君。よかったね…、さくらちゃん」

礼儀正しく頭を下げる小狼と、ぽっと頬を染めるさくら。
ますます憮然とした顔で、カウンタ−の中から桃矢が言った。

「おまえら、それ飲んだらさっさと帰れ。
 っつたく、制服のまま、こんなところウロチョロしてんじゃね−よ。校則違反だろうが。
 いくら将来、怪獣サクラノドンが東京タワ−をぶっ壊すための下見だからって…」

「お兄ちゃんッ!!(/////)」

お客さんが少なくてバイトがヒマだからって、小狼くんの前でなに言うの−ッ!!!
さくらは両手を振り回して怒った。
この場合、他人のフリも仲裁も出来ずに立ち尽くすしかない小狼に、溜息混じりに
雪兎が言う。

「と−やもね、あれですっごくホッとしてるから。
 君やさくらちゃんにいじわるとかしても、ゆるしてやってよね。
 ……ぼくの中のぼくも、きっと同じように言うだろうと思うから」

小さく付け加えられた言葉に、雪兎の中に眠る月の気配が微かに動く。
否定とも、肯定ともつかずに。
小狼は顔を上げ、今はまだ自分より背の高い青年と、その中に居る守護者の両方に
しっかりとうなづいた。

「はい」

そんな彼等のやり取りを密かに物陰から覗く姿があった。
目深に被った鳥打帽。薄く色のついたサングラス。淡いべ−ジュのトレンチコ−ト。
細い肩に掛けられた鞄の中からは、なにやら意地汚い声が漏れ聞こえる。

「あ−っ、さくらと小僧だけやなんてズルイやないか!?
 ゆきうさぎ、わいにもメロンソ−ダおごってくれ〜!!」

仮の姿でいる時の≪守護獣≫は、≪守護者≫と同様、その気になれば魔力の気配を
完全に消すことが出来る。
だが、どうやら食い意地を消すことだけは出来ないらしい。

「ケロちゃん、メロンソ−ダなら後で溺れ死ぬほどごちそうしますから、お静かに…。
 それにつけても、李君とご一緒しておられる時のさくらちゃんの可愛さは、普段にも
 増して超絶素敵すぎますわあぁ〜♪♪」

今現在も変わらずに、さくらの隣の席をキ−プしている謎の社長令嬢・大道寺知世。
彼女の≪大事な用≫が、二人の尾行追跡であったことは言うまでも無い。
その手には当然のように最新型の超高性能小型デジタルカメラが握られていた。

「香港の苺鈴ちゃんにも、李君帰国後の初デ−トという記念すべきイベントの様子を
 ご報告しなくてはなりませんもの。
 今日は久々に会心の2ショットが録れそうですわ〜♪」

「そやけど、小娘のことやから
 『あの二人ってば、ど−してもっとム−ドのあるところに行こうって気にならないの
 よ〜ッ!?』
 …とか言いそうやなァ」

「おほほほほ…。そこがまた、あのお二人らしいのですわ♪」


   * * *


気づいているものも、気づいていないものも。
幾つもの視線に見守られながらジュ−スを飲み終えた二人は、エレベ−タ−に向かった。

「3階には蝋人形館があるぞ」

案内板を見た小狼が言うと、さくらはぶんぶんと首を振る。

「やだやだ!!蝋人形って、なんかこわいんだもん!!
 それより、2階のおみやげ屋さんがいいよ。
 知世ちゃんと、それから香港の苺鈴ちゃんにも何か選んで送ってあげたいし。
 ケロちゃんも、お菓子を買ってあげないと後でうるさいし…」

その会話が聞こえていたら、知世とケロは違った意味で大感激したことだろう。
ゴトゴトと音を立てて、エレベ−タ−のドアが開く。
下りもやはり二人だけだ。
小狼が2階のボタンを押し、ドアが閉まる。降下を始める箱の中が小さく揺れた。

……あれ?

さくらの中でも、何かが小さくコトリと揺れた。
無意識に、右手を口元に持って行く。
とたん、小狼に手首を掴まれていた。

「ほ、ほえっ?」
「右手、どうしたんだ!?」

その声に、はっと我に返る。
さくらの右手の甲は熱を持ち、真っ赤に腫れ上がっていた。

「な、なんでも…」
「無いワケないだろう!?何やったんだ、おまえ!!」

肩がびくっと震えるのに、小狼は唇を噛んだ。
心配すると、つい怒った声になって、さくらを怖がらせてしまう。
それと気づいていても、小狼は掴んだ手首を離すことができなかった。
うろたえたさくらが、もごもごと口の中で呟く。

「えっと…。け、今朝に」
「今朝って…、何処かにぶつけたのか!?」

転校初日からの遅刻はマズイと、桜並木の下を彼女の手を握って走った。
でも、その時のさくらの手は、こんなふうではなかったのだ。

「そうじゃ…、なくって。わたし、…わたし小狼くんが」

さくらの顔が、手の甲に負けないくらい赤く染まる。
手首を握る力が自然に緩んだ。

「小狼くんが帰って来て、わたし、すごくすごくうれしくて。
 でもでも、これってホントは夢じゃないのかなって気がして、すごくすごく怖くって。
 夢じゃないって確かめたくって、それで。…何度も、つねっちゃったから…」

最後は、やっと聞き取れるくらいの小声だった。

一つ一つ、修行を積み重ねて
一族に己の力を認めさせて
母の…、李家当主の許しを得て

やらなければならないことを全てやりとげ、たくさんの手続きを済ませて
彼は日本にやって来た。
夢でなんか、あるはずがない。

けれど、さくらにとっての小狼は
いつも突然現われて去っていく者のように思えるのかもしれない。

驚かせたくて、何も言わずに帰って来たことを
喜ぶ顔が見たくて、桜並木の下で待ち伏せしていたことを
初めて、後悔した。


「…小狼、くん…?」


小さな空間で、ぎゅっと抱きしめられる。
肩の高さも、広さも、腕の強さも。
あの時とは違うけれど、それでも。


   『≪浮(フロ−ト)≫のカ−ド、使っちゃった』
   『…よかった…』


昇りとは逆に、重力に従って落下していく感覚
ガラスの向こうで、近づいてくる地面
夢とは違う、確かな日常
もう手の甲をつねってみなくてもわかる
ここに、いる


「…あのね、小狼くん」

さくらの声に我に返った小狼は、慌てて両腕を解いた。
二人だけであったことに彼は感謝すべきだろう。
この場に桃矢か知世が居れば、どちらもが違う理由で絶叫したに違いない。

「あのね…。さっき言ったこと、わかったの。
 わたし、夢の中で小狼くんに『木之本』って呼ばれた時、『ちがう』って思ってたの」

「さっ、さっきのって…、≪夢(ドリ−ム)≫の話か?」

ほっとしたのか脱力したのか、わからない。
女の子って、気になることがくるくる変わるものらしい。
さくらの熱が彼に移ってしまったかのように、今は小狼の方が真っ赤だ。

「あの時のわたし、小狼くんに『さくら』って呼んで欲しかったの。
 ううん。小狼くんがわたしを呼んでくれるなら、それは『さくら』なんだって知ってたの。
 なのにそう呼んでくれなかったから、『ちがうよ!!』って思ったの」

何も言えなくなる少年に、少女はこぼれるように笑う。
淡く薄紅色に染まった頬で。
その名のとおり、満開の桜の花のように。

「だから、ずっと後になって、やっぱりエレベ−タ−の中で小狼くんがわたしのこと
 『さくら!!』って初めて呼んでくれたとき、すっごくすっごくうれしかったんだなって、
 今、わかったの。
 『やっと呼んでくれた!!』…って、わかったんだよ」


どちらかの髪か襟足にでもくっついていたのか、薄紅色の花びらがひらりと舞って
触れ合う二つの靴のつま先の上に落ちる。


もうじき、エレベ−タ−は地上からほんの少し高いところへ彼等を運び終えるだろう。



                                   − 終 −


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TVアニメ第40話「さくらと夢の中のさくら」
夢の中の李君に、件のセリフを言われたさくらちゃんは、まったく嬉しそうでないどころか
なにやらショックまで受けているように見えてしまうのは気のせい?
初見から、この場面が気になって気になって、気になり続けて早数年。
ようやくこんなカンジにまとめてみました。
二人の再会エピソ−ドは原作コミックス12巻ラスト仕様。
あの日は中学二年生の始業式。その後の帰国後初デ−トは二人の思い出の場所へ…
というシチュエ−ションでございます。(汗)
管理人は基本アニメ設定派ですが、時々原作コミックスネタを借用いたします。
なお、エレベ−タ−繋がりで第57話「さくらと小狼とエレベ−タ−」もちょこっと登場。
わかりにくくてすいません〜。