未来のかけら



気がついた時、空は薄紅色の雲で覆われていた。

…いや、違う。花だ。

樹々に満開に咲いた花々が、彼の頭上を覆っているのだ。
黒っぽい幹から伸びた枝に隙間なくたわわに咲き誇る小さな花。
途切れることなくひらひらと舞い落ちる花びらが、地面をも薄紅色に染めている。

まるで、夢のように美しい光景だった。

…………夢…?

彼は、ふと思う。自分は確か、庭で本を読んでいた筈ではなかったのか。
そして、一見まだ二十代にしか見えない若々しい顔に苦笑を浮かべた。
どうやらまた、≪飛んで≫しまったようだ。

魔力や霊力の強い者…強すぎる者は、本人の意志とは関わりなく
その意識を肉体から離脱させてしまうことがある。
例えばその意識が時を越えて未来に赴く時、それは≪予知≫となり
過去を訪れる時には≪過去見≫となる。
同じ時の遠く離れた場所であれば、それは≪透視≫や≪千里眼≫と呼ばれるだろう。

ただ、意識がこんなにもはっきりと肉体の≪形≫を伴って離脱してしまうのは
あまり良いことではなかった。
まだ幼い頃、魔力の制御が利かず、彼はしばしばこんな状態を引き起こした。
その度に見なくても良いものを見、会わずとも良いものに出会ってしまったものだ。
修行を重ね、魔力の制御が出来るようになってからは、そんなことは起こらなくなった。
しかし最近、また無意識に離脱が起こるようになっている。

…理由は、わかっていた。
≪時≫が近づいているのだ…。

彼はもう一度、周囲の景色を見まわした。
この花…。なんという名だったか?知っている筈なのに、何故か思い出せない。
微かに風が吹いて、花びらが渦を巻いた。
薄紅色の壁に、一瞬、視界が遮られる。
それがおさまった時、目の前には白いベンチに座った一人の女性の姿があった。

彼は、その女性の方に歩き出した。
どうやら自分は彼女に会うために≪飛んで≫きたようだ。
彼女は髪の長い、美しいひとだった。
白いレースのブラウスに、サフラン色のエプロンドレスとカーディガンが良く似合う。
まだ若く見えるが、母親だ。
それが判ったのは、彼女がその膝にニ〜三歳くらいの小さな女の子を抱いていたからだ。
お揃いの濃いピンクのエプロンドレスを着た女の子は、明らかに母親似であった。

彼女は近づいた彼を真っ直ぐに見つめ、ふんわりと微笑んだ。
彼女もまた、強い魔力の持ち主であることが、彼女を包む柔らかな波動から感じられた。

「初めまして。…ここは、どこでしょうか?」

我ながら間が抜けているとは思ったが、とりあえず彼はそう尋ねてみた。
しかし、彼女は困ったような表情を浮かべた。どうやら広東語では通じないらしい。
こういう状況では、言語には関係なく意志の疎通が出来ることが多いのだが
今回はそうもいかないようだ。
彼は次に、大陸のもう一つの代表的な言葉…北京語で言ってみたが、これも通じない。
そこで、現在のところ世界で最も広く使われている言葉…英語で言ってみた。
彼女の表情が動いた。どうやら通じたらしい。答えようとして、彼女は口篭もった。

「あの、えっと……」

それで彼には、ようやくここが何処か判った。


   * * *


撫子は、焦っていた。いとこの園美ちゃんに、

『撫子の頭は日本語以外を使うように出来ていない』

と言われていた事を思い出しつつ、もっと勉強しておけばよかったと思う。
目の前に突然現れた、中国風の緑の服を着た男のひとが≪実体≫ではないこと。
それが本人にも予期しない出来事で、困ってしまっているらしいことが撫子にはすぐに判った。
なんとか力になりたいと思うのだが、話も出来ないのではどうしようもない。
だが彼は、撫子が洩らした言葉を耳にすると、納得した表情を浮かべつつ言った。

「ここは…日本、ですか」

「はい!日本の、東京都の、○○区の友枝町です!!」

勢い込んで答える撫子に、そのひとは優しく微笑んだ。
一見、同じくらいの年齢のようだが、撫子には彼が自分よりずっと年上であることが感じられた。
藤隆と同じか、もう少し上かもしれない。

「ここに、住んでいるんですか?」

「いいえ。いま、住んでいるのはべつの街です。
 でもいつか、この街に住みたいとおもっています。だからときどき、あそびにくるんです。
 こどもたちをつれて…」
 
彼女が膝に乗せていた幼い娘は、不思議そうに彼と母親とを見比べていたが
ふいに脅えたような表情を浮かべ、母親にしがみついて泣き出した。

「どうしたの?だいじょうぶ、こわくないこわくない」

優しく話し掛けながら、撫子は娘をあやす。

「≪これ≫を感じたんですね」

彼は自分の肩に目を走らせながら、小さく言った。

「貴女にも、見えていますね?」

「はい」

撫子の目にははっきりと、彼の背後にある黒い影が鉤爪のような手で彼の心臓を
握りつぶそうとしている様が映っていた。
その影は、まるで底のない落とし穴のように深く、暗い。
撫子の不安を感じ取ったのか、彼は静かに微笑んだ。

「心配しなくても、大丈夫です。≪これ≫はもうじき私が≪連れていく≫ものですから。
 この世に災いをもたらすようなことにはなりません」

そこで言葉を一旦切り、一呼吸置いて続けた。

「…だから、私は貴女のところへ来たのでしょうか…?」

彼の目には、彼女の肉体に間近に迫った≪死≫の姿が映っていた。
…どちらもが、もうじきこの世を去らねばならない者だから…。
彼等は互いから目を反らし、母親の胸でようやく泣き止んだ女の子を見つめる。
彼は先刻から気にかかっていたことを口にした。

「この子も強い魔力を持っているようだ…。
 おわかりかとは思いますが、強すぎる魔力は幸福をもたらしません。よろしければ、
 今のうちに魔力を封印することもできますが…?」
 
道士である彼の一族の元にもたらされる依頼の中には、魔力や霊力を無くして欲しいと
いうものもある。
実際には≪無くす≫のではなく≪封印する≫のだが、彼ぐらいの術者のかけた封印は
まず一生解けることはない。
しかし、彼女はにっこりと微笑んだ。

「わかるんです。さくらちゃんのちからは、さくらちゃんにいろんな≪出会い≫を
 くれるって。とってもすてきな≪出会い≫を。だから、だいじょうぶ。
 …きっと、だいじょうぶ。さくらちゃんなら」

………さくら…。

女の子の名前を聞いて、ようやく彼は思い出した。
雪のように降りしきり、あたりをほんのりと薄紅色に染めていく
この不思議な花の名前。

彼女の微笑に、彼も答えた。

「私にも、同じくらいの息子がいるのですが、やはり魔力の強い子です。
 私の子として生まれたために、息子は様々な試練に耐えなければならないでしょう。
 私には、それを助けてやることも、見守ってやることも出来ません」

………せめて、息子が私を覚えていられるまでは、もたせたかった…。

言葉ではなく、こころで、撫子は彼の想いを感じ取った。
彼女も同じ想いだったからだろう。自分の身体は、もうもたない。
今回の一時帰宅が、自由に外へ出ることの出来る最後の機会だ。
だから、夫と子供達がいずれ暮らしていく場所を見ておきたかった。

だが、まだ三つになったばかりの娘は、自分を覚えていることは出来ないだろう。
七つ年上の息子の桃矢も、自分譲りの不思議なちからのために随分たいへんな思いを
していた。
娘のちからは、それとは少し違うが、いずれ困難にぶつかることは確かなのだ。

『きっと、だいじょうぶ』

そうわかってはいても、その時に傍にいてやれないのは、やはりつらい。

彼にもまた、彼女の想いが伝わった。
同じ、子を持つ親だからだろう。だから、言った。

「強く望めば、留まることは出来ます。
 肉体を失っても、強い意志と想いがあれば貴女は貴女の意識を保ったまま、
 この世に留まることが可能でしょう。ちょうど、今の私のような感じでですが。
 貴女には、それだけの魔力(ちから)がある」
 
本当は、こんなことを言うべきではないのかもしれない。
道士としての彼は、迷える魂をあの世へと導くのも仕事なのだから。
だから、最後につけ加えた。

「それが、貴女にとって幸せなことかどうかは、わかりませんが」

「あなたは…?」

自分にそれが出来るのであれば、彼も…。
彼女は、そう思ったのだろう。

「私は、恐らく駄目でしょう。
 ≪これ≫を封じるために全ての魔力を使い果たすでしょうから…」
 
その語尾が、すうっと何処かへ吸い込まれるように聞こえた。
彼女が、はっとしたように彼を見つめている。その表情に、彼も気づいた。
姿が消えかかっている。どうやら、戻る時が来たようだ。
その時、今までだまって母親の胸にくっついていた女の子が彼に向かって手を伸ばした。

「ばいばい」

「さようなら、さくらちゃん」

彼は、伸ばされた小さな手に、そっと触れた。


     ……… 白い翼をもった、天使のような少女
           花びらのように舞い散る、薄紅色のカード
           黄金の眸の翼ある獅子
           銀の髪の翼ある青年
           そして李家の式服を着た、昔の自分にそっくりな少年 ………


一瞬、呆然とした表情を浮かべた彼は、ふっと微笑み……その姿は、消えた。


   * * *


「母さん、お母さん」

桃矢が自分を呼ぶ声に、はっと我に帰った。
ここは友枝公園。
先日、病院から一時帰宅した撫子は、日曜日に家族でお花見にやって来たのだ。
桜の名所や観光地ではなく、この場所を選んだのは撫子だった。

「あ、とーやくん、おかえり」

藤隆と二人でジュースを買いに行っていた桃矢に、撫子は言った。

「ただいま、撫子さん。はい、どうぞ…どうかしたんですか?」

たった今、夢から覚めたような顔の撫子に、藤隆が心配そうに尋ねる。
だが彼女が答える前に、桃矢が何も無い空間を指差して言った。

「…なんか…ここ、すごく怖いものと、すごく強いものが一緒にいたみたいだ」

「とーやくんには、わかるんだ。そうよ、すごくすてきなひとに会ったの」

「どんなひとですか?」

藤隆に答えようとして、撫子は首を傾げた。

「…えっと…。あっ、なまえきくの忘れちゃった〜〜」

「母さん、きいてもすぐに忘れちゃうじゃないか」

「撫子さんは、昔から人の顔と名前を覚えるのが苦手でしたからね。
 おや、さくらさん、寝ちゃってますね。重いでしょう、代わりますよ」
 
「ありがとう、藤隆さん。でも、だいじょうぶ。もうちょっとだけ…」

撫子は、自分の胸に抱かれて眠っている幼い娘に、そおっと頬擦りをした。


桜の花びらが、幸せな四人家族の上に途切れることなく舞い落ちていた。


   * * *


「お父様−、お父様−」

「だめよ、黄蓮(ファンレン)。お父様はお休みなんだから!」

「だあって〜つまんない−。せっかくお家にいらっしゃるのに〜」

「わたしもお父様とお話がした〜い」

「芙蝶(フーテイエ)姉様の言うとおりでしょ!
 緋梅(フェイメイ)もワガママ言わないの!!」
 
「雪花(シェファ)姉様のいじわる〜」

娘達のにぎやかな声に、彼は短い午睡から目を覚ました。
ここは、香港の李一族本家の邸宅。色鮮やかな花々の咲き乱れる庭である。
ゆっくりと籐製の肱掛椅子から身を起こした父親を見て、さらに娘達の声がにぎわった。

「お父様ぁ〜〜♪」

「ああっ、もう〜!お父様、ごめんなさい」

十五歳の長女から十歳の四女まで。
いずれ劣らぬ元気な娘が四人もいては、静かに昼寝をするのは無理というものだ。
そこへ、小さな息子を伴って夜蘭(イエラン)がやってきた。
彼女は結婚した当時と変わらず美しく、五人の子を産んだ母親とは誰も思わないだろう。

彼が天寿をまっとうしない者であることは、生まれた時に予言されていた。
それだけに彼等の結婚は、特に彼女の両親からの厳しい反対を受けた。
深窓の令嬢として育てられた夜蘭が親の言いつけに従わなかったのは
それが初めてだったという。
だが、先代の当主が彼を次の当主に指名したため、全てが決まった。

『人は長く生きるために生まれてくるわけではない。
 一つの世代は、次の世代を導く義務を負う。
 それを果たさぬ者の人生は、たとえ魔術を極めて何百年生きようと、虚しいだけだろう。
 我々は、繋がり続ける鎖の中の、一つ一つの輪にすぎないのだから』

それが、先代の言葉だった。
彼が逝った後を引き継ぐのは、妻だろう。そして、その後を継ぐのは…。

「さあ、父上ですよ。ご挨拶なさい、小狼」

夜蘭が促すが、三歳の息子は恥ずかしそうに母親の衣装の陰に隠れてしまう。
めったに会えない父親に、どうやら人見知りをしているらしい。
…あるいは、父の背後に在る≪魔≫の気配を感じ取っているのか…。

なかなか前へと出られない息子に、夜蘭が申し訳なさそうな顔をするのを、彼は制した。

「さあ、おいで」

跪き、目線を低くした父親に、頬を赤くした小狼がおずおずと近づく。
彼は小さな息子をひょいと抱き上げた。
とたんに、娘達からの抗議と要望の声。

「あ――っ!ずる〜〜い!!」

「わたしも〜!お父様、わたしも〜〜!!」

びっくりしたのと嬉しいのとで固まってしまった息子の、自分より少し濃い鳶色の眸を覗き
彼はそっと囁いた。


「おまえの≪未来≫に会ってきたよ」


                                   − 終 −


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時間軸としては、今のところ一番最初のお話になります。
別枠扱いにすべきか考えたのですが、投稿以降、ずっとこの設定が頭にありますので
こちらに。
参考イメ−ジはキャラクタ−シングル「小狼」のミニドラマです。
小狼君は『父上の若い頃によく似ているらしい』こと。でも家に『(写真は)ない』こと。
この話題には触れられたくなさそうだったこと…等。

タイトルの「未来のかけら」は、『オリジナル・サウンドトラック 4』または
『ボ−カルコレクション DISK−1(さくら編)』に収録されている『ひとつだけ』の
歌詞の中の一文です。

(初出01.3 「友枝小学校へようこそ!」様は、既に閉鎖しておられます。)