百 合



結婚式、といっても大げさなことをするつもりはなかった。
やめて何年も経っているが、“元・女子高生探偵が結婚!!”とか騒がれたら面倒だ。
籍を入れて、ごく親しい人だけ招いてパ−ティ−でもすれば十分だろう。

けれど
 『やっぱり、ウェディングドレスぐらい着なきゃね!』
と、母の遥が言い出し。
 『結婚式つったら、絶好の出会いの場じゃん!!』
と、親友の叶絵が張り切り。
 『会場だったら、ウチ貸すぜ?』
 『あたしのウチだっつ−の!!』
と、知人の池谷夫妻から申し出があり。
 『顔出すから招待状よろしく!』
と、話を聞きつけた多方面からのリクエストがあり。
気がつけば、100名を超える大パ−ティ−になってしまった。

「ごめんなさい…。」

招待客リストを前に弥子が項垂れると、笹塚は首の後ろを撫でる。
結婚間近だと言うのに、年上の婚約者は相変わらずのロ−テンションだ。

「あ−、俺の関係者も結構入ってるから」

石垣が警視庁中に触れ回ったおかげで、リストには警察関係者がかなり混ざっている。
新郎新婦共に人望が厚い結果であった。


   * * *


あっという間に式当日。
控室の花嫁は、白いワンピ−スにレ−スと花をあしらったシンプルなスタイルだ。
若々しい愛らしさを引き立てる上、軽くて動きやすく食べるのにも邪魔にならない。

今日の為に特注した王美屋のスペシャルフル−ツケ−キ、ウェディングバ−ジョンを思い
弥子は今からワクワクしている。
見かけだけのホテル仕様と違い、三段重ねの上から下まで食べることができるのだ。
娘の蕩けそうな顔が、そんな理由であるとは思いもしない花嫁の母は感慨深く言った。

「お父さんにも見せたかったなぁ…。あんたがちっちゃい頃は、
 『嫁になんかやるもんか−!!』
 とか、叫んでたけど。中学に上がる辺りから、
 『あの子の食費の面倒を見てくれる男が現れなかったら、どうしよう…。』
 って、真剣に心配してたもんねぇ〜。」
「あはははは…。(汗)
 やだなァ〜、自分の食い扶持ぐらい自分で稼ぎますって!!……半分は」

楽天家で前向きな性格の母娘には、控室で二人きりになっても涙はない。
しんみりするのも苦手なのだろう。紋付の黒留袖を着た遥は早々に席を立った。

「…さて。それじゃあ今日から義理の息子兼あんたのお婿さん、呼んでくるからね」
「うん、お願い。あと王美屋さんのケ−キ、ちゃんと届いてるか確認しといて」

母娘の後は、新郎新婦のご対面となる。
一旦式が始まってしまえば、ゆっくり話など出来なくなるそれぞれの為に設けられた時間だ。
朝から慌しかった弥子は、台風の目に迷い込んだような静けさに取り残された。
合コンを仕切るノリで、本日の“人前結婚式”を仕切っている叶絵の言葉を思い出す。

 『“魔の空白時間”つってさ−。準備から当日まで、ず−っと忙しかった花嫁が
  式の間際に1人だけになる時間がフッと出来るワケよ。
  ホラ、映画とかだと土壇場で式場から逃げ出したりするじゃん。
  現実でも泣き出して、式を挙げるのを嫌がったりとかするんだってさ−。』

初めて付き合った男と結婚してしまう弥子を、叶絵なりに心配しての言葉だろうが
締めくくりはこうだ。

 『あたし、今日に賭けてるから。中止にしやがったら絶交すんぞ!!』

独身のキャリア組や会社経営者に愛想を振り撒いている親友を思い浮かべ、
弥子は笑みをこぼす。

……馬鹿だなあ…。そんな心配、要らないのに。

今日からは、帰る時間を気にしないでいられる。
ちゃんと食べているか、眠れているか。もっと気をつけてあげられる。
仕事が忙しいと何日も家に帰らないから、毎日は無理だけど
顔を見て声を聞ける時間は、うんと増えるのだ。

閉じたままのドアを見つめる弥子は、少しドキドキしてきた。
自分の夫になる男性(ひと)が、じきにやって来る。
石垣とヒグチは笹塚の髭を剃らせようと画策していたが、それが成功したかも楽しみだ。
髭があってもなくても、白いタキシ−ドを着た彼は格好良いに違いない。
見慣れない、ということは別にしても。

ふと、笹塚の目に自分がどう映るか気になってきた。
普段より濃い化粧は、崩れていないだろうか?
アップに結われた髪から、癖ッ毛が飛び出したりしていないか?
鏡でチェックしようと弥子は椅子から立ち上がった。

壁際に置かれたドレッサ−は、家具デザイナ−として活躍する池谷の作品だろう。
アンティ−ク風のマホガニ−の上に並ぶ化粧道具。
その少し手前には一輪の花。
ドレッサ−に近づいた弥子は、首を傾げて呟いた。

「……百合?」

光沢のある天板に横たわる、優美で清楚な白百合。
開き始めたばかりの瑞々しい花弁は、たった今、摘み取られたばかりのようだ。

……ついさっきまで、花なんか無かったのに…。

不思議に思いながら手に取ると、甘い香りが鼻をつく。
脳髄を貫く刺激に眩暈を覚えた。ぐにゃりと目の前が歪み、上と下とが逆になる錯覚。
その瞬間に、悟る。

「ネウロ…!?」

自分の声に滲む喜色が、ハッキリとわかる。
翠の眸、歪む口元、無造作に頭を掴む手。傲慢で鬼畜なドS魔人。
記憶が数年の時間を跳躍する。


   『ヤコ』


振り向いた先にあるのは、風に揺れる紗のカ−テンだけ。
頭の中でしか響かない声が、部屋の空気を震わせることはない。
甘い芳香が見えない鎖のように纏わりつく。
百合を握る細い手が、震えた。


   バシッ!!


花弁がひしゃげ、茎が折れる。
床に叩きつけたそれを、弥子は白いパンプスで踏みつけた。
何度も何度でも。

それが何の花だったのか、わからなくなるまで。


   * * *


ノックをしたが返事がないので、笹塚はノブを回した。
無意識に顎を撫でてから、断わりを入れてドアを押す。

「……入るよ」

弥子は、そこに居た。
白い衣装を着て肩にヴェ−ルを垂らし、部屋の中央に置かれた椅子に腰掛けている。
笹塚は花嫁の前に跪いた。両手で顔を覆ったまま、動かない彼女に呼びかける。

「何かあった…?」

間もなく夫となる男の声に、弥子はびくっと肩を震わせる。
指の間から漏れる声は掠れていた。

「……ささづか、さん」

呼び方が数年前に戻っていることも、気づいていないのだろう。
表情を隠したまま、たどたどしく告げる。

「わたし、やっぱり…。結婚できないよ」

笹塚は、弥子の言葉自体には動揺を見せなかった。
顔を覆う指先に手を重ねたが、無理に引き剥がそうはとしない。

「……来たの?」

主語を必要としない問いに、ヴェ−ルをつけた頭が前のめりになる。
喘ぐように息を吐きながら、声を絞り出した。

「………と、思う……。」

不明瞭な返答に、笹塚は僅かに眉を顰める。
続きを促す必要も無く、弥子は目元に押し当てた手を固く握りしめた。

「でも…っ、顔も見せないで花1本だけ置いて…!!
 それだけなのに、わたし…。こんな、頭ン中が滅茶苦茶にッ…!!」

無言のまま、笹塚は視線を巡らせた。
原形を留めない植物の残骸を床の上に認めても、何も言わない。
溜め込んだ感情を弥子が吐き出すのを待つだけだ。

数年前と同じように。


   * * *


ある日突然、ネウロは魔界に帰ると言った。
彼が去れば命を失ってしまう、あかねだけを連れて行くと。

 『まだ“究極の謎”は食べれてないのに、何で?』

弥子が問うと、尊大に言い放った。

 『いずれ、また来る』

 『いつ?いつ戻って来るの…!?』

必死で尋ねる弥子を、蔑むような目で一瞥した。

 『1年後かもしれん、百年後かもしれん。あるいは千年後かもしれん。
  いずれにしても我が輩には、同じ瞬き一つの時間だ』

そう言って鮮やかな翠の目を細め、鋭い牙の覗く口を歪めて。
……忽然と、消えた。

なんて酷い。今までのどんな拷問より、一番惨い。
何故、もう2度と地上には来ないと言わなかったのか。
少なくとも、弥子が生きている間に現われることは絶対にないと。
言ってくれれば、待たずに済むのに。

答えは決まっている。“魔人だから”だ。
何一つ拘束から解放しないまま、奴隷人形を放り出した。
究極の放置プレイだ。

ご丁寧なことに、ネウロは『一身上の都合により、探偵を廃業します』という旨を
HPに掲載するのはもちろん、関係者にメ−ルし、マスコミにFAXまで流して行った。
おかげで暫くは、押しかけるマスコミと心配してくれる人達への対応に追われた。
それが一段落すると、いよいよ弥子の落ち込みは激しくなった。

そんなある日、弥子は笹塚の元を訪れた。
他の知り合いは自分から弥子に電話を掛けたり、会いに来たりしてくれた。
アヤは刑務所から長い手紙をくれた。
笹塚は一度、短いメ−ルを寄こしただけで探偵をやめてからは一度も会っていなかった。
でも、最後にどうしてもちゃんと話がしたくて、非番の笹塚の家に押しかけたのだ。
今思うと、限界が来ていることが自分でわかっていたからだろう。

高校を卒業する直前だった弥子は、錯刃大学への進学が決まっていた。
“HAL事件”の舞台となった大学側が名誉回復のため、警視庁との協力で
犯罪に関する教育・研究を目的とした学部を新設し、“名探偵・桂木弥子”を
第一期生として迎え入れたのだ。

山と積まれた推薦案内から、学食Bランクを選ぶのは大決断だったが
相談に乗ってくれた笹塚に、錯刃を勧められたのが大きかった。
春からは“女子大生探偵”としてネウロにコキ使われるものと思っていた弥子も、
探偵業に役立つ勉強をしたいと思いはじめていた。

でも、もう自分は探偵ではないから。あちこちに迷惑を掛けてしまうけど、推薦を辞退して
1年浪人して、自分の実力に合った大学を受験し直そうと考えたのだ。

 『……まあ、それも弥子ちゃんらしいけどさ』

と、弥子の話を聞いた笹塚は言った。
擦り切れたジ−ンズにTシャツという初めて見る私服の彼は、いつもより口数が多かった。

 『確かに弥子ちゃんには、難事件を推理して解決する力はないだろうけど。
  犯人や被害者と話をして、相手を理解する力がある。
  それは助手の人が居ても居なくても、変わらないんじゃね−の?
  多分、これからの警察が推理力よりも必要とする能力(ちから)だと思うから
  出来れば錯刃で勉強して欲しいんだけど』

笹塚は、ネウロと弥子の役割分担に気づいていたのだ。
いつから、とか。どうして、とか。
思うより先に、弥子は今まで言えなかった全部を吐き出した。
子どものように声を上げて泣きながら。
ネウロが魔人であることを、弥子が自分の口から話したのは彼だけだった。

その日、弥子は笹塚と“知り合い”の域を踏み越えた関係を持った。
自分を日常に繋ぎとめる強い手が、その時の弥子には必要だったのだ。
そういう意味では、誰でも良かった。
別の意味では、彼しかいなかった。

それから数年。
今はまだボランティアだが、弥子は服役囚の社会復帰や犯罪被害者の心のケアを
助けるため、彼等と“話をする”活動を続けている。
勉強しながらの手探りではあるが、警視庁での評価は高く、来年からは予算も付いて
非常勤(バイト)ぐらいにはしてもらえるらしい。

自分の道が見えるようになって、支えてくれた男性(ひと)の手を取れると思った。
やっと、しあわせになれるのに。
さすがは魔人だ。今頃になって全てをぶち壊そうとする。

奴隷が主人を忘れるなど許さないと、花一輪で嘲笑うのだ。


   * * *


「今ならネウロが現われても、大丈夫だって思ったのに…。
 振り回されない自信があったのに、……全然ダメ。
 アイツがフラッと戻って来て、『探偵業を再開するぞ』って一言いったら
 わたし、ホイホイついてっちゃう…!!
 ネウロがいつ来るか、いつ来るかって、死ぬまでドキドキして待ってるよ。
 そんなのと一緒にいても…ッ、笹塚さん、しあわせになれない…!!」

堰が切れたように、弥子の目からは涙がこぼれ始めた。
手で擦ろうとすると白いハンカチを渡される。

「……そう深刻にならなくても良いんじゃないの?
 わざわざ結婚の祝いを言いに来たけど、いざとなったら照れ臭くて花だけ置いてったとか。
 そ−いう解釈じゃ駄目?」

切迫感も抑揚もない笹塚の口調は、いつもと同じだ。
タキシ−ドのポケットチ−フで涙と鼻水を拭いながら、弥子は声を詰まらせる。

「アイツは、そ…なキャラじゃ……な…ッ!……れに、アイツがどうかじゃなく…て
 わ、たしが…、…たしの気持ち、が。ちゃんと、ささづかさ…の方を、向いてな…から」

一番辛い時に、ずっとそばに居てくれた笹塚を選んだ筈なのに。
いつまでも心のど真ん中にネウロを居座らせている自分が、弥子は許せなかった。
誰よりも愛してもらいながら、どうして同じように想うことが出来ないのか。
こんな中途半端な気持ちでは、誰ともしあわせになれない。誰も、しあわせにできない。

「まあ、仮の話だけど……」

小さな子どもに言い聞かせるように、笹塚はゆっくりと話す。
土壇場で結婚をゴネる花嫁に呆れているのか、苛立っているのか。
声だけでわかる筈もないのに、弥子は怖くて顔を上げることが出来なかった。

「アイツがフラッと戻って来たとして…。
 また事務所開いて“人妻探偵”とか始めても、俺は別に構わね−よ?
 弥子ちゃんの仕事は今と大して変わんないワケだし。
 危険な現場に来たら俺が追い出すのも、以前と変わんないから」

冗談にしか聞こえないことを時折真顔で言う人だが、今の台詞は冗談にもなりはしない。
この部屋に入って初めて、弥子は笹塚の顔を見た。

「……本気で、言って…?」

やっと口にした弥子の頬を、涙が転がる。
ファンデ−ションとチ−クを吸った雫がドレスに落ちる前に、顎に触れる手が受け止めた。

「ん−…、そりゃ人間じゃなくても若い男のナリだから、正直、面白くはね−よ?
 以前みたいな過剰なスキンシップは控えてもらいたいし。
 あと、俺に頭突きやクロスチョップ入れるのも、勘弁して欲しい」

半分は冗談でも、残りの半分は本気だ。
現実に“起こり得る未来”として彼は考えていると、気づいた弥子は絶句した。
両目を見開いたまま、涙も鼻水も流れるのを止めている。
笹塚は薄い色の眸を、ほんの少し細めた。

「それに、俺の頭ン中だって弥子ちゃんのことだけでイッパイじゃね−よ?
 仕事優先になって放っぽっとくことだってあるし。
 まだ話せてね−ことも、多分一生、話せね−こともある…。
 弥子ちゃんにソレを許してもらってて、同じことを弥子ちゃんに許さないってのは
 不公平じゃない?」

……でも、ソレとコレとじゃ全然違う…!!

言いかけた言葉を、弥子は呑み込んだ。
本当に違うのだろうか…?少なくとも笹塚は、“同じこと”だと言った。
何よりも彼女を大切にしてくれる、年上の男性(ひと)を見つめる。

どうすることも出来ない過去、喪った人、二度と戻れない場所。
ふとした瞬間に蘇る、息が詰まるほど鮮烈な記憶。

15年という歳の差の分、彼の方がより多くを抱えている。
知らないけれど、わかっている……つもり、だった。
今の自分は過去から出来ていることを。

ハンカチを握りしめたまま、弥子は呟いた。

「“人妻探偵”って…、“女子高生探偵”より響きがヤラシイです」
「……あ−、突っ込むのはソコだけ?」

首の後ろを撫でながら確認され、拗ねた声を出す。
涙は完全に止まっていた。

「衛士さんとは痴話喧嘩とか修羅場とか、一生経験できなさそう」

すっごいお爺さんみたいに達観しちゃってて、つまんない。
いつの間にか呼び方を戻している弥子に、笹塚は口元を緩める。

「俺も歳だから、取っ組み合いになったら弥子ちゃんに負けるかもね。
 ……で、式は中止してパ−ティ−だけにしとく?
 騒ぎたそうな連中ばっか来てるみたいだし。でかいケ−キも届いてたけど」

マスカラやアイラインで、パンダ目にならないように目元を押さえながら
弥子は花婿に文句を言う。

「普通、こういう時ってマリッジブル−の花嫁を必死で宥めて、『式だけは!!』とか
 言うモンじゃないんですか?職場での体面とかもあるでしょ」

傾いた笹塚の首が、小さく音を立てた。
他人事のような気のない声で、不満そうな花嫁に告げる。

「別に体面とかはど−でもいいし。籍を入れるのも子どもが出来てからで問題無いし。
 けど、弥子ちゃんが嫌じゃなけりゃ、今日から一緒には暮らしたい」

帰す時間を気にしないでいられるし。
1人で泣いてないか、色々抱え込んで無理してないか。もっと気をつけられる。
仕事が忙しいと何日も家に帰れないから、毎日は無理だけど
顔を見て声を聞ける時間を増やしたい。

「……だから、アイツが戻って来ても来なくても。
 弥子ちゃんがフラッと何処かへ行っちまわないように、努力ぐらいはさせて?」

まだ指輪をしていない左手が、二周りは大きな手で包まれた。
泣きそうに歪んだ顔を見られまいと、弥子はうつむく。
右手でハンカチを握りしめ、懸命に息を整える。

「……ずっと、言えずにいましたけど」
「ん…?」

顔を上げ、潤んだ琥珀色の眸で笹塚を映す。
見つめ返す薄い色の眸には、僅かな緊張が浮かんでいた。
弥子は、ぎこちなく笑みを浮かべる。

「お髭が無いのもタキシ−ドも、似合ってますよ〜。すっごく若く見えて、もうビックリ!!」

不意打ちは大成功を収めた。
うろたえた笹塚は、顎を押さえて口篭る。

「……れは、石垣とヒグチが一課の連中を煽って。
 しかも笛吹と筑紫が指揮を、……じゃなくて。弥子ちゃんも似合…ッぐ」

この場に来た目的に立ち返る口を、弥子は丸めたハンカチで塞ぐ。

「こんな顔じゃ何言われても信用できないし、続きはお化粧直してからです!
 …って、もうこんな時間!?急いで叶絵、呼んで来て!!」

化粧の剥げた顔をヴェ−ルで隠した弥子は、薄布の向こうで言った。
椅子から立った彼女に手を引かれ、笹塚もようやく腰を上げる。

「……了解」

花嫁の御用を仰せつかり、控室を出る花婿に更にもう一つ。

「あと、王美屋さんのフル−ツケ−キ、摘み食いされないように見張ってて」

白いタキシ−ドの肩越しに振り返った花婿は、ハッキリと微笑んだ。

「それも了解」


   * * *


花嫁だけが佇む控室。
静寂が支配する空間に、16の頃よりも低くやわらかな声が響く。

「ネウロ」

花嫁の吐息がヴェ−ルを揺らす。

「忘れてないよ、わたし。アンタが居たこと、探偵だったこと、あかねちゃんのこと…。
 たくさんの事件と謎。出会った人のことも、死んでしまった人のことも、全部」

百合の残骸を薄布越しに見つめ、椅子に座った。
真っ直ぐに顔を上げ、ドアの方を向いて言う。

「……アンタがまた、お腹を空かせて地上に来た時。
 あたしが生きていたら“お婆ちゃん探偵”になってあげる。
 だから、いつかもう一度、会えたら嬉しい…。」

窓辺のカ−テンが風に揺れる。
ドアの向こうで足早に近づくハイヒ−ルの音。きっと叶絵だろう。
ゆっくりと立ち上がり、振り返った。

「今日は、来てくれてありがとう」



     花は消え、そこには

     百合の香りだけが残っていた



                                   − 終 −


TextTop≫       ≪Top

***************************************

(以下、反転にてつぶやいております。
 ※背景画像にかかっても見えますので、興味の無い方はご注意ください。)



私がネウロの中で笹弥子に傾いたのは、弥子ちゃんが死ぬまでネウロに捕らわれていても、
それを一番理解し許容できそうなのが笹塚さんだからだと思います。
ネウロとヤコの絆は恋愛感情だけでは説明できないけれど、恋愛感情の“ようなもの”が
全く無いとは言えないところがミソかと。
笹塚さんと弥子ちゃんも恋愛感情だけの関係では無いから、丁度バランスが取れるのかも。
そんな私は修羅場が生じない変則的三角関係が大好きです。

ちなみに読切掲載時、ネウロは魔界を『腐った百合が乱れ咲く』ところと言ったとか。
その所為か百合をネウロの花として表現している二次創作作品をよくお見かけします。
実は↑を知るまで、何で百合が良く出てくるのか疑問だったのですよ。
百合というと、花言葉は“純潔”“無垢”が一般的で、聖母マリアの象徴ですし。
ネウロのセリフが正確には『腐った百合』だったことに、大いに納得しました。

さて、以下は「おまけ」というか切りそこなったトカゲのしっぽです。
よろしければ、下にスクロ−ルをお願いします。
なお、微妙にネウあかになっていますので、嫌いな方はご注意ください。



   * * *


「…ったく、式が始まる前から感動してボロ泣きって、ど−いうことよ!?
 せっかく若手社長とイイカンジだったのに〜ッ!!」
「ごめんってば叶絵。……ところで若手社長って吾代さんのこと?
 確かユキさんもお兄さんから独立したって聞いたけど。他には誰か居たっけ?」
「あんたの顔の広さには心底恐れ入るわ。
 とにかく後で教えるから、花嫁の“大親友”ってコトでバッチリ紹介してよ!!」

勢い良くドアが閉じられ、控室は静まり返った。
誰もいない筈の空間がユラリと歪む。
そこに現われた人影は、黒い手袋を嵌めた手で潰れた百合をもてあそんでいた。

「貧相な奴隷に相応しかった醜い花が、我が手に相応しく美しくなった」

ひしゃげた花を愛でる声に、高く澄んだ声が問う。

「結局、会わずに帰るんですか?」

腰まで届く艶やかな黒髪の女の口ぶりは、残念そうだ。
いや、ほっそりした体つきは少女と言って良いかもしれない。

「地上で言うところの“愛の試練”とやらも無事乗り越えたようではないか。
 当分、用はあるまい」
「当分…?」

怪訝な声に、さも愉快そうな返事があった。

「我が奴隷は人を見抜く目を持ち合わせているが、勘は鈍いし頭が悪い。
 あの男はその逆だな。
 そして、どちらも脆弱な人間にはまれにみる頑丈さとしぶとさを持っている。
 いい具合に交配されれば、より最高の奴隷が効率良く手に入ると思わんか?」
「交配って…。(////)
 それ聞いたら弥子ちゃん、すっごく怒りますよ!?」

人間としての感情と感性を残しているあかねは、頬を染めつつ突っ込んだ。
だからこそ、ネウロが自分をそばに置くのだということを聡明な彼女は理解している。
半魔人である彼女の姿が、弥子の昔の面影を写していることも含めて。

傲慢で孤独な、永遠に近い時を生きる不器用な生物(ひと)。
ククククッ と、笑いと共に舌なめずりをするネウロに、溜息を吐きつつ呟いた。

「本当に、人間が好きなんですね」
「我が食料を生産する家畜共だ。嫌いな筈はあるまい?
 それに、あれほど面白い玩具(どうぐ)は魔界にはない」

やがてどこかから音楽が聞こえ始めた。漣のような拍手と口笛。

「お式、始まったみたいですね」

覗きたそうなあかねに背を向け、ネウロはついと身を翻す。

「では、帰るぞ。祝福、涙、笑顔、幸福、…愛。
 魔人である我が輩には理解不能のモノが溢れている。
 それも、いずれは解き明かすつもりだが……、今はどうにも不愉快だ!!」



     影は消え、やがて

     百合の香りも消えた