餌 付



桂木弥子の活躍により、“HAL事件”は解決した。
あれから1週間。

世の中が平穏を取り戻すと共に、警視庁も以前の活気を取り戻している。
電子ドラッグから解放された人々の身元確認と事情聴取、被害状況の把握。
捜査責任者である笛吹は、書類の決裁に追われていた。

家にも帰れず、机と会議室とを往復する毎日。
“HAL事件”の最中は鳴りを潜めていた強盗殺人も、徐々に発生している。
今となっては、数日前の閑散さが幻のようだ。


……警察が多忙を極めてこそ、社会の“正常な日常”というわけか…。


紙コップに口を付けながら、笛吹は苦々しく思う。
次の瞬間、本当に苦い顔になった。
至急決裁の書類を持って来た若手…確か、等々力といったか…に、自販機のコ−ヒ−を
頼んだのだが甘味がない。どうやら砂糖を忘れたらしい。

付き合いの長い部下ならば、疲れの見える上司にはミルクと砂糖を増量にするだろう。
だが、筑紫は別件で席を外している。まだ当分は戻って来ない筈だ。
しかめっ面でコ−ヒ−を飲みながら、笛吹は疲れた目を書類から離す。
その視線は、机の上のスタンドフレ−ムに向けられた。

決裁済の書類の山と、決裁待ちの書類の山脈。
連なる峰の麓に置かれたそれは、机の上で唯一の彼の私物だ。
普通なら、家族か恋人の写真だと思うだろう。
彼の嗜好を知る者であれば、クマのぬいぐるみを想像するかもしれない。
だが、フレ−ムを凝視する彼を見れば、どれでもないのは明らかだ。
笛吹の顔は苦々しさを通り越し、険しさを増しているのだから。

木目が美しいウォ−ルナット材のフレ−ムに収められているのは、彼にとっての戒めだ。
己の甘さを忘れないために、不愉快な過去を目の前に飾るのだ。

空になった紙コップを握り潰し、笛吹は仕事を再開した。
約束の時間までに、至急の案件には目を通しておかなければ。

決裁済の書類の隣には、書き直しを命じる書類がうず高く積み上げられていった。


   * * *


捜査一課の課長を通して指示した時間ぴったりに、ドアが叩かれる。

「入れ」

ドアの開く音、閉じる音。
革靴の音が近づいて、止まる。

「待っていろ」

笛吹は案件書類から目を離さず、短く命じた。
電子ドラッグに操られていた人々の中に、目ぼしい指名手配犯の名は無かった。
ヒグチが言っていたように、マイナスの素質を持つ人間には効きにくかったのだろう。
大半は指紋を取り、住所を確認した後に無罪放免となる。
数万人分のリストが添えられた書類に、笛吹は判を押した。
その中に、“ヒグチユウヤ”の名が挙がっているのも確認済だ。

書類の束を決裁済の山の頂上に置いたところで、笛吹は眉間を押さえた。
ぶっ通しのデスクワ−クに、さすがの彼も疲れを感じている。

コトリ と、軽い音がした。
顔を上げると、紙コップが白く湯気を立ちのぼらせている。


「………相変わらず、忙しそうだな」
「フン、昨日までベッドで寝ていたおまえよりはな」


結局、見舞いに行ったのは電子ドラッグの事件が本格化する前の一度きりだ。
病院暮らしだった割に、顔色の悪さも目の下のクマも改善された様子は無い。

机に置かれたコ−ヒ−に口をつけ、笛吹は僅かに目を細めた。
どうやら上司の好みは覚えたらしい。
いや、“思い出した”と言った方が正確だろう。笛吹の甘党は、大学時代以前からだ。
もっとも、根がいい加減なこの男は、相変わらず覚えようとしないこともある。


「…で、挨拶はどうした?」


いつかと同じ、ビシッとしない敬礼。
気だるそうな声が、ボソボソと告げる。


「捜査一課巡査部長、笹塚衛士。本日からの復職を報告します」


   * * *


ミルクと砂糖増量のコ−ヒ−を置いて、笛吹は机の上で両手を組んだ。
笹塚は敬礼を崩さない。
上司である彼が許可を出すまでは、何時間でもそうしていなければならない。
それが警察の組織であり、かつてのライバルと自分との格差だ。
だが、笛吹が望んでいたのは、こんな形で笹塚の上に立つことではなかった。

「退院の許可が出たという話は聞いていないが、まあよかろう。
 あの探偵に大手柄を持っていかれては、おちおち寝てもいられんだろうからな」

皮肉混じりの上司のセリフに、笹塚はようやく敬礼を解く。
肩を落とし、猫背気味に背を屈めて、両手を上着のポケット近くにだらりと下げる。

「………ま−な。じっと寝てるのにも飽きたし。
 肝心な時に何もできなかった分、後始末ぐらいは手伝おうかと思って」

笛吹の皮肉も、笹塚は右から左に聞き流す。
だらけた風に見せながら、次の瞬間、どんな動作にも入れるよう訓練された臨戦体勢。
笛吹に対してだけではない。
常に笹塚を気遣う筑紫の前でも、同じ捜査一課の同僚の前でも、その態度を崩さない。
くたびれた風情の男を、笛吹はレンズ越しに睨んだ。

「新聞やニュ−スで知っているだろう。
 不本意ながら、我々日本警察が桂木弥子に大きな借りを作ったことは確かだ。
 あの探偵は使える…ということに関して、おまえの判断が正しかったのは認めよう」

笹塚は無言だ。
それでも“桂木弥子”の名が出た瞬間、微かに眸が揺らいだように見えた。
眉間に皺を寄せながら、笛吹は言葉を続ける。

「世間では、難事件の解決に“名探偵”の登場を期待する声が高まるだろう。
 図に乗った桂木弥子が、ますます事件に首を突っ込んでくるのも火を見るより明らかだ。
 ……だが、これだけは言っておく。慣れ合いは許さん。
 桂木弥子は一般市民であり、未成年者でもある。
 何かあれば、世間から非難されるのは結局、我々警察だということを忘れるな」
「……りょ−かい」

間延びした声で、笹塚は再び敬礼をしてみせる。
ふざけた態度と言えなくもないが、咎める気はなかった。何しろ、ここからが本題だ。

「もう一つ、言っておく。
 あの探偵に事情聴取の必要がある場合は、おまえが自分で事務所へ出向け。
 気安く警視庁への出入りなどさせるな」
「……まあ、以前からそ−してたし。別に構わね−けど…」

笛吹の命令は、笹塚にとっては今更だろう。
“X(サイ)”についての報告書も、笹塚は桂木弥子を警視庁に呼びつけるのではなく、
自ら探偵事務所に足を運んでいる。
その後の事件も、それ以前の事件も。調書を読めば全てがそうだ。

何故…?と、確認を怠った自分が恨めしい。怠慢こそ、笛吹の最も唾棄するところだ。
眉間の皺を増やしながら、斜めに首を傾けた男に尋ねる。

「ところで笹塚、おまえ金はあるのか?」
「………は?」

唐突な話題に、澱んだ色の眸が訝しげに歪む。
少し目を泳がせた後、部下の経済状態を気にかけている上司に答えた。

「あ−……、まぁ。
 休んでる間も、休職手当はもらってたし。見舞金も出たし。
 入院中は酒代も煙草代もかかんなかったから、そこそこには…」
「馬鹿者ッ!!そんな額で、あの意地汚い胃袋を満たせると思うのか!?
 酒と煙草を控えるのも大事だが、少しは給料を上げる努力もしろッ!!」

バンッ!! と、音を立ててスタンドフレ−ムを笹塚に向ける。
コルクとガラスの間に挟まった紙片。
それは写真でも雑誌の切り抜きでもポストカ−ドでもなかった。


「………26万…、9千円…?」


抑揚の無い声が、たった1枚の領収書の金額を読み上げる。
笛吹は額に青筋を立て、再度、フレームで机を叩いた。

「そうだッ!!あの探偵、いきなり警視庁にやって来て春川の資料を見せてくれと言うから、
 つい出前を頼む許可を出したら最後…ッ!!
 全メニュ−を特上大盛オプションありありで頼みやがったぞッ!!
 たった一晩で、この金額だ!!」

口にする端から、新たな怒りが込み上げる。
26万9千円…!!警視という職にあるとはいえ、公務員にとって安い額ではけっしてない。
この出費の所為で、彼はドイツの老舗ブランド限定品テディベアを家族に迎えることを
諦めたのだ。
あのつぶらな眸を、つややかな毛並みを思い出すたび、胸の張り裂ける思いがする。

「……一応、聞くけど。コレ、おまえが自腹で払ったんだよな…?」

あらためて請求書を指差す笹塚に、笛吹はツバを飛ばした。

「当たり前だッ!!こんな請求、回せるわけがなかろう!?
 下手をすれば、贈収賄を疑われるわッ!!」
「……おまえが払ったら払ったで、
 “警視庁のエリ−ト警視、女子高生探偵に1晩で26万9千円”
 …とか、援助交際疑われそ−だけどな」

笑うでもなく、呆れるでもない。棒読みのような平板な声。
だが、この程度は笛吹の予測の範囲内だ。
学生時代、冗談にならない冗談をサラッと口にする男だったことは記憶している。
大方、自分をキレさせて話を逸らすつもりだろうが、そんな稚拙な手は通用しない。
呼吸を整え、余裕の笑みさえ浮かべて血色の悪い顔をにらみ上げた。
この笛吹直大を、10年前と同じと思うなよ…!!

「おまえに偉そうなことが言えるのか、笹塚…?
 どうせ、事務所に出向くたびに女子高生の喜びそうな限定スイ−ツを持参し、
 事件解決の礼だと言っては安さが売りの牛丼やらラ−メンやらを奢っているのだろう!?
 まったく、現場の貧乏臭さ丸出しだな!!
 だが、その方がよっぽど世間から要らぬ誤解を…」
「……ンなこと、してね−けど?」

さあ、これから!!…というところで、あっさり話を遮られた。
笹塚は首の傾きを深くして、笛吹を見下ろしている。

「まあ、事務所開いたって聞いた時は、挨拶代わりに140g630円(税込)の“たこわさ”
 持ってったけど…。
 入院中、たまりすぎた見舞品を喰ってもらったのは、自腹じゃね−し。
 ……だから、なんでそんな話になんのか、マジでわかんね−んだけど…?」

首の関節が、小さく鳴る。
次の瞬間、笛吹は机に両手をついて立ち上がった。

「貴ッ様あぁ−ッ!!まさか、この私が奮発したア−ルス・フェボリットをメインに据えた
 最高級フル−ツバスケットまで、あの探偵に喰わせ…、……いやッ!!
 女子高生に“たこわさ”だとォ!?ど−いうセンスだ!!」

今にも机を乗り越え掴みかかる勢いの笛吹に、笹塚は眸を細めた。

「……まあ、そんなモンでもマジで喜んでたけどな…。
 あの子、基本的に喰うこと自体が好きみて−だし。
 ああ、見舞いのメロンも美味そうに喰ってくれてたから…」
「………………。」

立ち上がったまま、笛吹は沈黙する。
630円と26万9千円の格差に彼が感じるのは、奇妙な敗北感だ。
腹の立つことに、それは彼にとって“懐かしい”感覚ですらあった。
飄々として見える癖に要領が良く、ツボを捕らえて人に取り入るのが上手い奴だった。
今更、そのことを思い出す。
だが、それ以上に驚いたのは…。

我に返り、笛吹は取り繕うように咳払いをした。

「とッ、とにかくだ!!あの探偵と関わるのなら間違っても、
 『何でも好きなだけ喰っていい』
 などとは言わんことだ!!少なくとも、もっと給料を稼げる身分になるまではな!!」
「あ−……まあ、覚えとく。
 ……で、話はそんだけ?」

首の後ろに手を当てながら、笹塚が尋ねる。
今後、あの探偵が捜査に首を突っ込んできた場合、世間から要らぬ誤解を受けないための
注意事項を列挙するつもりだった笛吹は、完全に出鼻を挫かれた。
腹立ち紛れに、目の前の書類の山を指差す。

「以上だッ!!至急、この決裁を担当者に戻せ。
 病み上がりでも、使いっ走りぐらいはできるだろう。
 とにかく今は、無能の手も借りたいほどに忙しいのだからなッ!!」
「……了解」

書類を抱えた笹塚が背を向ける。
笛吹は椅子に腰を戻した。

クッションの沈む音、背もたれが軋む音。
革靴の音が遠ざかり、止まる。


「………ヒグチ、戻ったんだって?」


次の書類に手を伸ばしていた笛吹は、顔を上げた。
その表情には訝しさが浮かんでいる。

「何故、知っている…?」

下手くそな字の辞表を握りつぶしたのは、ほんの数時間前だ。
そこでようやく、机の端に置かれた紙コップに思い至る。
別室で、件(くだん)の問題児と共にDVDの観賞をしているのは、彼等共通の後輩だ。

「道理で…、おまえにしては気が利くと思った」

言いながら、甘いコ−ヒ−を手にした笛吹に、笹塚が言う。

「俺があの子に奢るのも、当分、そのぐらいにしとく。
 ………いろいろと、サンキュ−な…」
「…フン。安月給の刑事と貧相な探偵には、それが分相応だな。
 わかったら、さっさと行け。どれも至急の案件だ」

笛吹はわざと目を逸らす。
静かに、ドアの閉じる音がした。


   * * *


笹塚が出て行くと、笛吹はスタンドフレ−ムに手を伸ばし、こちらに向ける。
“警視庁刑事部 笛吹警視様”と書かれた領収書。その額、26万9千円也。

日本を未曾有の危機から救った上、10年間、変わらなかったものを変える切欠をくれた。
その全ての謝礼としてなら案外、高い金額ではないのかもしれない。
貧相なくせに大喰らいの小娘を、“あの子”と呼ぶ笹塚の表情は、限りなく昔に近いもの
だったのだから。

笛吹はフレ−ムをうつ伏せに倒すと、書類の山脈に手を伸ばした。




   * * *




桂木弥子は相変わらず、事件に首を突っ込んでいるらしい。
今までどおり、調書を取るのに笹塚は探偵事務所に足を運んでいる。
常に手ぶらだし、何かを奢ることも無いようだ。

報告書が提出される度、笛吹はその点を確認し、念を押す。
笹塚は無表情に頷き、同じ言葉を繰り返す。
こちらから頼みもしない捜査協力者に、情報提供以上の何かをしてやる必要はないと。

本心はどう思っているのか、そんなことはどうでもいい。
そこまでは笛吹の知るところでも、管理するところでもない。

警察官として、世間から要らぬ誤解を受ける行動は慎まねばならない。
笹塚も、そこのところは肝に銘じているのだろう。

世間の賞賛が、一転して非難に変わる時。
警察の体面以上に傷つけられるのは、桂木弥子の方なのだから。




……だが。
予測し得る災難は、予測し得ない場所で起こるのが世の常である。


「ちょっと、笛吹さ〜ん!!
 桂木が“1晩26万9千円”って、マジだったのかよ−ッ!?」


所持金49円の財布を手に文句を言うヒグチを、笛吹は一喝する。


「誤解を招く言い方をするな−ッ!!
 だいたい、“0”が1ケタ少ない支払いで、ガタガタ騒ぐなガキが!!
 あの探偵と関わるつもりなら、パソコンばかりに給料を使わず、少しは貯蓄しろ!!
 だが、いいか!!貴様も警察官の端くれなら、都条例を遵守し、貧相な小娘がせめて
 18歳になるまでは清く正しいメル友で耐え忍び、夜の10時までには家に送り届けて
 保護者にご挨拶し、間違っても同業者に職質などされんよう……」
「……はあぁ!?何言ってんの−!!」


“世間から要らぬ誤解を受けないための注意事項”の列挙を始めた上司の机に、
筑紫は静かにミルクと砂糖増量のコ−ヒ−を置いた。



   末は史上最年少の警視総監と噂される、キャリアの星・笛吹直大。
   彼の机の上には、スタンドフレ−ムが置かれている。
   コルクとガラスの間に挟まれているのは、26万9千円の請求書と
   2万103円のレシ−トだ。

   危機管理の徹底は難しいという、彼の生涯の教訓である。



                                   − 終 −


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  2008.9.14 本文を一部修正しました。
(以下、反転にてつぶやいております。)

“笹ヤコまわりの人々・笛吹さん編”です。
弥子ちゃん不在で、どこが“笹ヤコ”なのかは置いといて…。(汗)

笹塚さんが弥子ちゃんを餌付け…もとい、事務所に手土産を持って行ったり、食事を
奢ったりしているというのは、二次創作での話。
原作では、3巻で登場した笹ヤコ必須アイテムの“たこわさ”ぐらい。
(ちなみに値段はデバ地下で確認する時間がなくて、ネット販売で調べました)
9巻でのお見舞い品に至っては、自腹ですらない。
こうして見ると、笹塚さんって弥子ちゃんのこと、完全に“知り合いの探偵”という括りで
扱っていて、逆に面白いです。
私みたいな深読み好きには、年頃の女の子に凄く気を配っているように思えます。

…が、某ドラマCDでは遊佐塚さんの登場時に『差し入れを持ってきてくれる人』と
紹介されて、『そこから既に二次創作!?』と、本気で驚きました。
それが元ネタと言えなくもない…。(汗)

対して、“HAL事件”での26万9千円といい、その前のカツ丼といい。
弥子ちゃんに一番“貢いで”いるのが笛吹さん。(あれは経費では払えない)
でも、いまだに弥子ちゃんからは『尊大で小男な人』と呼ばれている…。
実際のところ、笛吹さんは世間から誤解や非難を受けることは心配しても、笹塚さんが
弥子ちゃんに恋愛感情を持つことは、想像すらしない気がします。
(自分が弥子ちゃんに、そういう気にならないから。)
むしろ、そっちの心配は歳の近いヒグチ君にしてるかも。
どっちにしろ、部下が未成年淫行罪でしょっぴかれたら監督責任ですし、弥子ちゃんが
18歳になることを一番心待ちにしているのは、この人かもしれません。
何だかんだと心配性で説教好きな笛吹さん。

…やはり、ツッコみは無しの方向で…。(汗)