Cross wind



「ねェ、結婚しない?」

冷房の効いた部屋で、汗ばんだ身体の肩までをブランケットで覆って
六つ年下の男は言った。

「どうしたの?急に」

問いながら、彼がサイドテ−ブルに置いたタバコの箱から一本を失敬し
ライタ−で火を点ける。

「別に、おかしくはねェだろ?俺も貴女も独り身だし」

薄い煙の向こうで、前髪に隠れていない右の眸が細められる。

彼の妻だった女性が海で消息を絶って、七年が過ぎた。
失踪宣告による法律上の死亡手続き。
保険金や遺産相続を含む諸々の処理。
ここ一年、上京する度に酷く疲れた顔で私の元を訪れる彼だったが
今は、いつもの様子だ。
女の肌は彼を癒し、慰めるのだろう。
もう若くもない女の肌であっても。

「娘さんが嫌がるんじゃない?」

彼の一人娘は、確か十二歳だったか。
自分から子供のことを話しはしないが、そろそろ難しい年頃だろう。

「そんなことねェよ。
 “パパがさみしいんだったら、新しいママが来てもいいよ”って言ってるし」

ごろりとうつ伏せになり、ブランケットを蹴り上げて脚をぶらぶらさせる。
子供っぽい仕草とは裏腹に、表情は父親のそれだ。

「…その微笑みは、OKってコト?」

問われて、自分の唇がほころんでいるのに気づく。
私に向かって伸ばされる左の手に、今は指輪は無い。

「貴方のお嬢さん、初めて会った時の貴方と同じくらいの歳だと思って」

「そうやって、す−ぐ昔話に持ってこうとすんだから〜」

パタリと掌をシ−ツに落とし、不貞腐れた顔をする。


   『この子、私の弟なの』


満面の笑顔の親友(とも)。
白い手を頭に置かれた少年は、今と同じ不満気な表情をしていた。


灰皿の縁に半分残ったタバコを置き、金色の髪を梳くように撫でる。
気持ち良さそうに目を細めるところは、まるで大きな猫のようだ。

「……今、気づいたのだけれど」

「何?」

吸いかけのタバコに手を伸ばしながら、彼が問う。

「生まれて初めてのプロポ−ズだわ」

「……マジ?」

「ええ、本当よ」

結婚を申し込まれるような、そんな付き合い方をした男はいなかった。

「んじゃ−、次は薔薇の花束とダイヤの指輪を持って来ようか?」

「随分、本格的ね」

「お望みなら、オプションで片膝も着きますvv
 だからロビンちゃんも、本格的に考えてみない?」

「考えるだけならね」

「ツレねェな〜〜」

そう言って、すっかり短くなったタバコを灰皿に押し付けると
彼は再び私をブランケットの中に閉じ込めた。


   * * *


彼が海辺の街を離れ、東京へやって来て最初の数年間。
私達は一、二ヶ月に一度の割で会っていた。
連絡してくるのは彼の方。
私は余程の都合がない限り否とは言わない。
朝までを共に過ごし、そして互いに『またね』と言ってドアの内と外に別れる。
次の約束はしない。

二十歳になるやならずやの若者が、六つも年上の女の元へやってくる理由は
きっと一つでは片付かない。
親元を離れての修行で、女の子と知り合いになる余裕も無かったのだろう。
そして、私の中に遠い故郷の名残を求めたのかもしれなかった。

…今にして思えば、故郷の名残を求めたのは私の方だったかもしれない。

大学への進学と共に、後にした故郷。
親友の結婚式の出席を最後に二十年以上、訪れたことさえない。
彼女の葬式にすら、私は出向かなかった。

その日、私はベッドの中で子供のように泣きじゃくる彼の金髪を撫でていた。
修行に出て、たった数ヶ月で故郷の土を踏むことを彼の父親は許さなかったのだ。
本当は、酷く面やつれした彼女の遺体を彼に見せたくはなかったのだろう。
私も見たくは無かったから、弔電だけを打って彼女の弟と夜を共にした。

思い浮かべるのは、風に揺れる空の色の髪。
白い頬に仄かに色差す薔薇色。
陽だまりのような笑顔。

こんな過ごし方を、親友は許してくれるに違いないと思った。


一回忌が過ぎ、三回忌が過ぎ、次第に彼の足は私の元から遠のいていった。
考古学者としての確たる地位と成功を求める私もまた、大学内での派閥争いを生き残り
より多くを得るために奔走する日々を過ごしていた。

そんな、ある日のことだった。
大学の教授から出版社への届け物をことづかった(要するに使いっ走りだ)私は
電車からタクシ−への乗り換えに向かう途中で彼を見かけた。
駅前の小さな広場。
噴水の周囲は待ち合わせの相手を待つ若者で溢れていたが、彼に気づいたのは
やはり髪の色のせいだろう。
染めたものとは違う、鮮やかな金。

最初はナンパでもしているのかと思った。
けれど、手にした携帯に何度も視線を落とすところを見ると、彼も待ち合わせらしい。
興味を惹かれないワケではなかったが、約束の時間に追われていた私は
その場を足早に通り過ぎようとした。

さあっ と、視界を掠める空の青。
無意識にその色を目で追った。
シトラスが、ふわりと香る。

淡いブル−のス−ツを着た背中。
長い髪を後ろで一つにまとめ、ハイヒ−ルで飛ぶように駆けていく。
顔を上げた彼が近づいてくる彼女を認め、咥えたタバコをポケットにしまったのが
目の端に映る。
バッグを持っていない方の手を挙げて、彼女はいよいよラストスパ−トに入った。

その後を見ることもなく、私は停まっていたタクシ−の座席に滑り込んだ。


……成る程。


そういえば半年以上、彼からの電話がないことを私は思い出した。

その時の気持ちを、何と表現すれば良いのだろう?
些細で複雑な感情の中で、一つだけを選び出すのは適切ではないけれど
確かに私は、ほっとしていたのだ。


   * * *


何もかもが上手くいかなくて、捨て鉢になってしまう。
そんな時が誰にでもある。
それなりに上手く世の中を渡って来たつもりの私にも。
仕事の、そしてプライベ−トでのパ−トナ−…だと、思っていた男…に裏切られた時は。
全てを賭けた研究を奪われた報復に、私は男を追い落とすだけの証拠を揃えた。
どんな世界でも、埃を被らずのし上がる者はいない。
これで相手を脅す事も、破滅させることも出来る。

その夜、私は初めて自分から彼の携帯に電話を掛けた。

〔……ロビンちゃん?〕

久しぶりに聞いた彼の声は、明らかに狼狽を含んでいた。

「ええ、そうよ。覚えていてくれて嬉しいわ」

〔ちょっと待って…。……………悪ィ、こっちから掛け直してイイかな?〕

声の様子から、近くに誰か居るのだと想像がついた。
多分、女性だろう。
以前に見かけた彼女を思い出した。
あれから一年近く経っているのだから、同じ女性と続いているとは限らないのだけれど。

「都合が悪いなら構わないわ。突然でごめんなさい」

〔何か、あったんでしょ?必ず掛けるから待ってて〕

「話があるんじゃないわ。だから、掛け直す必要はないの。……来れたら来て」

そして私は一方的に電話を切った。
彼からの連絡は無かった。
50分後、彼自身がやって来たのだ。

「本当に来るとは思わなかったわ」

「呼び出しておいて、そりゃ−ねェでしょ」

目尻を下げて、おどけたように笑う彼に私は問いかけた。
まだ、彼は引き返せるのだから。

「いいの?」

見つめる私に、僅かに肩を落として微笑んだ。

「いいんだ」


……嘘吐きコックさん。


その声は私の唇から漏れることはなく、彼の口内に呑み込まれた。

多くの女は彼の優しさに惹かれ、その優しさを独り占め出来ない現実に気づいて離れていく。
この女好きのコックは、差し伸べられた手を自分から振り払うことなど出来はしない。
彼が父親と一番違うのは、きっとそんな点だろう。
それとも、あの男も若い頃はこんな風だったのだろうか…?

「…何、考えてるの?」

ベッドの中で、彼が問う。
私は笑って答える。

「貴方のことよ、優しいコックさん」

半分は真実で、半分は嘘。
けれど自分を裏切った男のことは、ひとカケラも思い出さなかった。


結局、私は苦労して揃えた証拠を焼き捨てた。
大学を辞めた私は、恩師の紹介で小さな博物館に学芸員の職を得ることが出来た。

随分後になって、派閥争いに敗れた男が学会を追放されたと知ったが
もう、何にも感じはしなかった。


   * * *


長い間、私は彼とは会わなかった。
姿を見かける事もなかった。
東京は、人の海。あの時すれ違ったのは奇跡のような偶然だ。

やがて会わないままに、転居を知らせる葉書が届いた。
転居と言うよりは帰郷。
彼は自分の目標に到達し、故郷へ、私を拒み通した男の元へ戻ることを許されたのだ。

それから数ヶ月が経って、暑中見舞いが届いた。
手書きのメニュ−のような独特の筆跡。
最後に短く、結婚したと書き添えられていた。

また、あの時の彼女の姿が頭を掠めた。
けれどまさか、そんな筈はないだろうと同じ連想を繰り返す自分に苦笑した。

翌年には女の子が生まれたと、風の便りに聞いた。
彼は親友の弟だ。
結婚祝いに何も贈らなかったのが気になっていた私は、子供の玩具代わりにと
世界の古代の国の神々の木製レプリカを贈った。
動物を化身としたものや、ユ−モラスなもの。
愛の神、美の神、豊穣の神、知恵の神、真理の神。
その象徴となるべきものに気を配りながら。

親友の子供が生まれた時には、贈る気にもなれなかった祝いの品。
彼の娘とティティの忘れ形見の女の子は、従姉妹同士になるのだ。

間を置かず、礼状が届いた。
しっかりとした筆跡は、彼の奥さんのものだろう。
葉書の裏面は、ありがちな赤ん坊を抱いた両親の写真。
父方に似たらしく、明るい色の髪の小さな小さな女の子。
淡いブル−のベビ−服。

その姿が、見ることの叶わなかった我が子を抱く親友を想わせた。



    貴女に子供が出来たことが、とても嬉しかったわ。
    すぐに電話でおめでとうと言ったわね。
    それから二時間も話し込んで、後ろで家政婦さんが聞こえよがしに

    『旦那様のお帰りですよ!!』

    って大声で言うのに、二人して笑った。
    私は自分では子供を産むことはないだろうと判っていたから
    本当に嬉しかったのよ。

    貴女だけは、今までも これから先も
    あの海辺の街でずっと微笑んでいるひとだと思い込んでいたわ。
    私の故郷は、貴女と共に失われてしまったの。
    残っているのは夢と恋の名残だけ。
    それを見るのは辛すぎて、私はあの街に帰れない。



そして葉書にもう一度視線を落とし、私は気づいた。
照れ臭げに子供を抱いている彼の傍で微笑んでいるのは
あの時の彼女だということに。

喪中欠礼の葉書が届いたのは、それから四年後のことだった。


   * * *


目覚めると、何時もどおり彼は朝食の準備を終えている。
初めて二人で過ごした朝から、変わることの無い習慣。
向かい合っての食事を終えると、彼は店に戻るのだ。
彼の所有(もの)である店に。

彼にとって偉大な父親が、私にとって生涯忘れられない男が
この世を去ってからでさえ、もう一年が過ぎている。

追うべき背中を失った彼は、きっと今よりも更に父親に似ていくのだろう。
その姿を見つめながら年老いていく人生も、悪いものではないと思うけれど…。

いつものように、触れるだけの優しいキスをして
彼は、いつもと違う別れの言葉を口にした。

「さよなら、ロビンちゃん。…元気で」

沈黙を守り、何気ない風を装って。
それでも彼は気づいていたのだと、私は知った。

「さようなら、オ−ナ−シェフ」

最後にもう一度、私は彼の髪に指を通した。
金色の髪にはほんの数本、銀に光るものが混じっている。
けれど、彼は昔から変わらない少年じみた笑顔を見せた。

ドアが閉まり、足音が遠ざかる。
そして私は電話を取り上げ、この番号の解約を告げた。


   * * *


遠い熱い砂漠の国で、忘れられた王国の遺跡が発見された。
長い永い間、戦火にさらされた国の枯れたオアシスの傍で。
私は発掘隊に志願した。

論文を発表することが出来なくても、地位や名声が得られなくてもいい。
深く砂に埋もれた歴史が現在(いま)に姿を現す瞬間を、自分の目で見たいと思う。

この国に戻ることが、二度となくとも。


一週間後、私は空港へ向かうタクシ−の中に居た。

真夏の東京は、砂漠もかくやという熱さで大気の中に透明な炎が燃えているようだ。
交差点でタクシ−が停まった時、ふと周囲の風景に懐かしさを覚えた。

タ−ミナルに近い、駅前の小さな広場。
噴水の周囲の若者達。

……ああ、ここは“あの場所”だ。

窓から視線を巡らすと、かつて彼が居た場所に佇(たたず)む空の色。
日傘の下の白い面差し、ほっそりとした肢体。

私は息を呑んだ。


……ティティ…!?


顔を上げた彼女は、真っ直ぐにこちらを向いた。
ほころぶ唇、白い手のひら。

私は思わずタクシ−のドアを開けた。
アスファルトに降り立った瞬間、 ざあっ と風が頬を掠めて吹き抜ける。
視界を覆った鮮やかな赤は見る見る遠ざかり、空色との距離を縮めていく。

「ビビ〜〜〜ッツ!!!」

赤いシャツに麦わら帽子を被った少年のような男が、大声で怒鳴る。
呼ばれた彼女も負けじとばかりに大声で応えた。

「ルフィさん!!!」

じゃれあう子犬のように互いに飛びつくと、男の方が彼女の腰を抱いてぐるぐる回りだした。
投げ出された白い傘も、アスファルトの上をくるくると独楽のように回る。

「ルフィさん、駄目だってば!降ろして〜!!」

「だって、すっげ−嬉しいんだ!!!」

空色の髪が、長いスカ−トが、ふわりふわりと花のように舞っている。

「……あららら、お客さん?」

タクシ−の運転手が、窓から頭を出して私を見上げている。
車の中で昼寝でもしていたのか、額にアイマスクを着けたままだ。
我に返ると信号は、とうに青になっている。

「おっとっと、ゴメンよ」

後ろに身を乗り出し、クラクションを鳴らす車の列に謝る運転手に
私は急いでタクシ−のドアを閉めた。

「ごめんなさい。出して頂戴」

走り出す車。
遠ざかる風景。
大きな身体で窮屈そうな運転手が何度もこちらを気にするので、どうしたのだろうかと思い
手の甲にポトリと落ちたものに自分で驚いた。

「………あららら」

運転手が小さく呟く。

親友が、あの男が、逝った時には流れなかった涙が
今、私の頬を濡らしている。


……愛しているわ


自分で意識(し)っていたよりも
はるかに強く あまりに多く

数え切れない、記憶


……愛していたわ


誰へとも、何へとも判らぬ想いは唯一つの言葉となって
風のように私の中を吹きぬけていった。



                                          − 未完 −


≪ウィンドウを閉じてお戻りください≫

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…ええと、この話で何が書きたかったのかというと、ズバリ
『ティティさんと親友なロビンさん』
サンニコでもゼフニコでもなく、こっちに走る自分は非常に自分らしいと思います。
…いえすみません、ごめんなさい。
けっしてソレだけでは無いつもりなのですが…。
ソレだけしか読み取れない場合には申し訳ない限りです。
これでも私はロビンさんが大好きです。…私なりに。(汗)

(2004.8.22 文責/上緒 愛)


※ 参考 ※ 「失踪宣告」(民法第30条、31条)
行方不明となり、生死の確認が取れない状態で七年(航空機や船舶の事故、災害等の
危難失踪の場合は一年)以上が経過した場合、家庭裁判所への申立により失踪宣告を
行い死亡の手続きを行うことが出来る。
申立から手続きの完了までは、およそ8〜10ヶ月(危難失踪では2〜3ヵ月)程度。
戸籍に死亡が記載されることにより、遺産相続や保険金の支払いが可能となる。
尚、離婚については民法第770条により三年以上配偶者の生死が明らかでない場合
法定離婚が可能。

上記は「失踪」等のキーワードからの検索による複数サイト様からの総合情報ですが、
理解・要約が間違ってましたら、すみません。(汗)