既 視



玄関の前で、笹塚は吸っていた煙草を揉み消した。
一つ息を吐き、ポケットに右手を突っ込む。
指先に触れる小さな金属。
カチリと音をたてて、鍵穴が回った。


   * * *


しんとした土間で靴を脱ぎ、出されていたスリッパに履き替える。
電気をつけていても、玄関は少し薄暗い。
一足ごとに、フロ−リングの床がミシミシと軋む。
さして長くもない廊下の突き当たり。
レバ−ハンドル式のノブに手を、掛ける。


「あ、おかえりなさい!」


振り向いた弥子が、笑った。
開け放たれたドアの奥。
家具と電化製品と、こまごました小物とで彩られた部屋。
明るい色の髪が、肩の上で踊る。

「せっかくのお休みなのに、買出しさせちゃってごめんなさい」

ぱたぱたとスリッパの音をたてて近づくと、笹塚の手からス−パ−の袋を受け取ろうとする。
中身は当然のように全部が食料品だ。

「……煙草、買うついでだから」

伸ばされた手に袋を渡さないまま、笹塚は短く返事をした。
すまなさそうだった弥子の表情(かお)が、ふわりと緩む。

「家ではゼンゼン吸わないのに」
「………たまに、ベランダで吸ってる」

控え目に反論すると、クスクス笑う。
かつて、“女子高生探偵”として名を馳せた観察力に加え、驚異的な嗅覚を持つ彼女には
外で一服していたこともお見通しなのだろう。

「あ、おとうさんだ!こんにちわ−!!」

家を出るときは、まだ昼寝の最中だった長男が走り寄ってきた。
笹塚が起きたのが昼をとうに過ぎていたため、今日、顔を合わせるのは初めてだ。
5歳になる息子の挨拶は正しい。

「……ああ、ひさしぶり」

起きている顔を見るのが4日ぶりの笹塚の挨拶も、間違ってはいない。
母親に似て、ふわふわの癖っ毛に手を置くと、薄茶の目が嫌そうに歪んだ。

「おとうさん、イガイガなニオイする!!」

逃げて行く息子を見送る笹塚に、弥子が笑いながら言った。

「禁煙、する気になりました?」
「…………考えとく」


   * * *


警視庁捜査一課には、暗黙のル−ルがあった。
小学生以下の子供を持つ者は、日曜祝日に休みを取るべし。
だが、年中無休の犯罪に追われる現場刑事が、予定通りに休みを取ることは難しい。
それでも笹塚は、連日の深夜残業と引き換えに毎日曜の家族サ−ビスに努めていた。

「でね〜、お母さんったら餃子作って持って来るって言い出して。
 久しぶりに孫の顔が見れるもんだから、イイトコ見せたいのか張り切っちゃって。
 止めるの大変だったんですよ−!!」

今夜は夕食に弥子の母・遥と、今も桂木家の家政婦をしている美和子を招いている。
ス−パ−の袋をキッチンまで運んだ笹塚は、淡々と答えた。

「……それで急に、餃子の材料が必要になったワケね」

テ−ブルに置かれた袋から豚ひき肉のパックとキャベツ、ニラ、餃子の皮を取り出して
弥子は肩を落とす。

「だって接着剤餃子、食べさせるワケにはいかないじゃないですか…。
 あの子たちが、わたしみたいになっちゃったら困るでしょ?
 だから、ウチでも餃子作ったからって言っちゃって」

流しで手を洗う笹塚は、1時間前の光景を回想する。
相変わらずの低血圧で、ぼ−っとしている夫に朝昼兼用の食事をさせていた弥子は
掛ってきた電話に滝のような冷や汗を流していた。

まだ口にしたことはないが、義母の料理は殺人的に凄まじいものらしい。
弥子曰く、彼女の“食べられるモノを食べられる時に、食べられるだけ食べておける
便利な胃袋”は、義母の料理に対抗して造られたものだそうだ。
子供達が弥子に似ず、人並みの食欲で育っているのは食環境が人並みだからだろう。
笹塚の異様なまでの燃費の良さと掛け合わされた結果だという説も、否定できないが。

「…手伝う?」

手を拭きながら、まな板にキャベツを乗せる背中に声を掛けた。
笹塚は、実はそこそこ料理が出来る。
独身時代は不精が勝り、自分だけのために自炊することは一度もなかったが
結婚後は台所に立つ機会が増えた。

「ん−、ありがとう。でも、他の料理は出来てるし、下準備もしてるから…」

後ろ手にエプロンを結びながら、弥子が答える。
仕事が不規則で普段は何も出来ない分、休みの日ぐらい彼女の負担を減らしたい。
笹塚がそう思っていることは、ちゃんとわかっているのだろう。

「代わりに、あっちを見ててください」

包丁を手に、にっこり笑う。

「お休みの日ぐらい、子どもの相手しないと忘れられちゃいますよ?」


   * * *


午後のリビングには日が差し込んで、空気が暖かい。
カ−ペットに敷いた古いタオルケットの上に、向かい合って座る2人の幼児。
幼児といっても、下の子はやっと1歳になったばかりだ。

そこらに散らばる、赤や青や黄色のオモチャ。
転んで怪我をしそうなものを遠ざけて、近くに腰を下ろす。
手を洗い、服も着替えたので嫌われるほどの匂いは残っていないだろう。

「…なにやってんの?」

声を掛けると、ぬいぐるみを手にした長男が笹塚を見上げた。

「あ、おとうさん!」

髪も目も、淡い色合いは見事に両親の中間色だ。
弥子ほど明るくはなく、笹塚のようにくすんでもいない。
人見知りをしない性格は、母親似だと良く言われる。

「くぅ、ま−?」

兄の後を追って、笹塚を見上げた娘が首を傾げた。
隔世遺伝なのか髪も目も黒い。
まだ性格がわかる年ではないが、顔立ちは父親似だと弥子は主張する。

「ちがう、ちが−う!!“くま”はこっちだってば。
 あっちは“おとうさん”!」
「と−?」

幼稚園に通う長男は、最近、妹に言葉を教えることに夢中になっているらしい。
暫く前、弥子がそんな話をしていた。
おかげで娘は息子より、言葉を覚え始めるのが早いようだ。
一見、妹の面倒を良くみるお兄ちゃんだが、本人にとってはゲ−ムなんかより面白い
オモチャなのだろう。

「とッ、とぉ−!」
「う−ん、ちょっとちがうけど、い−や。
 じゃあ、ぼくは?ぼく!」

あっさり“おとうさん”を諦めた長男は、自分を指差し期待でいっぱいのまなざしを
妹に向ける。
じ−っと兄を見つめた娘は、小さな口を大きく開けた。

「とぉ−、と!!」
「ちッが−う!“おにいちゃん”だってば!!
 さっき、おしえたじゃんか〜!!」
「とぉ?」

甲高い子供達の声。
甘ったるい匂い。
窓から差し込む日差しの中で、埃が粒子のように踊る。


 いつかどこかで見たような
 おなじことがあったような
 夢とも現ともつかない、光景


   『に−、ちゃ!!』


ふいにズボンを引っ張られ、笹塚は意識を現実(ここ)に戻す。
ハイハイで近づいて来た娘が、足にしがみついていた。

見上げる黒目がちな眸。
赤い髪留めを付けた頭に手を、伸ばす。

「あ−ッ!?おとうさん、とった!!ドロボ−だ!!」

頬を膨らませた長男が、妹を引き剥がした。
そのまま両腕で抱え、リビングの端へ逃走する。
笹塚に似たのか体は年より大きいので、1歳の幼児を持ち運ぶ力があるのだ。
いきなり父親から離された娘も、お兄ちゃんにだっこされて嬉しいらしい。
きゃっきゃと手足をバタつかせている。

「盗ったって…」

再び息子に背を向けられ、娘からは無視されて。
笹塚は小さく溜息を吐いた。
やはり、仕事が忙しすぎるのか…。

「幼稚園でも、ああみたい。
 しょっちゅう抜け出しては、隣の保育園に行くらしいんですよ。
 『妹想いのお兄ちゃんですね』って、両方の先生に笑われちゃった」

夕食準備が一段落したのだろう。
マグカップを2つ持った弥子が、後ろで苦笑を浮かべていた。
笹塚にブラックのコ−ヒ−を手渡すと、カフェオレと一緒に隣に座る。

「産まれた時は、赤ちゃん返りしちゃって。
 『いもうとなんか、いらない』って拗ねてたのにね。
 最近はすっかり“お兄ちゃん”で、公園とか行っても、よその子が近づくだけで
 すごく怒るんですよ−」

愛しげに語るのは、一人前の母親の顔だ。
それでも夫に対する敬語口調は、今も抜け切らない。

「………俺も、そんなんだったな」
「え?」

低い呟きに、弥子は笹塚を見上げる。
彼のぞんざいな口調も、やはり相変わらずだ。

「…妹が産まれた頃…。大人の関心を妹に取られたみたいで、くやしくて。
 産まれてすぐはサルみたいで、あんま可愛くね−し。
 ……でも、そのうち人間らしくなってくると、面白いからさ。
 つつくと笑うし、動くようになると後ついてくるし、何でも真似するし…」

子供達の姿を目で追いながら、笹塚はゆっくりと話した。
長男は妹の手を引いて、立たせようと奮闘中だ。
もっとも当人は“ひっぱりあいっこ”だと思ったらしい。
全力で引っぱられ、踏ん張っているのは長男の方だ。

「……自分の気が向いたときだけ構って。気が向かね−と放っぽらかして。
 その癖、他の子が妹にちょっかい出してくると、なんか腹立ってさ。
 クレヨンで妹の顔に自分の名前書いて、親父とお袋に怒られた…」

げほッと、弥子はカフェオレを咽喉に詰まらせる。
そのまま激しくむせはじめた。

「……大丈夫?」
「ゲホゴホ、だいじょうぶ……、です」

背中をさすられながら、弥子は目尻を擦って顔を上げる。
笑いをこらえたその表情が、あの時の両親に重なった。


   『ちょっと、衛ちゃん…!!なにしてるの!?』
   『衛士はお兄ちゃんなのに、妹をいじめたらダメだろう?』



手がかからないと思っていた長男の思わぬイタズラに、叱りながら笑っていたのだと
今になって気づく。
“ささづか えいし”と赤いクレヨンで書かれた当の妹は、きょとんとした顔で
自分と両親を見上げていた…。


「そういう話、してくれたのって初めてですね?」

弥子の声が、笹塚を現在(いま)に引き戻す。
子供達の、真っ直ぐに人を見る大きな眸は、どちらも母親似だと思う。
幼い頃は誰もがそうなのかもしれない。

自分を無邪気に見つめる、黒目がちな眸。
娘のそれより鳶色がかった眸を、ビ−玉みたいだと飽きずに眺めていた。
遠い日の、記憶。


「………長いこと、忘れてたから…」


ミルクとべビ−パウダ−の甘ったるい匂い。
小さな手の熱さと力強さ。
甲高い声。

妹を構う息子を通して、もう一度、感じている。
自分が、妹を構っていた頃。
20年以上前に、一度失った筈の“思い出”を。


「じゃあ、これからドンドン思い出せますよ。
 あの子たちが小学校へ行って、中学校へ行って、高校へ行って…。
 きっと、いろんな話が聞けますね!」

嬉しそうに弥子が言う。
子供のように真っ直ぐな眸を、笹塚に向けて。

「わたし、一人っ子だったから。ずっと、“きょうだい”ってどんなのかなって思ってて…。
 すっごく楽しみです」

笹塚は、今もふわふわの癖っ毛をした弥子の頭に手を置いた。
ミルクとべビ−パウダ−の匂いは、彼女からもする。
それと、餃子の匂いも。


 いつか、家の鍵を開ける前に煙草を1本吸う癖を、止めることができるだろうか
 リビングのドアを開ける前に息を止め、瞬きよりも長く、目を閉じることを


……多分、それは些細なことなのだ。
子供達は成長し、自分達は年を重ねる。
子供が子供でいてくれる時間は、長いようで短い。
そのことに、比べたら。


「おとうさん、おかあさんッ!!」


甲高い声が2人を呼ぶ。
振り向けば、きらきらした眸と真っ赤な頬。

「みて−!!」

人差し指の先には、右に左に危なっかしく揺れる小さな身体。
誰にも、何にも支えられず、自分の足で立っている。

「に−、たッ!にいぃ、たん!!」

兄の後を追って、ピンク色の靴下を履いた右足が。そして左足が。
よたよたと動く。


 飛ぶための翼も 泳ぐための鱗も
 持たないヒトは

 つまづいて 立ち止まり 振り返って 
 焦れったいほど緩やかに、進む


3歩目でお尻を付いた娘が、きょとんと首を傾げた。

「すごいすご−い!!携帯で撮っとけば良かった−!!」
「おばあちゃんきたら、またみせたげるんだ−!!」

手を取り合って飛び跳ねる母と兄とを眺める眸は、不思議そうだ。
笹塚に抱き上げられると、ますます不思議そうな顔をする。
小さな手が、確かめるようにペチペチと顎から頬を叩く。

「とおぉ、たん?」

癖の無いサラサラの髪に手を置いて、笹塚は小さく頷いた。


「……うん」



                                   − 終 −


TextTop≫       ≪Top

***************************************

(以下、反転にてつぶやいております。)

“家族”を持った笹塚さん。嫁はもちろん弥子ちゃんです。
一男一女。4歳と数ヶ月違いの5学年差を希望。
(笹塚さんと妹さんが5学年差ぐらいかと。笹塚さんが大学4年時、妹さんは高校2年)
書いている内に『幾望』を補足する内容を含んでしまいましたが、基本は単発読切です。

結婚後、笹塚さんが弥子ちゃんを何と呼ぶか。弥子ちゃんが笹塚さんを何と呼ぶか。
無理矢理書かずに済ませました。子供達の名前も出さずに通しています。
お好きな呼び方&名前を当てはめてくださいませ。

笹ヤコ未来話を多数いただきました「カスミソウ」のka−na様に
拙作を捧げさせていただきたく思います。