不 死



桂木弥子がXに捕らえられ、数日が経過した。
1時間毎に繰り返される電子ドラッグによって、彼女は少しづつ変わっていく。

まず、彼女の特徴であった異常な食事量はごく普通の若い女性と変わらないものとなった。
Xと同じ筋力と瞬発力を彼女の肉体に発揮させるためには、体質そのものを変える必要が
あるのだという。

魔人ネウロを殺すため、Xが求めたのは桂木弥子との完全なる同調(シンクロ)だ。
それにはXが彼女に近づくと同時に、彼女もXに近づかねばならない。
桂木弥子の中に、ゆっくりとXを侵蝕させていくのだ。

電子ドラッグに支配されている彼女が、それに気づくことはない。


   * * *


「ねぇ〜、アイ」

間延びした、甘えるような声が私を呼ぶ。
だらしなく椅子の背もたれに顎を乗せ、関心の無さそうな顔を向けて。

「何でしょうか、桂木弥子」

まるでXと会話をしているようだ。正確には、桂木弥子に変身したXと。
そう思いながら、私はアジトを移すための作業の手を止めた。

「あんたさァ〜、何でXのそばに居んの?」

肩がずり落ちかけた白いワンピ−スを着た彼女には、私の顔を見た瞬間に頭を下げて
ハンカチの礼を言った数日前の面影はどこにもない。
Xそのもののような無遠慮な口調での質問に、私は答えた。

「可能性を確かめたいからです」
「可能性〜?何の」

桂木弥子は問いを重ねる。
本物のXならば、私が何を考えて仕えているのかなど気にも止めないだろう。
止めたとしても直ぐに興味を失くし、尋ねたことさえ忘れてしまうのだ。
それでも私は何度でも同じ返事を繰り返す。
相手がXであろうと、なかろうと。

「……人間には限界がある。
 空を飛べるわけでもなければ、死なないわけでもない。
 けれど、あるいは…。そう思わせたXの限界はどこにあるのか。
 あの方の正体(なかみ)を私も知りたいのです」

それだけが、私が此処に居る理由。
祖国を失い、名を失い。元の自分を消して手に入れた私の正体(なかみ)。
“知りたい”という欲望。
桂木弥子がネウロと出会うことによって変わったのと同じことだ。

かつて蛭が目を輝かせ、葛西が薄ら笑いを浮かべた私の返答に、桂木弥子は不満気な
表情(かお)をした。
まるで、準備した食事の献立が気に入らなかった時のXのように。

「ふ−ん。そのために大勢の人間が殺されて、その家族が悲しんだり苦しんだりしても
 全然構わないんだ…?」

Xならば、こんな質問をする筈がない。
だから、問うているのは桂木弥子以外の何者でもない。
確信しながら、短く言った。

「はい」

たった一人の標的を消すために、何十人、何百人もの人間を巻き添えにした。
それを何度も繰り返した。
祖国の命令で、飛行機事故に見せかけるための細工によって。
自分の正体(なかみ)を知るためにXがその手を血で濡らして殺した人間より、
私が落とした飛行機に乗っていた人間の方が、今でもまだ遥かに多い。

「でも、さぁ〜」

間延びした、甘えるような声のまま。
だらしなく椅子の背もたれに顎を乗せたまま。
少女の表情だけが苦し気に歪む。
“HALU”からXの脳にダウンロ−ドしたプログラムが不完全だった所為か。
度重なる洗脳にも関わらず、彼女の一部はまだ“桂木弥子”であり続けているようだ。


「すっごく幸せな時、まるで空を飛んでいるような気分になったりしない?
 死んでしまった筈の人が、どこかで笑って話しかけてくれているような気がしない?
 “人間”って…、そういう生き物だと思うんだけどなぁ〜。」


その語尾は、私を見つめる眸のように揺れていた。
揺れているのは彼女の脳でも細胞でもなく、感情なのだろう。


幸せだから、空を飛んでいるような気分になれる。
死んだ筈の人間が、記憶の中でずっと生きているような気がする。


なんて安っぽい、絵空事を。
ぬるま湯のようなこの国で、何不自由なく育てられた女子高生の言いそうなことだ。
彼女にとっては、それが真実だとしても。
そんな独善的な価値観は、私が求めるものでも主が求めるものでもありはしない。

「私には、そんな経験はありません。
 Xにも無いでしょう。少なくとも、今のXの記憶にはありません」

淡々と事実を述べた私に、桂木弥子は尚も食い下がった。
初めて会ったあの日、借金返済のため治験を目指して走り出した時の。
…いや。トラックに轢かれそうになった無関係な子供を助けようとした時の目だ。

「でも、今までは無くても、これから経験できるかもしれないでしょ?
 アイだって、Xだってそうだよ…!!」

彼女の言葉には私への、そしてXへの敵意や怖れは微塵も感じられない。
それは中途半端に効いている電子ドラッグの所為か、それとも在り得ない程に強靭な
彼女の精神(こころ)に寄るものなのか。
判断がつかないまま、私は口にしていた。


「桂木弥子…、貴女は」


   * * *


振動するプロペラが空気を震わせる。
巨大な鳥の羽音にも似たそれに掻き消されないよう、私は普段より声帯を使って
インカムに話し掛けた。

「どうなさいますか?このヘリには一通りの銃火器も積んであります。
 ネウロにもう一戦挑むことも不可能ではありませんが」

暫く、Xからの返答は無かった。
ネウロにやられたという傷は、それほど酷いのだろうか…?

〔………アイ。ゴリラ肉のいいところ、まだ残ってるよね?〕

ふいに問われて、少し戸惑った。
ネウロとの決戦前にアジトを引き払う際、脂ののった太ももの肉を運び出したことを告げると、
いつもどおり甘えた少年の声で言う。

〔今日は引き上げる。美味しい唐揚げ作ってよ、アイ〕
「……かしこまりました」

自分の口元が少し緩んでいるのがわかる。
眼下の警視庁本庁舎屋上にはXの他に、追ってきたらしい数名の警察官と魔人。
Xと同じ白い服を着た少女の姿もあった。
鉄の乗物の高度を下げながら、彼女と交わした言葉を思い出す。



   『貴女は、どんな時に空を飛べるのですか?』

   以前の彼女ならば、「美味しいものを食べている時」とでも答えるのだろう。
   だが、今の彼女の食欲は常人並に抑制されている。
   答えを見失い、途方に暮れることを予想した。
   しかし彼女は一瞬も迷わなかった。


   『誰かのために、わたしにも出来ることがある時。
    必要とされて、信頼されて。それに応えることが出来た時。
    嬉しくて嬉しくて、心も身体も軽くなって。
    どこまでだって飛んでいけそうな気分になれるんです!!』


   “その時”のことを思い出しているのだろう。
   眸を輝かせ頬を上気させているのは、完全な“桂木弥子”に他ならなかった。



空を飛べる人間がいる。
死んで尚、生き続ける人間がいる。
限界に捕らわれることのない自由な精神(こころ)を持つ人間がいる。



彼女と話して、あらためて感じたことを今度こそ主に伝えたいと思った。
追うべきなのは魔人ではない。
桂木弥子こそが、Xの正体(なかみ)を知る鍵となるだろう。


……その前に、傷だらけのあなたを迎えよう。
血塗れの白い鳥のように、こちらに向かって飛んでくる私の唯一人の主。
いつもより柔らかな声を出すように努めて。
今の表情を留めたままで。



   『おかえりなさいませ、X 』


               ドウンッ!!


   * * *


国際警察に化けていた得体の知れない男が、Xを連れて去って。
屋上に残ったのは人の顔の皮と、ヘリの残骸と。
焼け焦げていく血に染まった白い顔。

某国の破壊工作員。通称“飛行機落とし”のイミナ。
…そんな人は、知らない。


   『ねぇ〜、アイ』


覚えている。
“Xだった”わたしは、子どもの頃にお母さんに甘えていたように、この人を呼んだ。
酷い臭いに吐き気を覚えながら、わたしの頬には涙が流れていた。

泣いているのは“桂木弥子(わたし)”?
それとも、“X(サイ)”…?
不思議そうなネウロの顔も、笹塚さんの気遣うような視線も今は遠い。


   『桂木弥子』


覚えて、いる。
わたしの名を呼んだ声を。見つめていた眸を。


   『貴女は、どんな時に空を飛べるのですか?』


この女性(ひと)が空を飛びたがっていたことを
わたしは、忘れてはいけないのだと思った。



                                   − 終 −


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(以下、反転にてつぶやいております。)


  第109話〜110話でのアイさんことイミナと“X(サイ)”の出逢編。
  または彼女は如何にして“i(アイ)”となったのか。
  「人間には限界がある」以下に続く台詞を受けるのは、Xでもネウロでもなく
  弥子ちゃんであって欲しいと思っていました。
  弥子ちゃんに対して、“可能性”という言葉を繰り返していた彼女。
  攫われて共に過ごした数日間に、二人の間にはどんな言葉が交わされたのか。
  もしかしたら、これから回想等で出てくることもあるかもしれませんが、自分なりに
  彼女の死を整理したくて書いてみました。
  微妙に薄味なサイアイですみません。(汗)
  コミックス発売まで待つべきなのですが、この手の話は勢いが肝心というか。
  その頃にはまた違う展開になっているかもしれませんので、取りあえず。(汗)
  注意書については、収録コミックス発売後に削除いたします。
  (2007.12.8 注意書削除)