薄 暮



笹塚さんが、いなくなった。
ふつりと姿を消してしまった。

誰にも、何も、告げずに。

……告げていたのかも、しれない。
釣りに誘ってくれた、あの日に。

楽しかった午後の記憶を手繰り寄せる。

別れ際、笹塚さんは何て言った?
そして私は、何て答えた…?


  『お疲れさん』 『はい、お疲れさまでした〜!!』
  『……じゃあ』 『はい、じゃあまたッ!!』



その後、波の音に紛れて言っていたのかもしれない。
低く呟くような、あの声で。


  『………さよなら』


覚えているのは、遠ざかる背中。
白いワイシャツが夕陽を浴びて、紅く染まって見えたこと…。

笹塚さんの言動は、後になって意味がわかる。
意味が、あったのだとわかる。

けれど肝心なことが、わからない。


  『今、何処にいるんですか?
   何をしようとしているんですか?
   何時、帰ってくるんですか…?』



……“謎”だ。
目の前に投げ出された“謎”が、混乱と不安を成長させていく。
頭の中をグチャグチャにして、わけがわからなくなって…。
何も、考えられなくしてしまう。


「その定義は間違いだ」


ネウロが言う。
あの日、海岸で笹塚さんと何を話していたのか。
尋ねたけれど、白々しくトボけられた挙句、DVにもつれ込んでいる。
私は現在、鎖で縛られコイツの靴に踏みつけられた状態だ。


「“謎”とは、悪意を隠して身を守るために、罠を張り巡らせた迷宮を作り上げる
 膨大なエネルギーだ。
 “悪意”を隠そうとしない血族共のそれが、喰えたモノではないように。
 あの男のそれも、我が輩の食糧とはなり得ん」
「笹塚さんは…、“身を守ろう”としていないから?」


靴底の下から尋ねると、いかにも蔑んだ目で見下ろしてくる。


「嘆かわしい…。ヤコよ、貴様はまだ土の中で眠るセミのままか?
 あの男には“悪意”が無い。それだけだ」


つま先で顔面をグリグリされながらではあったけど、ネウロの言葉に少し救われる。
でも、人を衝き動かすのが“悪意”だけじゃないことを知っている私は、踏まれたままで
事務所の窓から空を眺める。

いつの間にか蒼く高く澄んで、薄く流れる雲がタバコの煙を思わせて。
つんと、鼻の奥が痛んだのは靴の踵の所為かもしれないけど。


……後悔、していた。
笹塚さんに尋ねなかったことを。


  『家族を殺した犯人がわかったら、どうするつもりなんですか?
   それが、もし“X(サイ)”だったら?
   その“X(サイ)”を造った“6(シックス)”は…?』


答えは、知っている気がしていた。
きっと何時ものように首を斜めに傾けて、気だるそうな声で。


  『……それは、わかってから考えるよ』


流れることを止めた水のような、あの眸で。


尋ねれば、良かった。
それが、どんなに無遠慮で無神経で、残酷な質問でも。
本当にそんな答えが返ってくるか、確かめれば良かった。

笹塚さんの眸の、ほんの細波のような揺らぎを。
無表情に見える表情の、微かな動きだけでも見ることが出来れば。
“何か”が、わかったかもしれないのに…。

そんな風に思う私は、多分、どうしようもなく自惚れている。

気がつくと、顔の上の靴が無くなっていた。
DVに飽きたのか、ネウロはトロイに脚を乗せてふんぞり返っている。
のろのろと起き上がりながら、独り言のように呟いた。


「“悪意”がなくても。
 本当の自分を隠して、誰にも何も言わずに何処かへ行っちゃうのなら…。
 それは、その人を知ってるつもりの人間には“謎”だよ」
「人間の定義は曖昧で、都合の良いものだな。
 自分が理解できないものは、全て“謎”か」


トロイの椅子に凭れて、一つあくびをする。
一時期より魔力が回復したとはいえ、コイツもまだ本調子じゃない。
瞼を半分落として、眠そうな声で後を続けた。


「……だが、“謎”とは解き明かされるべく、挑まれるもの…。
 挑むことすら放棄するというのなら、我が輩の貴重な食糧の名を汚すその口、
 引き裂いてくれよう」


半眼のまま、両手の指を10本の刃物に変えてみせる。
きらきらと光る刀身に、10人の私が映っていた。


「放り出してなんか、ない」


真っ直ぐに立ち上がって、反論する。
10人の私が見つめるその目を、きっと睨み返す。


私は思い出していた。そして、ずっと考えていた。
グチャグチャな混乱から抜け出して、必死で記憶を手繰り寄せ、パズルを組み立てる。
バラバラのピ−スは、笹塚さんの一言一句。一挙一動。
あの日の海岸での。そして今までの。その全部に、意味があるのなら。


  『君の家のこと、マジで申し訳ない。
   警察(うち)の身内が…、取り返しのつかね−事を……』
  『帰れっつってたハズだけど?いられると、迷惑なんだってば』
  『彼女は俺やあんたが考えてるより、ずっと有能だ』
  『君に言われて…、あいつを信頼すると決めた』
  『ケガだけはすんなよ、弥子ちゃん』



そうして頭の中で完成した“笹塚さん”を前に、私は私に告げる。


「何処にいても、何をしようとしていても…。
 笹塚さんは、私達を裏切ったりしない。
 笹塚さんは……」


10人の私が消える。
刃物の代わりに毒々しい翠の目を向ける魔物に、キッパリと言う。


「あの人は、“優しい、いい人”だって信じてる」
「ならば、最後まで信じろ」


思わぬ即答に驚いた。しかも真顔で肯定されるなんて。
丸くなった目に、美青年顔が皮肉っぽい笑みで歪むのが映る。


「あの男を“いい人”だと言ったのは、貴様だろうに。
 最初の結論に戻るのに、何故これほどの時間がかかるのか…。
 まったく、セミの頭脳は理解に苦し…、め…」
「いや、ソコは“め”じゃなくて“む”だからッ!!」


速攻でツッコんだけど、ネウロは呪(のろい)っぽい語尾を残して目を閉じた。
そのままピクリとも動かなくなる。
どうやら限界まで付き合ってくれたらしい。
いつの間にか陽が傾いて、影が長く伸びていた。


……これから、闇が降りてくる。
私が想像できないほど、暗くて深い闇が。
あの女性(ひと)の言葉が、頭の中で繰り返し響く。


  『大事なものを失う事…。
   本当にあなたは、それに耐えられて…?』



そんなの…、耐えられないし耐えたくもないよ。
ぶるっと、両手で肩を抱いた。

お父さんが殺された時のことを思い出す。
街が、水の底に沈んでしまった時のことも。
何もできなくて。どうすればいいのかも、わからなくて。
自分がどうしようもなく無力で…。

不安と混乱が、また影のような手を伸ばしてくる。
それに捕らわれないためには、何かを

……ああ、そうか。

私は、ふいに納得した。
無表情で無愛想で、なに考えてるかわかんないあの人も、“闇”に抗っている。
ずっと、抗い続けている。きっと今、この瞬間も何処かで。

ぎゅっと唇を引き結ぶ。
両手を、握り締める。

私も、私にできることをしよう。
まずは、あかねちゃんのトリ−トメントから。
心配そうに揺れている黒髪のおさげに笑いかける。

どんな小さなことでもいい。できることを頑張るしか、ない。
今は、それしか…。


陽が沈む時間は、あの日の海辺より確実に早くなっていた。



                                   − 終 −


TextTop≫       ≪Top

***************************************
  2008.10.25 本文を一部修正しました。
  2009. 2.14  ネタバレ注意書を削除しました。
(以下、下の方でつぶやいております。)


















第174話を読んで、突発的に。
最後のページの中央。ぽつんと残された弥子ちゃんと背景の夕暮れが印象的でした。
手にしてるのが、食い尽くされた魚の骨なのが弥子ちゃんらしいけど…。(笑)

弥子ちゃんにとっての笹塚さんが、ずっと“優しい、いい人”でありますように。
信頼は、“恋”とは少し違うけれど、視点の角度を変えた“愛”ではあると思います。
魔人様と弥子ちゃんとの間にあるものが、そうであるように。

次号以降の展開によっては「原作設定」枠に置けなくなりそうですが、それはまた
様子を見ながら考えます。

(第174話以降の展開とは矛盾しますが、「原作設定」枠への掲載を継続します。)