わたしのすきなせんせい



王都から馬車で一日の距離にある、カザルム王獣保護場。
ここには、獣ノ医術師となる者を教育する学舎も併設されていた。

豊かな緑に恵まれた高地は、春から夏へと移り変わりつつある。
草木の香りも爽やかな、光まぶしい季節。
だが、薄暗い図書室に立ち込めるのは、古びた紙と墨、そして埃の匂いだ。

今年も、“卒舎ノ試し”が近づいていた。
6年間の集大成ともいえる大事な試験を目前に、最上級生は目の色を変えている。
カザルム学舎の教導師トムラは、そんな学童達の姿に目を細めた。


……俺にも、こんな頃があったっけな…。


教本にかぶりつき、筆を走らせる様は、かつての自分そのものだ。
10年前、継ぐべき家業のない次男坊だった彼は、首席を取って教導師見習いとして
カザルムに残るため、必死で勉強していた。
こっそり暗記帳を作り、いつも持ち歩いていたものだ。
その一方で、傷ついた幼獣に入れ込みすぎた後輩の勉強も見てやっていた。

月日の経つのは早いものだ。あの時の幼獣が、もう何頭もの仔を産んでいる。
そして、あの時の後輩も…。

「トムラ先生、ここなんですけど…。聞いてます?」

不審そうな声に、トムラは我に帰った。自分を見上げる、黒目がちの大きな目。
こほんと咳払いをして、広げられた教本に視線を落とす。薬草と毒草について、だ。
専門分野ではないが、質問されれば教導師として答えないわけにはいかない。
真面目くさった顔で、真面目くさった声を出す。

「……ああ、チチモドキの見分け方か。これは…」
「違います。その隣のチゴの根について、ですってば。
 もう、しっかりしてくださいよトムラ先生!私の首席がかかってるんですからね!!」

最上級生のシロンが、ぴしゃりと言う。
その剣幕には、頭を掻いて謝るしかない。

「すまんすまん、チゴの根か。まず、特徴は…」

記憶を頼りに説明を試みながら、しかし、とトムラは思う。
何かといえば教導師に反発していた初等のチビ助が、今年の卒舎とは。
やはり、月日の経つのは早いものなのだ。

あの頃は、トムラの腰辺りだった背丈も、今では肩に届く程だ。
黒髪も長く伸ばして、左右に結わえている。
最上級生では唯一人の女学童だが、去年と一昨年に入舎した女学童達の面倒見も良いと、
寮母のカリサが褒めていた。


……まぁ、昔に比べりゃ外見と雰囲気は、ずいぶん娘らしくなったよな。
   勉強熱心で負けず嫌いなのは、ちっとも変わらんが…。


説明を終えたトムラは、教本を閉じたシロンに胸をなでおろす。
だが、カザルム学舎開校以来の質問魔と呼ばれる彼女が、この程度で終わる筈はない。
案の定、懐から書き付けの紙を取り出した。

「じゃあ次は、家畜の病気についての質問です。
 こないだの実習の時、疑問に思ったことが幾つかあって…」

広げられた紙の、その黒々とした様に、トムラは声にならない悲鳴を上げる。
好奇心が強くて、集中力が高く、疑問をそのままにしておけない。
そんなシロンは、まさにあのエリンの教え子だ。

もっとも、5年前の事件…“降臨の野(タハイ・アゼ)の再臨”以降、何かと身辺が慌しくなった
エリンは、教壇に立つことがほとんど出来なくなっていた。
だからシロンもエリンではなく、トムラを見つけては質問責めにするのだろう。
但し、この口の減らない女学童は、二言目には言ってくれるのだ。


 『わからないんですか?
  じゃあ、いいです。後でエリン先生に教わりますから』



腹の立つその台詞を口にさせないために、トムラは随分努力した。
今ではシロンが受ける授業を事前に確認し、質問を予想した上で、備えておくことが習慣と
なっている程だ。
考えてみれば、シロンのおかげで、彼も教導師として随分と鍛えられたのだ。
それも、残り僅かだと思うと、淋しい気がしないでもない。

「……と、いうことだ」
「なるほど、よくわかりました。ありがとうございます」

事前準備が効を奏し、今日も全ての質問に答えることが出来た。
礼儀正しく頭を下げ、ようやく筆を片付け始めたシロンに、トムラはいつもながら感心する。
毎回毎回、いいところに気づくものだ。

以前は書物を丸暗記し、その知識をひけらかす頭でっかちだったのに、
今は自分の五感で確かめ、自分なりの考えをまとめる力をつけた。
シロンが書き付けた大半は、質問というより推論なのだ。


……こいつは、良い獣ノ医術師になるだろう。


トムラは思う。なれれさえすれば、と。


……教導師になっても、きっと学童達に慕われる。
   だが一番向いているのは、やっぱり研究者だろうな…。


どの道を選んでも全力で取り組み、大きな実績を残すに違いない。
そう確信させられる学童は、教導師になって2人目だ。
もっとも1人目は、今も昔も変わらず彼を“先輩”と呼び続けているのだが。

「……トムラ先生。
 もう一つだけ、質問したいことがあるんですけど」
「ん?何だ」

躊躇いがちな声に、顔を上げた。目の前のシロンは何時になく深刻な顔だ。
勉強道具は片付け済み。ならば、教科以外の話だろうか。珍しいこともあるものだ。
怪訝に思っていると、急に俯いてしまう。

「………あの」

何事にも遠慮のないシロンが口籠る。益々珍しい。
首を傾げたトムラは、ふと思いついた閃きにハッとした。


……もしかして、例のことか…?
   知っているのはエサル教導師長と俺だけの筈だ。
   エリンにさえ話していないのに、どこから…。


だが、そうだと思えばシロンの挙動不審も説明がつく。
トムラは僅かに身を乗り出し、そっと声を落とした。

「どうした、シロン。何か悩みでも…」

とたん、小さな声が早口で言った。

「トムラ先生は、妻が働くのを恥だと思いますか?」

予想外の質問に、何度か瞬きを繰り返す。
感じたのは、まず安堵だ。例の件は知らずにいる。
その間にも、机を見つめるシロンの耳は、火照るように赤くなっていた。
やがて思い至ったトムラは、口元に浮かんだ笑みを噛み殺した。


……なるほど。“お年頃”とか言うヤツか…。


この時代、まだ専門の職業を持つ女性は限られている。
余程の変わり者だと世間から見なされ、縁遠くなる場合が多い。
例えば、大変失礼ながら現在のエサル教導師長のように。

だが、シロンの理想は学舎でもう一人の女性教導師だ。
ついては、世間一般の男の意見が聞きたいといったところだろう。
トムラは言葉を選びながら口にする。

「稼ぎが足りなくて働かせるのなら、男にとっては恥だろうな。
 けど、エリン…先生のところは、違うじゃないか。
 イアルさんは良く出来た方だが、妻が仕事を持つことに理解を示す度量のある男は、
 他にも居ると思うぞ」

5年も経てば、冷静に口にすることが出来た。
それでも最後に言い添えてしまうのは、負け惜しみかもしれない。
身重の妻を気遣ったり、乳飲み子の世話を分担したり、王都に呼び出される留守を守ったり。
そのくらい、自分にだってと。

「少なくとも俺は、才能を生かすのに男も女も無いと考えるしな」

教本を胸に抱いていたシロンは、ぱっと顔を上げた。
安心したように笑顔を浮かべ、大きく頷く。

「そうですよね!!」

若い娘だけが持つ、蕾がほころぶような笑み。
もっとこういう顔をして見せれば、同級の学童共の接し方も違ってくるのだろうに。
あの年頃の男が、女の子に無関心でいる筈がないのだ。自分の経験からも、トムラは思う。
そんな複雑な男心など気づいてもいないのだろうシロンは、噛みしめるように呟いている。

「私だって、エリン先生みたいに…。」

そら、やっぱり。
入舎した頃は、やたらとエリンに敵対心を燃やし、噛み付いてばかりいたシロンだが、
リランの最初の出産を切欠に、すっかり彼女を尊敬するようになった。
エリンのようになりたいと憧れているシロンの目には、その夫であるイアルは
理想の男性に見えるのだろう。
キラキラした黒い瞳と上気した頬を見下ろして、今度は溜息を噛み殺す。


……まったく女って生き物は、王獣に劣らずわけがわからん。


つくづくと、思う。
かつては“王獣一直線”と揶揄されていたエリンでさえ、気がつけば夫を捕まえ、
今や1児の母親だ。
シロンも数年経てば、親の決めた縁談相手に仕事を認めさせているかもしれない。
もし、首席が取れなかったら。カザルムに残れなかったら、シロンの人生は…などと
心配するだけ無駄なのだ。
教導師の自分に出来るのは、教え子の知識欲に全力で応えてやることだけだ。

「じゃあ私、行きますね。
 そろそろ王獣達の世話をする時間ですから」

勢い良く席を立って、シロンは元気に言った。
最上級生になったシロンは、かつての望みどおり王獣の世話係になっている。
それこそ、どんな授業よりも熱心に王獣の様子を見て回り、細かく記録をつけては
エリンに報告しに行く。
だが、その仕事は、試験前には免除される筈だった。

「“卒舎ノ試し”も近いのに、まだ世話係を続けているのか?
 エリン先生に言って、暫くは俺が代わりに…」

とたんに、シロンの目が吊り上がる。

「ちょっと、止めてくださいよトムラ先生!!
 折角、エリン先生と王獣の話が出来る貴重な時間なのに。
 それに、今じゃトムラ先生より私の方が王獣には詳しいんですからね!!」

頬を膨らませ、口をヘの字に歪めた顔に、脱力感を覚える。
何が『娘らしくなった』だ、『お年頃』だ。
この減らず口、小生意気な態度。入舎したての頃、そのままではないか。

「おまえ、ホントに初等坊主の頃から変わらんな…。」

思わず吐き出すと、今度は口を尖らせる。
百面相だなと思っていると、恨みがましい目で睨まれた。

「“坊主”だなんて、失礼しちゃう…。
 トムラ先生、そんなだからイイ歳して、お嫁の来てが無いんですよ?」

ぐっさり。
痛いところを突かれて、言葉に詰まった間に、シロンは図書室から駆け去った。


……半ト後。

「おい、あんた。だいじょうぶか?」
「だいじょうぶだモン?」

図書室に掃除にきた雑用2人組は、机に突っ伏すトムラに声を掛ける。
だが、その返事はヒカラから響くかのようだったという。

「ほっといてくれ…。
 どうせ、どうせ俺なんか〜〜」


   * * *


放牧場は、一面の緑に覆われている。
春から夏へと移り変わる空の色。青々とした草。
リラン達のいる王獣舎に急ぎながら、シロンはぎゅっと教本を抱きしめた。

女性でありながら、今や王獣研究の第一人者であるエリン。
彼女はシロンの憧れで、目標だ。
カザルムに残りたい理由の一つは、エリンの研究を助けたいからでもあった。
けれど最近また少し、“負けたくない”の虫が心の中で騒ぎ始めている。


……トムラ先生、今もエリン先生のことが好きなの、バレバレなんだもん。
   もう旦那さんも子供もいるのに、あきらめが悪いったら…。


溜息が、草の香りのする風に混じった。
シロンにだって、わかっている。それだけ一途で、不器用なのだ。
条件の良い相手に簡単に乗り換えるような軽薄な男より、よっぽど良い。
渋面を作っていた頬を、少し緩ませながら思う。

あの調子なら、寮母のカリサが持って来る縁談も、また断るに違いない。
人が良くて押しに弱くて優柔不断なくせに、実は結構、頑固なのだ。


……トムラ先生は、普通の男の人とは、ちょっと違うから…。


心の中で呟くだけで、ドキドキと脈が速くなる。頬から耳が、熱を持つ。
それに気づいたのは、何時頃からだろう。

思い出すのは、5年前。エリンがリラン達と共に王都に連れて行かれた、すぐ後。
学舎に乗り込んできた大勢の近衛兵。怯える自分達学童を、庇ってくれた背中。
残念なことに、その膝が震えているのがわかって、ちっとも頼もしくは見えなかった。
自分がしっかりしなきゃと、べそをかく同級生を叱り飛ばしたり、おろおろする寮母さんを
励ましたりしていた。そんな記憶。

いつだって、ちょっと頼りなく見える、若い先生。
けれどシロンの質問には、困った顔をしつつも真面目に答えてくれる。
その場で答えられないことも、後でちゃんと調べてくれる。
毎年、同じ内容の授業を繰り返すだけの他の教導師達とは違うのだ。
それに…。


 『才能を生かすのに男も女も無い』


そういうことを本気で言える男は、この国ではごく少数だ。
シロンは知っていた。学童仲間の男連中や、他の先生達が影で言ってることを。
自分のように勉強ばかりしている娘は、きっと嫁の貰い手も無いだろうと。

父親と兄達…もといクソ親父とクソ兄貴共が、彼女を実家に連れ戻すために画策し、
首席で卒業させないよう、教導師長に依頼したことも知っている。
トムラが教導師長に負けないくらい怒ってくれたのも、立ち聞きしていた。


 『何ですか、この手紙は!!
  娘には良縁があるから、教導師見習いになどなって、貧乏人のように働く必要は
  ない…?
  シロンの努力と才能を認めないなんて、親としてどうかしてますよ!!』
 『落ち着きなさい、トムラ。もちろん、依頼は寄付金と一緒に突き返しました。
  カザルムにおいて、一切の不正は認めません。
  これを見せたのは、貴方が今年卒舎する学童達の担当教導師だからです』



彼女が勉強を続けることを。獣ノ医術師として教導師として、自立することを。
認めてくれるのは、エサル教導師長と、エリンと。
男の人では、きっとトムラだけだろう。
そんな自分を、特別だとは少しも思っていない。そういう人なのだ。

「でも、エリン先生も鈍かったけど、トムラ先生も大概だなぁ…。」

王獣舎へ続く道を辿りながら、シロンはもう一度大きく溜息を吐いた。
話している間の様子を観察する限り、全然気づいてくれてない。
むしろ、変な方向に勘違いされているような気さえする。

エリンの鈍さには思えば助けられたようなものだが、トムラの場合、これからの前途多難が
伺える。
ちなみに、素直になれない自分にも問題があるという認識は、今のシロンには皆無である。

「……ま、いっか。今はとりあえず、勉強勉強」

決意も新たに、シロンは歩幅を大きくする。
まずは教導師と学童を卒業して、教導師と教導師見習いになってから。
そこからが、次の一歩だ。

目指すのは、誇りの持てる仕事と、理解のある優しい夫、そして可愛い子供。

その全てを手にした憧れの先生が、王獣舎の前で待っている。
緩やかな坂道を昇りながら、シロンはきゅっと口元を引き締める。

女が仕事を持って、自立すること。
好きな男と結婚し、その子供を産むこと。
自分の意志を貫くこと。

たったそれだけのことが、どんなに難しいか。
書物ではなく、この目で見てきたからこそ、思うのだ。


……先生が負けなかったものに、私も負けたくない。
   先生が諦めなかったものを、私も諦めない。


「こんにちわ、シロン」


束ねられた長い髪が風に揺れ、腕に抱かれた幼子が無邪気に笑う。
その穏やかな緑の瞳に、シロンも笑顔を返した。
真っ直ぐに、力強く。


「こんにちわ、エリン先生。ジェシ」



                                   − 終 −


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(以下、反転にてつぶやいております。)

アニメオリキャラのシロンちゃんとトムラ先生。
ざっと見積もって、多分9〜10歳差。何て私好み。(笑)
原作では“○○師”ですが、やはり“先生”の方がピンときます。

昔はシロンちゃんみたいなキャラクタ−は苦手でしたが、今では小生意気な
ガキんちょキャラが可愛くて可愛くて、頭をぐりぐりしたいです。
すぐに素直な良い子になってしまったのが、むしろ残念。
でも、トムラ先生にだけは小生意気なままだといいな。恋心ゆえに。(笑)

仕事も恋も結婚も出産も!!を実現したエリン先生は、シロンちゃんの憧れであり、
『先生にできたんだから、私だって!!』
みたいなところもあるのではと。永遠の目標兼ライバル。
でも、賢い彼女は色々あったことも、今も色々あることも理解していて、影ながら
親子3人の幸せを願っていると思います。トムラ先生やエサル先生と同じように。

ちょっと頼りなくて、未だに独身(らしい)トムラ先生は草食系。
向上心の塊のようなシロンちゃんは肉食系。
そう考えると現代的なカップルかもしれません。(笑)
ところで、カザルムって職場結婚OKなのでしょうか。
前例も無さそうだし、エサル先生の裁量次第かも。