諸 刃



水音よりも、手の中から滑り落ちたナイフがアスファルトを叩く方が早かった。

人が橋の上から落ちたのに、誰も、気づきもしない。
行き交う車が巻き上げる砂埃の中、私は呆然と足元を見つめた。

あの日、やっと携帯が繋がって。
笛吹さん達が駆けつけるまでのドサクサの中、笹塚さんのポケットから抜き取った
折りたたみナイフ。

柄に、血がこびりついている。
笹塚さんの血だ。



    ネウロを信頼すると言ったのに、あれは嘘だったんですか!?
    ネウロに先を越されないように、油断させるために
    わざと私に親しくして見せていたんですか!?
    自分の目的を果たすために、私を、皆を騙して…。
    誰にも何も言わず、独りで。勝手に…!!



ああ、ちがう!!
笹塚さんは、そんな人じゃない。
笹塚さんは……。

考えないために、思い出さないために。
誰か、恨む人が欲しかった。

そう…、“人”だ。
バケモノなんかじゃなく。

……だから、おじさんが私達を騙してたなら。
笹塚さんを陥れていたのなら。
このナイフで刺してやろうって、思ってた。

でも、そんなことしたくなかったよ。
ホントにできるかどうかも、わからなかった。
笹塚さんが、そんなことを望まないのもわかってた。



    でも、笹塚さんだってわかってたでしょう?
    亡くなったご両親や妹さんが、復讐なんか望む筈がないって。
    笹塚さんには、生きて幸せになって欲しかった筈だって。
    笹塚さんの周りにいる人は皆、そう思ってたことも。
    全部わかってて…、“それでも”だったの…?




だから、おじさん。
『違う』って言って欲しかったのに…。

……酷いよ。
『ありがとう』なんて、『すまない』なんて。
そんな言葉が聞きたかったんじゃない…!!



    また、勝手に押し付けて逝っちゃうの…!?
    笹塚さんも、おじさんも。
    私の目の前で、血塗れになって。
    何もかも中途半端なまま、放り出して。
    独りで…!!



……どうしてよ!?
なんで、こうなっちゃうの!?
こんなの、やだ。
いやだああぁあああ…!!


やっと感情が追いついて、私はその場に蹲った。
自分が叫んでいるのかどうかも、わからない。
ぱたぱたと脚に降りかかる、熱い雫。

泣いてるんだ、私…。

混乱した頭の片隅で、ぼんやりと思う。
笹塚さんのお通夜も、お葬式も。
……あの時も。ずっと、泣けなかったのに…。


膝をついたアスファルトの上に、転がったままのナイフ。
涙でぼやけた視界の中で、滲む緋(あか)。
おじさんが吐いた血で、濡れている。

……自殺、だ。
毒を射って、自分で自分を殺してしまった。
シックスの言いなりになって、笹塚さんを巻き添えにして。

両手で頭を掻き毟りながら、考える。
必死で思考する。
そうでもしないと引き千切られて押し潰されて、自分が粉々になりそうで。



    死ぬなら、さっさと死んじゃえばよかったじゃない!!
    刹那さんが亡くなった時に。
    春川教授が…、“HAL”が死んでしまった時に。
    おじさんも、一緒に死ねばよかったのに!!
    どうして笹塚さんまで…。

    それとも、おじさんは笹塚さんが憎かったの?妬ましかったの?
    シックスに復讐しようとした笹塚さんが。
    おじさんには、絶対に出来ないことが出来る笹塚さんが。
    でも、本当はおじさんだって…!!
    だから、今まで死ねなかったんじゃないの!?



……ああ、だけど。
今更何を考えたって、それは“推理”なんかじゃない。
ただの勝手な想像だ。
おじさんも、笹塚さんも。何も答えてはくれない…。

手を伸ばしてナイフを拾う。
重なってこびりついた、2人の血。
落ちた拍子に開いた刃。



    私が、もっとちゃんと笹塚さんを見ていれば。
    気づくことが出来ていれば。
    私が、もっとちゃんとおじさんと話していれば。
    追いつめたりしなければ。
    2人共、まだ…。




ナイフに映った自分の顔。
振り乱した髪に、血走った目。
砂埃と涙とで、ぐしゃぐしゃに汚れた頬。

みっともなくて、無様で。醜くて、歪んでる。
これが、私。
“名探偵・桂木弥子”の正体。

何も出来ない、誰も救えない。
目の前にあるものさえ、ロクに見えない愚か者。
見えたら見えたで、死なせてしまう。
どうしようもない役立たず。

ゾウリムシ、ワラジムシ、ナメクジ、ウジムシ、便所雑巾、セミ、ミジンコ、生ゴミ。



    『黙って見ていろ、桂木弥子。まるで無力な操り人形よ』
    『バカじゃないの?あんたに御託なんて期待してない』
    『大事なものを失う事…。本当にあなたは、それに耐えられて?』
    『ネウロに付いた小蝨か』



ナイフの刃を、手首に当てた。
ひやりとして、冷たい。
切ったら血が噴き出て、それで終わる。

もう誰も、死なせなくてすむ。
もう誰も、死ぬのを見なくてすむ。

……もう、誰も。



    ねぇ、“死ぬ”ってどういうこと?
    楽になること?何も思い出さなくて済むようになること?
    だったら、何で今まで生きてきたの?
    たくさんの人と出会ってきたの?

    ねぇ、教えてよ。笹塚さん、おじさん。

    絶望して、憎んで、恨んで。自分は馬鹿だと思い知って。
    世界中の誰よりも、自分を嫌いになるために?
    この世から消し去りたいと思うために…?




「…………ッ」


違う。
違う違う違う。
違う違う違う違う違う違う…ッ!!

細く紅い線を刻んだ刃先を、引き剥がした。
手から落ちたナイフが、もう一度アスファルトを叩く、音。
うなじを冷たい汗が伝う。

……これが、シックスのやり口だ。
人間の一番やわらかい部分を突き刺して、毒を注いで壊していく。
周りすら、巻き込ませて。
“家族”を、“大切な人”を奪うことで…!!



    笹塚さんも、ずっと死に場所を探していたの?
    おじさんと同じように。
    家族を守れなかった自分を責めていたの?
    大勢の人の命を助けていたのに。
    私やネウロのことも、何度も助けてくれたのに。
    それでも、まだ自分を許せなかったの?
    だから、たった独りで…?




頭を振る。千切れそうな程、強く。
考えちゃダメだ。呑み込まれちゃダメだ。
喰いしばった歯の間から、呻くように呟く。


「………負ける、もんか…」


もたもたと、よろよろと。
四つん這いになって、橋の手摺に縋って、立ち上がろうとする。
砂だらけの膝で。埃だらけのスカ−トで。汚れた顔で。
記憶の中に焼きついた“悪意”と、“恐怖”と向き合う。



    『ネウロに付いた小蝨か』

    それが、どうした…!!
    私が弱くてちっぽけな小蝨なら、弱くてちっぽけな自分になんか
    負けるもんか。
    私に私を殺させたりなんか、するもんか。

    『生かしておいた方が、より残酷で楽しい結果になりそうだ』

    そんなもの、見せてなんかやるもんか。
    あんたを楽しませるようなこと、塵ほどにだってするもんか。
    このナイフの使い方を間違えたりなんか、するもんか。
    絶対に…!!




橋の手摺に凭れて、身体を支えた。
頭を掻き毟ったせいで、指先には血が滲んでいる。
右手の中には、刃を収めたナイフ。
握り締めた柄に血の色が重なったそれを、ポケットに滑り込ませた。

橋の上からの景色は、いつもと何も変わらない。
秋の初めの陽射しを受けて、きらきら光る川面。
散歩やジョギングや、釣りをする人達。


眩しすぎて、目が痛い。


ブラウスの袖で顔を拭って、自分の両足だけで立つ。
鼻を啜って、顔を上げる。


……私は、絶対に。


シックスの居なくなった世界で、のうのうと生き続けてやる。
毎日美味しいものを食べて、くだらないことで笑って。
しわくちゃのお婆ちゃんになって、大往生するまで生きてやる。

そのためになら、何だってする。

私は弱くてちっぽけだから、魔人に使われることなんか平気。
DVが倍になったって、耐えてみせる。
笛吹さんや筑紫さんや、その他の大勢の人達を巻き込むことだって平気。
これは私だけじゃない、人間全部の問題だから。

ポケットの中のナイフを握り締める。
歯を、喰いしばる。



   いつか全部が終わったら、これは笹塚さんに返しに行くから。
   それまではもう、考えない。思い出さない。
   私は、弱いから。
   ……でもね。これだけは、言わせて。

   私は、独りじゃ何も出来ないことを知っているから。
   銃を撃つことも、計算をすることも出来ないから。



しわがれて、掠れた声を振り絞る。


「……私は、絶対に孤独(ひとり)にはならないよ」



                                   − 終 −


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  2009. 5.10  ネタバレ注意書を削除しました。
(以下、下の方でつぶやいております。)










第182話以降、頭の中をぐるぐる回る数限りない妄想イメ−ジの一部断片寄せ集め。

その1つが、2人の死に責任を感じた弥子ちゃんが、自滅の方向に落ち込んでいく
のではないか、ということ。
もう1つが、“○○さんは、いい人”というフィルタ−(無条件の好意と信頼)を取り払う
ことと引き換えに、周囲の人々への洞察が、弥子ちゃん自身を傷つけるほど容赦なく
鋭くなるのでは…ということ。
特に笹塚さんに対しては、その行動への疑問と不信と批判をしてしまう自分に、余計に
傷ついてしまうような…。

今更ですが、痛い話ですみません。(汗)
けれど私は精神的に追い詰められた状況で、それでも踏みとどまることの出来る
“普通の人”なキャラクタ−が昔から大好きなのです。