傷 痕



髪を拭きながら寝室に戻ると、弥子は頬を染めて横を向いた。
笹塚がパジャマの上を着ていないのは、ベッドに座る彼女がそれを着ているからだ。

ついこの間まで、とんでもなく短いスカ−トで走り回っていた癖に。
太腿の半ばまでを隠す裾を、しきりに引っ張ろうとする仕草が可笑しい。
緩んだ気配を察したらしく、弥子は首まで赤くなった。

今夜、泊まるのは以前からの約束だったので、自前の寝巻きは持って来た筈だ。
それが先に風呂に入る直前に、パジャマの上だけ貸してくれと言った。
友達あたりに、『その方が恋人っぽい』とでも入知恵されたのだろう。

女の子は“初めて”にイロイロ夢があるだろうから、希望は尊重したが
ダブダブの男物を着て、はしゃぐ姿に笹塚が不安を覚えたのも確かだ。
今夜は本当に、泊まるだけで終わりかねないと。

だが、あのハイテンションは恥じらいの裏返しだったらしい。
借りてきた猫のような彼女から少し距離を置いてベッドに腰を降ろす。

笹塚の顔を見れない弥子は、あ−とかう−とか唸りながらシ−ツとパジャマの間で
視線を彷徨わせている。
初心者丸出しの落ち着きのなさを可愛いと思ったが、からかうと拗ねるだろうから
出来るだけ真面目な声で呼ぶ。

「弥子ちゃん」

ぴくっと、小さな頭が揺れる。
僅かに目線が上がるが、それも腹のあたりで止まってしまう。
笹塚は苦笑を浮かべたが、弥子は息を呑んだ。
今までとは種類の違う動揺が伝わる。

「…何?」

怪訝に思って尋ねると、うつむいたまま口を開いた。

「これ…、前に入院した時の…?」

笹塚は視線を落とし、彼女が見ているものに気づく。
腹筋を斜めに走る幾本かの縫い目。以前、“X(サイ)”に肋骨を砕かれた時のものだ。
運が良かったのか、意図的にそうしたのか。内臓の損傷がなかったため回復は早かったが
2度の手術はどちらも5時間を超える大掛かりなものだった。

「ん…」

消極的な肯定を受けて、弥子の視線が胸から肩をなぞるように上がっていく。
赤味の失せた顔が強張るのがわかる。

肩や脇腹、腕に残る傷痕。
大半は犯人確保の時のものだが、最も古い幾つかは警察官になる以前に負っている。
そういうことは、彼女に話さずにいた。

「笹塚さん、傷だらけ…」

いつも快活な声が、微かに震えている。
ある傷は抉れた窪みを残し、ある傷は引き攣れた溝を刻む。
若い女の子なら驚いて当然だし、引きもするだろう。他人事のように、思った。

「ごめん、気持ち悪い?」

肩の銃創に伸ばされたまま、触れようとしない指先を眺めて言う。
彼の手も、彼女に触れることが出来ずにいる。

今更ながら、生きてきた世界が違うと思った。
見てきたものも、やってきたことも、違いすぎる。
汗ばむ手が、ヌルリとしたもので汚れている気がしてブランケットを掴む。

「そういう意味じゃ、ないです!!」

怒った声が、心臓の上でした。見上げる眸は潤んで、黄玉(トパ−ズ)色をしている。
目尻に溜った雫を隠すように、古傷の上に額を押し当てた。

「…笹塚さん、やる気無さそうな顔して、いっつも無茶ばっかり…!」

“無茶ばっかり”はどっちだ、と。頭の中では突っ込んだが、何も言えない。
細い両腕をいっぱいに拡げ、弥子は笹塚の背にしがみつく。

見た目の肉付きは薄いのに、押し付けられた身体は柔らかくて暖かい。
普段使っているシャンプ−と石鹸が、まるで違う香りのように感じられる。
火傷痕のある裸の胸に顔を埋めて、弥子は念を押すように言った。

「わたしより先に、死んじゃったらだめですよ?」

それは、かなり難しい。
只でさえ女性の平均寿命の方が長いのに、加えて15歳差。
おまけに常に危険と隣り合わせの職業なのだ。
まだ湿りの残る癖ッ毛に片手を乗せて、率直に言う。

「……努力はするけど」

こういう時、彼女が安心する気の利いたセリフが出てこないことを歯痒く思う。
だが、笹塚にとっては自分より先に死ぬ弥子など、想像するのも真っ平なのだ。
聡い彼女はそんな考えを読み取ったのか、歌うように呟いた。

「せぇの、で一緒に死ねたらいいのになぁ…」

髪を梳く手が、止まる。

「そしたら、お花もお供えも2倍で、お葬式もきっと賑やかだろうし。
 最後まで仲が良かったねって。一緒なら淋しくないだろうねって。
 皆、安心して見送ってくれますよ」

彼女の頭にあるのは心中とか、そんな暗いイメージではなくて。
2人同時に天寿を全うして、ポックリ自然死なのだろう。
家族や友人に見守られ、2つ棺を並べて花と供え物に囲まれて、同じ墓に入る。
彼女が口にすると死でさえ、ほのぼのとした日常の光景になる。

父親を奪われた彼女だからこそ、望むのだろう。
彼女の負った傷は目に見えないところに残っている。

耳の後ろを指先が掠めると、弥子はくすぐったそうに首を竦めた。
丸くて大きな眸が、若くはない男の顔を映している。
笹塚は、やはり気の利かないことを言った。

「これでも弥子ちゃんと付き合い出してから、酒も煙草も控えてるから」

目的は、食費のかさむデ−ト代の捻出とエンゲル係数が不安な将来に備えるためであって
健康への配慮ではない。
それでも笹塚の返答は弥子をとても喜ばせた。

「いっしょに長生きしましょうね!!」

風呂上りなのに冷たい笹塚の手を、温度の高い小さな手が握る。
肘の下には白っぽい筋を残す刃物傷。まだ丸みの残る頬を押し付けて、楽しそうに話す。

「並んで縁側に座って、庭を眺めながら日向ぼっこして。
 おいしいお茶で、おいしい和菓子を沢山食べるんですよ。
 それで、たま〜に孫や曾孫のお守りを押し付けられるのを、楽しみにしてるの」
「……そうね」

10代とは思えないセリフだな、と。思いながらも相槌を打つ。
何十年後かの、年取った自分。そんなもの、ついこの間まで考えたことはなかった。
1年先ですら、考えようとしなかった。
今も、想像は出来ない。彼女が描く色鮮やかな未来図を隣で眺めているだけ。
…それも、悪くはない。

どれほど年を重ねても、傷痕は消えない。
忘れようとしても繰り返し疼く。
歪んで、あちこち欠けて、いびつになったまま。

それでも、生きてはいける。

「……で、弥子ちゃん」
「はい?」

にこにこと笑う彼女に問いかける。

「そろそろ、脱いでもいい?」

あと、そっちも脱がしていい?

孫や曾孫のお守りを押し付けられるには、その前の段階が必要で。
ちょうど今から、そのための行為をするところだった。
…まあ、暫くは出来ないように注意するつもりだが。

「うわッ、はッはいィ…!(////)あ、ちょっとまったぁ!!」

ベッドから飛び降りた弥子は、ドアの側まですっ飛んで行き、部屋の明かりを消した。
暗くなった室内で、ごそごそとベッドに潜り込む気配。
ご丁寧に、何かにどこかをぶつける音までした。

「ど、ど−ぞぉ。(/////)」

くぐもった声からすると、毛布を被ったままなのだろう。
暗闇にもすぐ慣れるよう訓練された視力で、目の前に出来た小山を観察する。
頭とおぼしき辺りに手を置くと、ビクッと震えた。

「……嫌だったら、やめとくけど?」

できるだけ優しく言ってみる。
とたんに毛布は跳ね除けられ、慌てた声が訴えた。

「や!嫌なんじゃないですよッ…!?
 ただ、思ってたよりズ−ッと恥ずかしいモンだなぁ…、……って。(//////)」

勢いは途中で失速し、最後はもぐもぐと口の中で呟く。
色気はないし、雰囲気を作ろうとしても端からぶち壊すし、大食いだし。
どうしようもない娘(こ)なのだが、そこが良かったのだから、もっとどうしようもない。

頬に手を添えると、目を閉じる気配。
もう後が無いことを示すように肩を抱いて、顔を近づける。
触れる直前で、また口を開いた。

「笹塚さん」
「…ん」

出来ればもう、最後まで黙っていて欲しい。
思いながら生返事をすると、両腕を首に回して抱きついてきた。

いつもは高く澄んだ声が、やわらかな響きを持って耳元で囁く。


「傷だらけになっても、生きていてくれてありがとう」



                                   − 終 −


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(以下、反転にてつぶやいております。)

たまには少し大人傾向の話も書いてみました。…と、いっても“事前”止まり。(笑)
具体的な描写もありませんので、年齢制限は不要と判断しております。
細かい状況も端折っていますが、弥子ちゃんは18歳以上19歳以下を希望。
単発読切ですが、同枠内の「椅子」→「色彩」→「傷痕」と進展していると読めないことも
無いような。…あれ?

なお、肋骨の手術痕以外にも笹塚さんの身体に傷痕があるかどうかは不明です。
『アクティブカルテ』でも、そこまで脱いでなかったので。
傷の位置や種類を含めて、まるきりの捏造。
原則として先制攻撃が許されない日本警察ですので、面倒臭がりな笹塚さんは
犯人に先に攻撃させて怪我しておいてから、一撃で確保とかしてそうだなぁと。