兄貴の一番長い日



− 6 −

「はい、どうぞ」

白いカップに注がれたコーヒーが、目の前に置かれた。
砂糖もクリームも加えない熱くて苦い液体を胃に入れると、逆に頭が冷えてくる。
カウンターの向こうでは、ゆきがいつもどおりの穏やかな笑みを見せていた。

「知り合いの伝手で、ちょうど良い豆が入ったところなんだよ。
 酸味が少ないから、とーやの口に合うんじゃないかって思ってた」

にこにことコーヒーの薀蓄を語る口ぶりは、すっかりカフェの店主だ。黒い首掛けエプロン
も、どのバイト先の制服より馴染んで見える。

星條高校に一年の終わりに転入してきてから、大学まで。ずっと一緒だった“ゆき”こと
月城 雪兎だが、就職先も同じというわけにはいかなかった。
さくらに何かあれば、真の姿である守護者・月(ユエ)に戻り、主の元に馳せ参じなけれ
ばならない身だ。

そんな事情もあり、大学卒業後のゆきが選んだのが自営業だった。住んでいた平屋を
改造して、古民家風のカフェ“月とうさぎ”を営んでいる。
資金は以前の主……クロウ・リードの生まれ変わりとやらが出したそうだ。
開店から二年と数ヶ月。竹林を眺めながらコーヒーが飲める店として、町内でも評判だ。
偶の休日に俺も手伝いに来るが、モ−ニングは近所のサラリーマンで、ランチは子連れの
母親達で、午後は地元の学生で賑わっている。

だが、閉店時間を過ぎた今、客は俺一人だ。照明もカウンターの真上の一つが灯るだけ。
店の前で顔を合わせたのも、明日の買出しの帰りだったのだろう。調理台の隅に置かれた
スーパーの大袋からは、フランスパンや紙パックの牛乳が覗いている。

「……さくらちゃんが、ね」

コーヒーの中味が半分に減ったところで、やわらかな声が告げた。
手の中で、黒に近い褐色が大きく波打つ。

「買い物の途中、携帯が鳴って。
 とーやが、ぼくのところに来るかもしれないからって」

泣いてたよ?
やんわりと言われたが、胸に堪えた。

さくらを泣かせるつもりなど無かった。自分でも分かっているのだ、大人気無いと。
いい加減に妹離れしろと。さくらを信じてやれと。
そう言い聞かせる自分に、もう一人の自分が頑なに首を横に振り続けている。

まだ早い。まだ手放したくない。
失いたくない、と。

俺の堂々巡りを察してか、ゆきはそれ以上何も言わずカウンターの中でグラスを磨く。
時折、きゅきゅっとガラスの擦れる音だけがした。
それから数分。尚も頭の中で押し問答を繰り返す俺の背に、チリンとドアチャイムが響く。
閉店の札は出ていたのに、鍵をかけていなかったらしい。入ってきた客を見て、ゆきが
微笑んだ。

「いらっしゃい」

振り向かずとも、誰が来たのか分かった。繰り返すが、魔力が無くなった今でもカンは
いい方だ。良く通る声が、それを裏付ける。

「こんばんわ」

ぬるくなったコーヒーを飲み干して、身体の向きを変えた。相変わらずスーツを着込んだ
アイツと、椅子に座ったまま視線を合わせる。
落ち着いた声が、用件を告げた。

「八年前の決着をつけに来ました」
「さくらが悲しむことは、しないんじゃなかったのか?」

我ながら意地が悪いと思いつつ、揚げ足を取る。だが、黒に近い褐色の眸は真っ直ぐに
俺を見据えたままだ。

「さくらと話しました。
 俺と貴方が、どうしても必要だと思うなら仕方がないと言ってくれました。
 理解は全く出来ないとも、言いましたが……。」

まぁ、女は……特にさくらは、そうだろうな。
俺だけでなく、コイツも思ったのだろう。思わず浮かんだ微苦笑を互いに打ち消すと、改めて
視線を合わせる。

「貴方の言うとおりです。俺が、どんなにさくらを大切にしようとしても、俺の家の事情や
 道士としての務めが彼女を苦しめるし、不安にさせてしまう。
 それに、一族の全てがさくらの魔力(ちから)を理解しているわけではないことも……
 多くは、魔力の強い女性を次期当主の配偶者に迎えることを、喜んでいるに過ぎない。
 だから、今まで何度も迷いました。さくらから離れることも、家を捨てることも考えました。
 ……けれど、李家の生まれであることも、道士であることも、俺だから。誰より強い魔力を
 持つことも、カード達の主であり“なかよし”であることも、家族や友人を必要とすることも、
 さくらだから。
 お互いに、大切なものを何一つ手放さずに済む方法を、二人で考えました」

俺は椅子に座ったまま、アイツの言葉を聞いていた。
間違っても親しくはなかったが、短くもない八年。俺の知る限り多弁とは言えないコイツが、
一度にこれだけ話すのを初めて聞いた。
ゆっくりと言葉を選んでいるのに率直過ぎるのは、外国語で話しているからだろう。
さくらが忘れている……というより、普段は意識もしてなさそうなところ。

「俺は、さくらと一緒に生きていきたい。
 さくらも俺を選んでくれました。だから、頑張ります。泣かせたり不安にさせることは避け
 られないとしても、さくらが笑顔を失わずに済むように……」

何のてらいもなく、生真面目に言い切った科白に思わず眉間に皺を寄せた。
コイツ、馬鹿じゃねぇのかと思う。昔から、さくらの傍にいるためだけに親元を離れて、
無理をし続けてきた癖に。これから本当に頑張る必要があるのは、さくらの方なのだ。
ずっと将来(さき)はどうあれ当面は、言葉も習慣も違う“外国”へ嫁に行くのなら。

「……だから勝負をする以上、貴方も約束してください。
 俺が勝ったら、『しょうがない』じゃなく、『反対しない』じゃなく、『おめでとう』と言って
 欲しいんです。俺にじゃなく、さくらに」

売られた喧嘩を買うために突き出された条件に、俺は益々眉間の皺を深くする。
これだから俺はコイツが気に入らない。やっと十八になったばかりの癖に。
歳よりも俺よりも、ずっと大人な顔をしてやがるところが。
無言で椅子から立ち上がった俺に、カウンターから声が掛けられた。

「二人とも、ご近所のめいわくにならないように裏庭に回ってね。
 あと李くん、上着とネクタイはあずかっとくから、外したほうがいいよ」

振り向くと、しょうがないなぁと肩をすくめたゆきが、呆れたような笑みを浮かべていた。



− 7 −

月に照らされた竹林では、気の早い虫が鳴き始めていた。
半袖の腕を撫でる風も、昼間と違って心地良い。遠くで響く風鈴の音。さざめく笹の葉。

まさに“夏は夜”といった風情の中、さくらを賭けた決闘…もとい八年前の決着となった。
申し合わせたわけでもないのに、向かい合った俺とアイツは“あの時”と同じ間合いと
構えを取る。

そして、勝負は一瞬でついた。

補足しておくが、高校三年の終わりに魔力が無くなった後、俺は何かあった時の為にと
空手を習い直していた。当時は初段だったが、今は三段を持っている。
それでも、何がどうなったかすら分からなかった。
拳も蹴りも入った覚えは無い。なのに気がつけば鈍い衝撃を喰らった俺は竹林を見上げて
ひっくリ返っていたのだ。
上から覗き込んだアイツは、しまったという顔だ。手加減が足りなかったとか、そういうこと
なのだろう。
向こうが何か口走る前に、不機嫌そのものの声で言うべきことを言う。

「……約束だからな。さくらには、ちゃんと『おめでとう』と言ってやるよ」

寝転んだまま動かない俺を見下ろす表情が、ほっとしたように緩む。それは俺が“負け”を
認めたからじゃなく、頭を強く打った様子はないと分かったからだろう。
そこが面白くなくて、もう一言を付け加える。

「けど、お前に『お義兄(にい)さん』とか呼ばれるのだけは、お断りだからな」
「……わかりました」

深々と頭を下げるアイツが、視界の端に入った。はっきりした発音が、夜風に運ばれる。

「ありがとうございます、桃矢さん」
「それも、お断りだ」

俺の返事に、顔を上げると同時に考え込む。きっと頭の中の辞書を繰って、婚約者の兄を
呼ぶのに相応しい日本語を捜しているんだろう。本当に、馬鹿がつくほど真面目だな。
もう少しからかってやりたいが、我慢して正解を教えてやる。

「“さん”はいらねーよ」

アイツは驚いた顔をした。暫し間を置いて躊躇うように口を開きかけたが、結局、無言で
もう一度頭を下げる。
育った国か、あるいは家の所為か。コイツは年上の人間を呼び捨てにすることに強い
抵抗があるらしい。
この先、俺を呼ぼうとする度に困るのだろうと思えば、少しは胸がすく。

「後は、ぼくがめんどうみるから。李君はもう、帰った方がいいよ」

今度は、ゆきの声がした。
ありがとうございました。おやすみなさい。気をつけて。短い言葉のやりとりが聞こえて、
アイツの気配が遠のく。代わりに足音もなくズカズカと、人の草枕に近づく気配があった。

「……世話の焼ける……」

物憂げな声と同時に、むんずと襟首を掴まれる。
いつの間に入れ替わったのか、俺を肩に担いだのは“月(ユエ)”だ。
確かに、ゆき一人で俺を運ぶのは無理だろう。それで、もう一人に替わったのか。
さくらの守護者は人間でないだけに、細い見かけを裏切る怪力の持ち主だ。
いわゆる“姫抱き”で運ばれなかったのが救いだが、店の窓際に置かれたソファーまで
俺を運んだ月は、ゆきとは違った怜悧な顔に相応しく冷たく言い放った。

「馬鹿なことをする……。
 八年前、お前に魔力があり体格差もあった頃ならともかく、今の李小狼に只人が敵う
 筈などないものを」
「…………。」

そんなことは、言われなくても喧嘩を売る以前から分かっている。
顔を顰めた俺を見下ろす月は、青味がかった銀色の眉を寄せて問いかけた。

「なぜ、李小狼を嫌う」

俺はソファーに寝転がったまま、青紫色の眸を見上げる。鈍く痺れたようだった手足は
時間が経つにつれて感覚を取り戻していたが、まだ起き上がることは出来なかった。

「お前も、アイツの味方かよ」
「当然だ。主が、そして我等守護者と守護獣、カードの精霊達が認めた者なのだから」

不貞腐れる俺に、無情に切りかえす妹の守護者。そういえば月は、前の主の血縁だから
とかでアイツを気に入っていると黄色いぬいぐるみが愚痴ってたっけな。
思い出した俺は、益々やさぐれた気分になった。

「それは魔力の強さがどうの、家の力がこうのという話だろうが」
「……本当に、それだけだと思うのか?」

月の再度の問いは、さっきとは違う声音だった。大理石のように白い顔に浮かぶのは、
怒りでも不快さでもない。思いも寄らない言葉に傷つけられた表情だ。
俺は、すぐさま後悔した。月も、ゆきも、黄色いぬいぐるみの守護獣も、さくらが“なかよし”
と呼ぶカード達も。
皆、さくらを大切に思ってくれている。それは、ずっと以前から知っていた筈だ。

「いや、悪かった」

どうにか上半身をソファーに起こし、頭を下げる。凍るように冷えていた空気が、少し緩む
気配がした。

「嫌ってはいないが、気に入らない…ということか。
 成る程、私とケルベロスの関係のようなものだな」

しみじみとした呟きに、思わずソファーから滑り落ちそうになる。
ちょっと待て。その例えのどこが“成る程”だ!!
だが、それよりも気になる問題を片付けようと、今頃吹き出すのをこらえているに違いない
“誰かさん”に声を掛けた。

「……で、お前はいつまで窓の下に隠れてるつもりだ?」

月の目が見開かれ、組んでいた腕が解かれる。
ソファー越しに振り向いた真後ろの窓の向こうから、そろそろと栗色の頭が覗く。
今の俺には分からないが、恐らく何かの魔法を使っている筈だ。案の定、月が心底驚いた
顔で俺に尋ねる。

「≪盾(シールド)≫と≪静(サイレント)≫の二枚を使い、完全に気配を消していたのか…。
 なのに何故、お前には主のいることがわかった?」
「……別に、気配とかじゃない。
 こんな時さくらなら、じっと待ってられないだろうと思っただけだ」

もしかしたら、アイツも分かっていたかもしれないと思ったが、それは口にしない。
月は紫水晶のような目を細めると、もう一人の姿の時に似た、穏やかな声で言った。

「成る程、雪兎が言う意味がわかった。
 凄いものだな、“お兄ちゃん”とは」



− 8 −

バツの悪い顔で店に入ってきたさくらを迎えたのは、ようやく立ち上がれるようになった
俺と、入れ替わったゆきだった。
月のヤツ、さっきの会話をさくらに聞かれたのが気まずくて、逃げやがったな……。
もう時間も遅いので、コーヒーの誘いは断って家に帰ることにする。父さんが、きっと心配
しているだろう。

「じゃあ、またね。さくらちゃん、とーや」

にこにこと笑うゆきに、さくらは何度も頭を下げ、俺も邪魔して悪かったと短く返して店を
出た。そして二人で家までの夜道を辿る。さくらと並んで歩くのは、どれだけぶりだろう。
先を歩くものの、妹との距離は半歩になったかと思えば五、六歩分に離れ、また近づく。

「ありがとう、お兄ちゃん」

幾度目かに距離が近づいた時、さくらが言った。返事は返せなかったが、構わず後を
続ける。

「小狼くんとのこと、認めてくれて」

別に諸手を挙げて認めたワケじゃねーからな。
……と、言いたくなるのをぐっと堪える。もう今日は、さくらの悲しい顔は見たくない。

「わたし、これからもきっと、いっぱい不安になるし、泣いたり怒ったりもするかもしれない。
 けれど、それよりももっといっぱい、笑うから。
 小狼くんとなら、ぜったいに笑っていられるから……」

仏頂面を保つ俺を見上げながら、さくらは続ける。俺は自分の口元が引き結ばれていく
のを止められない。

知っている。知っているから、気に入らないのだ。
校舎裏で初めて顔を合わせたあの日から、少しづつ。お前が泣くのも怒るのも笑うのも、
その理由がアイツになっていくことが、ずっと気に入らなかったのだ。
きっともう、俺にも父さんにも天国の母さんでさえも、お前を幸せにも不幸にも出来ない。
それが出来るのは……

「だから、お兄ちゃん。
 これからも、わたしたちのこと見守っていてね」

伸ばされた手が、俺の指先を握った。
あの頃とは違うけれど、それでも小さくてやわらかくて暖かな手だった。少しだけ力を込めて
握り返すと、やっと口元を緩めることが出来た。
見下ろす、翠の眸。丸く透き通った、ラムネの中のビー玉色。


……ああ、そうか。何も変わらない。
さくらがアイツを選んでも。アイツがさくらの手を取っても。
名前が変わっても、海の向こうに行っちまっても。家を、離れても。
これからも見守っていくのだ。幸せであるよう願いながら、泣いていないか心配しながら。
いつまでも、ずっと。


半分に切り取られた月の下で、アイツとの約束を果たす。但し、俺と妹が過ごした時間に
相応しい言い方で。

「ま、怪獣の引き取り手も見つかったことだし。とりあえずは“おめでとう”だな」
「ありがとう……、でも“怪獣”は余計なのッ!!」

すかさず俺の足を踏んづけて、妹は笑った。とても嬉しそうだった。
けれど、急に笑顔を引っ込めたかと思うと、俺に向かって心配そうに言った。

「お兄ちゃん。まだ先だけど……。
 今日、小狼くんは手加減してくれたんだから、結婚式の前はお兄ちゃんも手加減してね?」


   * * *


家に戻った俺は、真っ先に料理を引っ繰り返したまま飛び出した食堂に足を向けた。
とっくに片付けられたテーブルの上には、料理の残りが並べられている。詫びる俺に
父さんは微笑むと、発掘先で買ってきたらしい日本酒の一升瓶と小ぶりのぐい呑みを
二つ置いた。
そういえば、父さんと二人だけで飲むのも久しぶりだ。

「あと二年程したら、李君も入れて三人で飲めるんですけどねぇ」

納得はしても、その名前には条件反射で顔が険しくなってしまう。気づいた父さんが
苦笑を浮かべた。

「聞いてもいいですか?」

ガラスのぐい呑みに酒を注ぎながら、返事を待たずに父さんは俺に質問する。

「桃矢君は、どうして李君がそんなに気に入らないんでしょう?」

まったく、今日はなんて日だ。俺は溜息を吐いた。同じような質問を、あっちでもこっちでも。
酒の勢いもあるだろう。一息に中味を空けた俺の返事は、今までで一番正直だった。

「俺より背が高くなりやがったところ。
 俺より腕っ節が強くなりやがったところ。
 ややこしい家でややこしい仕事をしてやがるところ。
 さくらを散々泣かして淋しい思いをさせて、それをこれからも絶対に繰り返しやがるに
 違いないところ……」

父さんは無言のまま、促すように酒を注いでくれる。
それをもう一度飲み干して、最後にして最大の理由を吐き出した。


「……さくらが、アイツを“一番”に選びやがったところ……」


要するに、相手がどこの誰であっても同じなのだ。
ずっと愛して、守ってきた妹を突然現れた男にかっ攫われる。悔しいし、寂しいし、腹が立つ。
ただ、それだけの話だ。

父さんは何も言わず、また酒を注ぐ。杯の底では、削り出された小さな月が揺れていた。
どちらもが沈黙を味わうように、しんみりとする。
……と、思いきや。二階から大怪獣の咆哮が轟いた。

「ケロちゃんッ!!冷蔵庫に入れておいたフルーツゼリー、食べちゃったでしょう!?
 小狼くんが持ってきてくれたお土産だったのにーッ」
「えーやんかー。
 わい、今日も一日、おとなしゅーしとったんやさかい、小僧の土産くらいー」
「だからって、一人で全部食べちゃうことないでしょーッ!!」


  ドタバタ ドタバタ ドタ…


思わず顔を見合わせて、少し笑う。まったく、あれで本当に嫁に行けるのかね。
今度は俺が酒を注ぐと、父さんは呟くように言った。

「僕は撫子さんのご両親やお爺さんには、申し訳ないことをしたと思っていました。
 まだ十六歳だった撫子さんを、攫うようにして結婚したことを。
 ……申し訳ないことをしたと思っていた“つもり”でいたのだと、つくづく思い知りました」
「父さん?」

今まで見ることのなかった、肩を落とした父さんの姿。苦渋の滲む声。

「まだ子どもだとばかり思っていた娘を攫われるのは、本当に淋しいものですね……」

テーブルの上で微笑むのは、ウェディングドレス姿の母さん。桜の花のブーケを手に、
幸せそうに笑っている。
笑っているけれど、母さんの親族は式に出席しなかったのだ。ブーケを受け取った
園美さんを除いては。

もしかしたら、と思う。父さんが今日、この写真を飾ったのは自分への戒めだったのかも
しれない。
昔の手前、父さんはさくらの婚約を口が裂けても『早過ぎる』とは言えないのだ。
自分にも酒を注ぎながら、俺は声を落とす。

「……今は、父さんに免じて我慢するけどな。
 結婚式の前には、俺の分と父さんの分と。絶対に二発は殴ってやる」
「?」

不思議そうな顔をする父さんに、帰り道での話を説明する。
誰かの冗談を真面目に受け取ったらしく、さくらとアイツは


  『日本では結婚式の前にね、大切に育てた娘を攫っていく代わりに、新郎が
   新婦のお父さんやお兄さんに一発殴られないといけないんだよー。
   だから結婚が決まった男性は、式までに面の皮を厚くするために頑張るんだ』


……と、思い込んでいるのだと。
俺の話を聞き終えた父さんは、苦笑を浮かべて言った。

「桃矢君の分は止めませんけれど、二発はだめですよ?」

やっぱり、父さんはアイツに甘い。そう文句を口にする前に、にっこりと微笑んだ。

「僕の分は、とっておいてもらわないと」

一見、穏やかそうな眼鏡の奥の目は……ゼンゼン、笑ってない。
もう五十に近い父さんの、今も変わらず人間離れした運動神経と体力を知る
俺は、少しアイツが気の毒になった。


……ま、ほんの少しだけどな。


可愛い妹を横取りされた兄と、愛しんだ娘を攫われる父の、それぞれの杯が
カチンと、涼やかな音を立てる。
いつの間にか時計の針は真上を指し、長い長い一日が終わろうとしていた。



                                   − 終 −


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***************************************

「兄貴の一番長い日」もとい、「兄貴と親父の一番長い日」でした。(笑)
最初からわかっていても、ずっとお付き合いしているのを知っていても。
いざとなったらジタバタするのが親心、もとい兄心。
でも、それは藤隆さんも同じではと思います。
十六歳の撫子さんと駆け落ち同然で結婚したからには、『若い』『早い』を理由に
反対など出来ないだけに、実は心の中で息子を応援していたのかも。

最後に、オマケとして『その頃の大道寺家』の様子など…。
下らない上に色々と台無しな内容なので、反転にて。
年齢制限はありませんが、大人の自己責任でお楽しみください。(汗)
それにしても、あっちでもこっちでもそっちでも。
さくらちゃんを嫁にするのは大変だなぁ…。頑張ってね、小狼くん。(笑)


− オマケ −

その頃の大道寺家。

園美「なッ、なんですって!!さくらちゃんが婚約!?」
知世「はい、そうですわ。今日、お父様とお兄様にもご挨拶なさったそうです。
    これでやっと、お母様や曾お爺様にもご報告できますわ」
園美「だッ、ダメよ。ダメダメダメダメ、早すぎるわ−ッ!!
    しかも、相手はあの子でしょ。香港の御曹司。結婚したら海の向こうに行っちゃう
    んじゃないの−ッ。そんなの絶対、許しませんッ!!」
知世「お母様、落ち着いてください」
園美「これが落ち着いていられますかッ!!
    はっ、こんなことしていられないわ。お爺様にご報告して早速対策を練らねば!!」

娘が止めるのも聞かず即、携帯を開いて話し出す園美。
先の展開が読めるだけに、知世は溜息を吐いた。案の定、〔許さ−ん!!〕だの
〔早過ぎるッ!!〕だの叫ぶ声が漏れ聞こえてくる。

知世「本当に、お母様にも曾お爺様にも困ったものですわ。
    長年あたためてきた“さくらちゃんの本番ウェディングドレス”製作大プロジェクトが
    ついに実現するというのに……」

長い黒髪を一振りすると、主人とその令嬢の様子に気を配る使用人等に向かい、極めて
大人びた口調で命じる。

知世「皆さん、母と曽祖父が何を命じようと適当にあしらっといて下さいな」
A(女性執事)「は…、ですが…」
B(女性秘書)「しかし…」
C(女性警備員)「…………。」

戸惑う彼女等の様子に、威厳さえ感じさせる口ぶりで社長令嬢は告げる。

知世「大道寺家に、そして雨宮家に長く仕えていただいている皆さんの立場もおあり
    でしょう。……が、曽祖父は高齢。母ももう若くはありません。
    この先、誰に付くのが一番得か…。おわかりですわね?(ニッコリ)」
一同「「ははぁ−ッ!!」」

こうして大道寺家及び雨宮家による“さくらちゃん結婚阻止大作戦”は頓挫した。
その一方、知世プロデュースによる“さくらちゃんハッピーウェディング大計画”は
晴れの日に向けて着々と準備が進められていくのである。
ちなみに当事者である筈の新郎新婦の意志が、ほぼ置き去りにされていることは
言うまでもない。