羽 化



大きな音を立てて、ドアが閉まった。
驚いた弥子が振り向くと、カチリと鍵が掛る。
その音も、普段より響いた気がして、抱えていた筒をギュッと握った。

鍵のつまみを離れた手が、ゆっくり近づく。
節くれだった長い指。

ああ、荷物を持ってくれようとしているんだ。

そう思って、弥子はショルダ−バックの肩紐を外そうとした。
……けれど。

ドサリと、カバンが土間に落ちる。
卒業証書の入った筒が、足元に転がった。



   今朝、目を覚まして。
   何より先に携帯を開いた。
   友人からのお祝いメ−ルが何件か。
   肝心な人の名前が無いのに項垂れて、それでも自分を奮い立たせる。

   顔を洗う間も、大量の朝ご飯を食べる間も、ずっと考えて。
   ブラシをかけた制服に袖を通した後、やっと短いメ−ルを打った。

    〔おはようございます。
     お仕事、忙しいですか?
     できたら今日、会えませんか?〕

   笹塚からの返信を読んだのは、式が終わってからだった。

    〔卒業と誕生日、おめでとう。
     後でまた、連絡する〕

   素っ気無いにも程がある内容なのに、弥子は頬を緩ませた。
   とりあえず、今日がどういう日かは覚えていてくれたのだから。

   「ヤコ、写真撮るわよ〜!!
    お父さんの仏前にも供えるんだから、イイ顔で笑って」

   忙しい仕事を抜けて来てくれた遥が、デジカメを向ける。
   次に送るメ−ルを考えながら、駆け寄った。

    〔卒業式の後、お母さんは明日の夜まで出張です。
     お泊りしてもいいですか?〕



まずは、部屋に上げてもらって。
私立学校らしく、凝った装丁の卒業証書を見せて。
あらためて、無事に高校を卒業したことを報告して。
それから…の、筈だったのに。

玄関で立ったまま、キスされた。
『おじゃまします』さえ、言う暇がなかった。
足が浮いて、履いていたロ−ファ−がコトンと落ちる。
唇を塞がれたまま下を見ると、埃まみれの革靴も横向きに転がっていた。

身体が揺れて、眼下の景色がフロ−リングに変わる。
足元で、制服のブレザ−が背広と重なった。
慌てて胸を叩くと、やっと唇が離れる。

「さっ、ささづかさん…!?」

リビングで、懸命に声を上げた。
スルリとほどかれたリボンが、ネクタイと絡まって落ちる。

「笹塚さんッ!!」

バタバタと動かした爪先が、色褪せた絨毯を擦った。
やっと地に着いた身体は、けれど壁と笹塚の間に閉じ込められていて。

「………ごめん」

囁く声は、砂漠で遭難した人のように掠れていた。



    〔今夜10時に迎えに行くけど、大丈夫?〕

   笹塚からの2度目の返信は、1度目にも増して素っ気無い。
   それでも、弥子には十分な内容だった。
   今までは、どんなに頑張って甘えても駄々を捏ねても。
   夜10時には問答無用で家へ送り届けられていたのだから。
   
     『まだ高校生でしょ?』
     『本当は18歳未満の子とつきあうの、犯罪だし』

   弥子の反論を有無を言わさず遮った理由は、消滅した。
   今日から普通の恋人同士がすることは、何でもOKだ。
   人目を気にせずデ−トだって出来る。
   街中でベタベタしたり、キスしたり…は、多分してくれないだろうけれど。
   一晩中彼の部屋に居て、そのまま朝を迎えても構わないのだ。

    〔大丈夫です。
      10時に、わたしの家の前で待ってますね〕

   急いで返事を打って、深く息を吐いたところで叶絵がドアから顔を覗かせた。

   「ヤ〜コ!!主役がドコ行ってんのよ〜!?
    そろそろケ−キのロ−ソクに火ィ点けるわよ〜!!」

   カラオケのパ−ティ−ル−ムに戻ると、特に仲の良かった同級生達が
   ハッピ−バ−スデ−で迎えてくれる。

   「わぁ〜、キャラメルとピスタチオのショコラトルテ10号サイズ!!
    みんな、ありがと−!!
    ……でも、8号サイズのブル−ベリ−レアチ−ズも美味しそう…」
   「こっちは全員の卒業祝いなんだから、ヤコも1切れで我慢しなよ〜!!」

   皆で笑いながらケ−キを頬張っていると、隣に座る叶絵と目が合った。
   4月から違う大学に通う親友は、何もかもお見通しといったカオで
   ニヤニヤ笑っていた。




セ−タ−が、頭と腕を通りぬけた。
背中を壁に押し付けられて、身動きが出来ない。
スカ−トの留め金を探る手を、弥子は止めようとした。

「ちょ、待って…!!」
「……ごめん、無理だから」

その声は、普段以上に淡々として、少しもすまなさそうに聞こえない。
だから弥子には、笹塚が本気かどうかがわからない。
だって、こんなの。
どんなに拗ねても膨れても、泣いたフリをしてさえも。
冷めた顔で溜息を吐いていた彼と、同じ人だと思えない。
弥子を怖がらせるために、わざと性急にして。
泣いて嫌がったところで、そら見たことかと説教を始めるつもりでは…?

「っ、あ…!?」

あれこれ考えている内に、スカ−トがぱさりと床に落ちた。
歪な輪を描くプリ−ツ。
ハイソックスとブラウスの間で、太腿が剥き出しになる。
這わされた手のひらが冷たくて、背筋が震えた。
逃げようとした肩と腰が、壁紙に擦れて耳障りな音を立てる。

一瞬だけ、笹塚の手が止まった。
けれど背中に回った腕の力は、さっきより強くなった。

「嫌って言っても、……もう止まんないし」

もう一方の手が、ワイシャツのボタンを外している。
肌蹴た隙間から、しっかり割れた腹筋が覗く。
かあっと頬が熱くなって目を背けると、耳元に息がかかった。
脳髄まで響くような、低い声。

「ずっと、待たされてた…。
 ……こういうこと、弥子ちゃんにしたくないって思ってた?」



   卒業祝兼誕生祝のカラオケパ−ティ−が終わって、家に戻って。
   弥子は念入りに風呂に入った。

   普段、自分では使わないような高価なシャンプ−にトリ−トメント。
   枝毛だらけの駄目髪も、少しはなんとかなった気がする。
   それから、おニュ−の下着をつけて。
   でも、服はさっきまでと同じ高校の制服だ。
   カバンには教科書と文房具の代わりに、パジャマと着替えとその他諸々。

   途中でお腹の虫に邪魔されないように、食べ物を胃に詰め込んで。
   歯を磨いて、何度も鏡を覗き込んで。
   悩んだ末に、薄いピンクのリップグロスだけ唇に塗った。

   3月とはいえ、まだ肌寒い夜に10分前から迎えを待つ。
   約束の5分前に門の前に車が止まった。

   「こんばんわ、笹塚さん」

   運転席から制服姿の弥子をチラリと見た彼は、短く言った。

   「……早く乗って」

   直に会っても素っ気無い笹塚は、それきり黙ったままだった。
   こんな時、何を話していいかわからない弥子も、ずっと黙っていた。

   玄関のドアが閉められ、鍵が掛けられた後も。
   2人の間に会話らしい会話は無いままだった。




ブラウスのボタンが、襟元から下へ外されていく。
その後を追うように、吐息も下がっていく。
首筋から咽喉に。そして胸元に。

「笹、塚さ…!!」

恥ずかしさとむず痒さに耐えながら、弥子は覆い被さる肩を押した。
先にシャツを脱ぎ捨てた身体は、見た目より硬くて厚みがあって、ビクともしない。
いつの間にか、寝室のドアを一歩入ったところまで運ばれている。
ブラウスを脱がされたら、後は下着と靴下しか残っていない。

「待ってってば…ッ!!」

このまま流されたくなくて、声を張り上げる。
悲鳴に近いそれに、やっと笹塚は弥子と視線を合わせた。
いつもどおりの無表情なのに、眸だけが違う。
飢えと渇きと、それが満たされない苛立ちが混じって、今にも喰いつかれそうだ。

「……泣いても、駄目」

いつもより更に平板な、冷たいくらい感情の無い声。
弥子は、自分の目尻から涙が伝うのに初めて気づいた。
無表情のまま、笹塚の舌先が頬を辿って水滴を舐め取る。
まるで、渇きを癒そうとするかのように。

「〜〜っつ…じゃ、なくって!!」

頭を振って、弥子はもう一度声を上げた。
嫌なんじゃない。
焦らすなんて高等テクニック、使える筈もない。
ただ…。

「笹塚さん、言ってくれてないから…!!」

ずっと、待っていたのに。
聞きたかったのに。

「…………好きだよ?」

今更だ、とでも思ったのか。
ぼそりと口にした言葉は、微妙に語尾が上がっている。
ささくれた唇が濡れたように光るのは、弥子のグロスの所為だろう。

「ちが…っ!!
 ……や、それも、ですけど。それだけじゃなくてッ…!!」

首が斜めに傾いて、小さく鳴った。
困ったような、訝しげな顔。
ずっと、言いたかったのに。

「わ、たしだって、待ってたのに…っ!!
 笹塚さんが、こうしてくれるの…。今日を、ずっと待ってたのに!!
 まだ、メ−ルでしか言ってくれてないです…!!」

ぽろぽろっと、こぼれた雫が真新しい下着に降り注ぐ。
未熟な身体を覆う小さな布着れ。
白を縁取る、色とりどりの花を模(かたど)ったレ−ス。
咽喉仏がゆっくりと動いて、掠れた声が囁く。

「………卒業、おめでとう。
 それから18歳の誕生日、おめでとう」
「ありがとう、ございます…。」

笑ったつもりの顔は、きっと涙でくしゃくしゃだ。
それが恥ずかしくて、両手を回してしがみつく。
タバコの匂いが、シャンプ−のフロ−ラルと入り混じった。

「長らくお待たせいたしました」
「…………………、……うん」

照れ隠しにフザけたつもりが、間を置いての返事は真剣そのもので。
肩に引っかかっていたブラウスが、ハラリと落ちる。
足が浮いて、抱き上げられて、ベッドまで大きく3歩。

それから、後は。
恥ずかしいのと、気持ちいいのと、かなり痛いのと。
ごちゃごちゃになって、よく覚えていなかった。



   “究極の謎”を喰い(とき)終わって、魔人が地上を去った後。
   探偵を廃業した弥子に残ったのは、ギリギリの出席日数と赤点の山だった。

   卒業のかかった試験を前に泣きついた相手は、もちろん一流大卒で
   家庭教師のバイト経験のある彼。
   これ幸いと、泊り込みで勉強を教えて欲しいとせがんだが、夜が更けると
   部屋から追い出されてしまう。
   車の助手席で頬を膨らませた弥子は、ある日、運転席の笹塚に噛みついた。

     『じゃあ、高校卒業して18歳になったら。
      お泊りして、一晩中ずっと一緒に居てもいいんですよね!?』
     『……それはまず、無事に卒業してからの話ね』
     『ウチの高校、卒業式がわたしの誕生日と同じ日なんです!
      だから、その日は絶対、お泊りさせてくださいッ!!』
     『………だからとりあえず、試験勉強に集中した方が良くない?
      留年したら、18歳はクリアでも“女子高生”で引っかかるし』
     『必ず、今度の3月に両方クリアしてみせますから!!
      絶対の絶対に、約束ですからね−ッ!!』
     『…………まあ、励みになるなら何でも良いけどさ』

   数ヶ月前の、どさくさ紛れの約束。
   恥ずかしくて、当日まで念を押すこともしなかったけど。
   忘れずに覚えているのは、自分だけかもと思っていたけれど。

     『……………俺も、待ってるから…』
     『?今、何か言いました?』
     『……最大の難関は、やっぱ数学だろ−ねぇ…』
     『うう゛…っ』



翌朝。
盛大な腹の虫の音で、弥子は飛び起きた。
とたん、痛む身体に呻いた後、近くに笹塚の姿が無いのにホッとする。
微かにコ−ヒ−の匂いがするということは、多分、キッチンにいるのだろう。
見回すと、ベッド脇にはカバンが置かれ、きちんと畳まれた制服の上には
上下の下着も揃えられていた。

「…………。(/////)」

赤面しながら着替えをすませ、弥子はよろよろとキッチンに向かった。

「おはよう…、ごさいます」

目を合わせられずに朝の挨拶をする弥子に、低血圧だからか…の、割には随分と
早起きだが…パジャマ姿の笹塚も低いテンションで返事をする。

「……おはよ。日付、変わっちまったけど。
 あらためて誕生日と卒業、おめでとう」

言われて、テ−ブルに置かれたケ−キの箱と、籠入りのフラワ−アレンジメントに
気がついた。
慌てて顔を上げると、バツが悪そうに視線を逸らす。

「昨日、用意してたのに、渡すのが遅くなった。
 ………ごめん」
「笹塚さん…。」

弥子はテ−ブルに近づいて、そっとケ−キの箱を開けた。
直径は7号程度だが、高さが普通の倍はある。
真っ白なクリ−ムの上に、色とりどりのベリ−が宝石のように飾られたショ−トケ−キ。
都内の有名店の予約限定品の筈だ。

隣の籠には、溢れんばかりのチュ−リップにスイ−トピ−、スプレ−カ−ネ−ション。
黄色とオレンジに白をあしらった、春の花々。
花屋のウィンドウに飾られていたのを、そのまま買って来たのかもしれないけれど。
こんなに可愛いのを選んでくれたのが、意外だった。

「ありがとう…、すっごく嬉しいです!!」

満面の笑顔でお礼を言うと、笹塚は小さく息を吐いた。
多分、ホッとしたのだろう。

弥子は早速、インスタントのコ−ヒ−を傍らにケ−キを食べ始めた。
生クリ−ムの口溶けとスポンジの柔らかさ、そしてベリ−の甘酸っぱさ。
絶妙な三重奏も、また格別だ。
あっという間に半分を平らげたところで、ふと、視線に気づく。
色素の薄い眸が、もの言いたげに弥子を見つめていた。

「どふかしまひた?」

朝はコ−ヒ−しか飲まないと言っていたが、味見したいのかもしれない。
大人がすることは、かなりお腹が空くようだから。
ケ−キを味わいながら考えていると、間延びした声。

「……ん−。その服、ずいぶん大人っぽいなと思って。
 ちゃんと着替え、持って来てたんだ?」

フォ−クを口に運ぶ手が、止まる。
弥子が着ているのは制服ではなく、カバンに詰めたワンピ−スだ。
シックなプリントに、ふわりとしたシルエット。膝丈のスカ−ト。
先週、叶絵に付き合ってもらって一日がかりで選んだのだ。
もちろん、下着も一緒に。
だから最初の予定では、この服を着て来るつもりだったのに、ふと思った。
……どうせ“大人になる”のなら。

「卒業したのに、何でワザワザ制服着て来んのかと思ったんだけど…。
 その癖、風呂上りのイイ匂いさせてるし。
 ………やっぱ、“そのつもり”だったワケね」

食べる速度で、弥子の動揺を見抜いたらしい。
さすがは現役刑事。

「……な、なな何のことだか、サッパリ…。(/////)」

とぼけようとしても、正面からのプレッシャ−に冷や汗が止まらない。
“蛇に睨まれた蛙”のような、この感覚には覚えがある。
概ね、ロクでもない記憶と直結して。

「……まぁ、続きはソレ喰い終わった後でな」

頬杖をついた口元が、ハッキリと吊り上がる。
初めて見る、笹塚のわかりやすく笑った顔は、怖ろしいことに某魔人を連想させた。

大人って、結構相当大変なのかもしれない。
下手をすると、探偵役(ドレイ)よりも。

口にフォ−クを咥えたまま、弥子は固まる。
脱ぎ捨てた筈の制服が、何だか急に恋しく思えた。



                                   − 終 −


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(以下、反転にてつぶやいております。)

遅ればせながらの弥子誕話。
コメント欄には「大人傾向」と書いておりますが、年齢制限は不要と判断しました。
脱がす場面はありますが、最中を端折りましたので。(汗)
例によって事前と事後がメインの『初めてのお泊り』話です。
どうやら私、この手のシチュエ−ションが大好きらしい。(笑)

3月10日が誕生日の弥子ちゃん。
高校の卒業式というと、2月の末か3月の初めだと思いますが、私学ですし
3月10日に卒業式もアリかと。
魔人様は腹を満たして魔界にお帰りになり、弥子ちゃんは探偵を廃業済。
……という状況下での18歳の弥子誕です。

全ての問題をクリアして、やっと迎えた解禁日(笑)に暴走気味の笹塚さん。
“子ども”は徹底して子ども扱いするけれど、一旦“大人”と見なすと容赦が無い。
素の性格が出て、妙に魔界の住人を連想させる…という。
でも、真性のドSの人って恋人とか奥さんとか大事な相手には優しいと聞きますし、
大丈夫だよ弥子ちゃん!!……多分。
……毎度のことながら、笹塚さんFanの方には色々と申し訳のないことを。(平伏)