銀 木 犀



 「これはね、あなた達の木ですよ」

 記憶にある限り声を荒げたことのない親父は、その時も穏やかな声で言った。
 俺は親父の肩の上で、くいなはお袋と手を繋いで。
 それぞれの木を見上げた。
 
 「金木犀はくいなが生まれた年に、銀木犀はゾロが生まれた年に
  記念に植えたものですから。大事にしてくださいね」

 門に向かって右手側の金木犀。
 たわわに花が付き、強く薫る。
 道場へと続く石畳を橙色に染めて。

 門に向かって左手側の銀木犀。
 緑の葉の陰に隠れるように咲く白い花。
 目立たずに、ひっそりと。

 秋になると、咲いて薫って散る。
 その木を、俺は毎年違う高さで見上げた。


    * * *


 剣道場の息子に生まれた俺だが、物心ついた頃は稽古が嫌で逃げ回っていた。
 チャンパラなんて、つまんね−。
 ヒ−ロ−は、拳銃かロボットだ!!
 そう思っていた覚えがある。

 お袋は俺を追い掛け回しては、竹刀を握らせようとしていたが
 親父は稽古を無理強いしようとはしなかった。
 それを良いことに、家の道場に通うヨサクやジョニ−を誘っては
 一緒に稽古をサボってばかりいた。

 けれど、ある日。
 他の道場との模範試合を見せられた俺は、ただただあっけにとられた。

 特定の分野での“天才”っていう奴は、確かに存在するのだと。
 まだガキだった俺は、鳥肌が立つほどに思い知った。

 剣道場の娘に生まれた、剣道の天才。
 それが、あいつだった。
 俺の二つ年上の姉、くいな。

 竹刀は手にした瞬間から、くいなの腕の一部だった。
 自在に弧を描き、鋭く斬り裂いて瞬時に突く。
 その足捌きは道場の床の上を音も無く滑る。

 相手の竹刀に向かい合うその瞬間、あいつは風に舞う華にも、空を飛ぶ鳥にも
 闇を貫く稲妻にもなった。

 十歳の子供が大の大人を打ち負かしていく。
 その姿を俺は、何よりも凄ぇと思った。

 ……俺も、あんな風になりてぇ!!

 ガキだった俺の頭を占めた、熱に浮かされたような想い。

 その日の夜、俺はくいなに勝負を挑んだ。
 結果、容赦なくボコボコに殴られた。

 「さんざん稽古をサボっといて、あたしと勝負だなんて。
  あんた、剣道をナメすぎよ!!」

 それが記念すべき、最初の一敗目だった。


    * * *


 真面目に剣道に取り組み出した俺に、お袋は厳しく稽古をつけた。
 朝から晩まで竹刀を振る俺は、めきめき腕を上げた。
 初心者の指導を受け持つお袋の元を一年足らずで離れる頃には
 近くの小学生で俺に敵う奴は居なくなった。
 ただ一人、くいなを除いては。

 親父の指導の下での日々の稽古や練習試合。
 俺は一日に何度もくいなに勝負を挑んだ。
 百回挑んで、千回挑んで、その度ごとに叩きのめされた。
 道場の床に、海岸の砂浜に、庭の土に。
 転がされる度、くいなは近づくどころかどんどん遠くへ
 俺を置いて、ずっと高みへと行っちしまう気がした。
 堪らずに、俺は言った。

 「くいな!お前、もう練習すんな!!」

 「はぁ?何言ってんのよゾロ。馬鹿じゃないの」

 竹刀の手入れをしながら、くいなは呆れた声を出す。
 だが、俺は大真面目だった。

 「オレがどんなにしゅぎょうしても、くいなが同じだけしゅぎょうしたら
  いつまでたっても追いつけないじゃね−か!
  だから、くいなは練習すんな!!」

 「しょうがないじゃない。あたしの方が年上だし。あんたより早く剣道始めてるし。
  背だって、まだあたしの方が高いんだから」

 そんなん、ずりぃ!
 姉ちゃんだからって、ずり−ぞ!!
 稽古をサボり倒した数年間を棚に上げて地団太を踏む俺に、竹刀を置いたくいなは
 真顔で言った。

 「あんたは直に、あたしより強くなる」

 俺は暴れるのをやめた。
 ホントに?
 俺は、くいなより強くなれるのか?

 「あんたが高校生になる頃には、あたしはもう、あんたには敵わなくなる」

 そんなん、まだず−っと先じゃね−か!!
 膨れる俺に、くいなは笑った。
 笑った頬を涙が伝い、ごしごしと袖で目を擦る。
 その意味を、この時の俺は理解出来なかった。

 「けれど、あんたが爺さんになって。あたしが婆さんになって。
  そうしたら本当の勝負よ。そのくらい剣道を続けよう。
  ……約束よ、約束」

 差し出された手に、俺は自分の手を重ねた。
 くいなの手は、指の先まで固い。
 両手のひらと十本の指全部に、何度もマメが出来ては潰れた手。
 俺の手は、まだまだだと思いながら頷いた。

 「剣士と剣士の約束だ!!」


 それから何日かして、階段から落ちたくいなは首の骨を折った。


    * * *


 くいなが死んで、くいなの墓が出来た。
 俺のひいじいさんや、ひいばあさんや、大叔父さんや。
 会ったことのねぇ親戚の墓の隣に。

 俺は学校の帰りに毎日墓に行った。
 けれど、涙は出なかった。
 くいなの通夜でも、葬式の時も、俺は一度も泣かなかった。
 約束したのに、もう勝負出来ねぇ。
 ずっと剣道を続けようって言ったのは、くいなじゃね−か。
 勝ち逃げなんて、ずり−ぞ。
 そんな悔しさと腹立たしさだけが、頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。

 「その墓、だれンだ?」

 ある日、声を掛けられて振り向いた。
 こないだ転校してきた奴だ。
 金色の髪で片方の目が隠れて見えねぇが、見える方の目は青い。

 「オレの姉ちゃん」

 「そっか」

 金髪の子供が海辺にあるレストランに引き取られたことは、街中で噂になっていた。
 怖そうな髭のコックの隠し子だとかなんとか。

 「お前さ、何か変な感じしねェか?」

 まだ真新しい墓石を見て、そいつは言った。
 唇の端が切れて血が滲んでいるのは、大勢でつるんでは弱い者苛めしてる連中と
 やりあったからか。
 噂どおりレストランでこき使われているからか。

 「今まで居ただれかが、急に居なくなって。
  それでも毎日朝が来て夜が来て。オレ等はハラ減ってメシ喰って、寝て起きるんだ。
  それって、変な感じしねェ?」

 こいつも、この街に来る前に誰かに死なれているんだろう。
 髪に隠れて見えない方の横顔に、俺は頷いた。
 墓の左右に供えられた金と銀の木犀を見て、そいつは言った。

 「きょうだいの花だな」

 俺は、くいなの墓の前で初めて泣いた。
 金髪頭は何時の間にか居なくなっていた。

 あいつは覚えちゃいねぇだろうが、それがクソコックとの腐れ縁の始まりだった。


    * * *


 “あの天才少女の弟”
 中学に上がり、剣道の大会で上位の成績をとるようになった俺は決まってそう呼ばれた。

 “あのロロノア・ゾロ”
 高校に進学して暫く経つと、そう呼ばれるようになった。
 “ロロノア道場の跡取り”
 そう言われることはあっても、“だれそれの弟”とは呼ばれなくなった。
 
 くいなの七回忌が済むと、それから後はくいなの命日に親戚や道場の門下生が
 集まることは無くなった。
 親父は、それまで大切にしまってあったくいなの剣道着や竹刀や大会での表彰状を
 庭で焼いた。
 お袋は、自分のものだったという色鮮やかな振袖を火にくべた。
 煙は高く空に昇った。

 次の年からは家族だけで墓に線香を上げた。
 秋が来ると、墓の前には木犀の花が飾られている。

 「くいなちゃんはねぇ、この花が大好きだったのよぅ。
  街で一番大きくて、一番沢山花が付くって言って、あちしにも分けてくれて。
  優しくて可愛いコだったわねぃ。
  特に銀木犀は珍しいからって、自慢にしてたのよぅ〜」

 オカマの坊主は、そんな風に俺の知らなかったことを教えてくれた。


    * * *


 高校最後の夏。
 俺は熱に浮かされるような想いを、再び味わうハメになった。
 金木犀の花に似た、明るい色の髪。
 強く甘い薫りを放つ女。
 俺より一つ下の癖に、頭の良さと口の上手さで身体を使い男を手玉に取る。
 これも一種の“天才”だろう。
 馬鹿と紙一重という点で。

 腐れ縁が続いていた“料理屋の息子に生まれた料理の天才”は
 料理の道に進むかどうか決めかねていた。
 こいつは阿呆だ、と思った。
 挑む前から尻込みしやがって、時間の無駄だ。

 ……他人のことが言えた義理じゃねぇな。

 今の俺が、くいなに勝っている?
 そんな気がしねぇよ。
 俺の剣は、ただただ力で押すだけだ。

 こんな剣でも、お前は俺に負けたと思うのか?
 問うても墓石から答えは返って来ない。
 俺にしがみ付く橙色の髪の女も、口をつぐんだまま涙を流す。
 何で俺と?クソコックじゃなくてイイのかよ?
 問わねぇから、答えもねぇ。

 「迷いのある剣を向けるは、剣士として最大の無礼だと覚えておくがいい。
  御母堂も、御父君も。不肖の跡取りを持って嘆かれよう」

 高校最後の大会の後、挑んだ他流試合で日本一の剣士は叩き伏せた俺に言った。

 「亡き少女も、草葉の陰で弟の情けなさに涙しようぞ」

 くいなは、俺が情けねぇからって泣いたりなんかしねぇよ。
 ただ、鼻で笑って言うだろうな。


 『さっさと立ちなさい、ロロノア・ゾロ!
  日本一の剣士になる男に、地べたで昼寝してる暇なんか無いわよ?』


 …俺って奴は、まだまだじゃねぇか。
 何もかも一からやり直しだ。

 そして、妊娠したという女…ナミは、俺に一方的に別れを告げた。
 バイクで事故ったクソコックは、ナミより一月早く高校を辞めて料理修行を始めた。

 自分で決めて、自分で選んで。
 とっとと走り出した奴等に、為す術の無ぇ俺。

 …今は、まだ。


    * * *


 隣県の大学への推薦が決まり、俺は年明けから合宿に参加することになった。
 家を離れる前に、ナミに子供が出来たことを親父とお袋に話した。
 俺が言うのもなんだが、普段は鷹揚な親父も暢気なお袋も顔色を失って絶句した。

 ナミの姉貴やナミを気に掛けている街の駐在や医者や。
 何人もが間に入って、ナミを説得しようとした。
 それでも強情を張るあいつを、最後には姉貴が強引に道場の玄関まで引き摺って
 ナミと生まれた赤ん坊はロロノア家が預かることになった。

 籍を入れずに俺の子を産んだナミを

 「嫁見習いです」

 と、お袋は言った。
 そして、俺には

 「あなたは父親見習いです。
  その覚悟があるのなら、しっかり修行なさい」

 家宝の日本刀を持ち出して俺に切っ先を突きつけるようなお袋は、孫可愛さも手伝って
 ナミとそれなりに上手くやっているようだった。


 秋の連休に大学の寮から戻ると、赤ん坊を背負ったナミが居る。
 道場へと続く石畳に落ちた木犀の花を掃除していた。
 普段は家に居ねぇからか、どうにも見慣れない光景に門をくぐったところで足が止まる。

 「うぎぃ」

 奇声を発した赤ん坊に顔を上げたナミが、俺を見つけた。

 「あら、おかえり」

 「……おう。」

 それきり、ナミは掃除を続ける。
 ぱらぱらと落ちる金木犀が、橙色の髪や肩に降りかかる。
 強く甘い薫りを放つ花。

 「突っ立ってないで、手伝ってよ」

 「……おう。」

 突き出された塵取りを受け取って、屈んだ。
 うず高くなった橙色の中には、ちらほらと白い花。

 「これ、あんたの姉さんの木なんだってね」

 「……おう。」

 俺が教えた覚えはねぇから、話したのは親父あたりだろう。
 そう思いながら、屈んだままで花を降らす枝を見上げる。

 「でも、あたしは白い方も好きよ。
  目立たないけど、一生懸命咲いて薫ってるじゃない。
  お義父さんとお義母さんも、どっちも大事にしてるしね」

 こいつ、俺を子供の父親とは認めねぇとか言う癖に、親父とお袋はそう呼ぶのかよ。
 黒い髪と黒い目のガキが、俺を見て うききき と笑う。

 「……よう、ルフィ」

 屈んだまま息子に挨拶する俺の膝の上に、白い花が一つ降って来た。


    * * *


 大学を卒業して、俺達はようやく籍を入れた。
 それから何年か経ってもう一人男が生まれ、また何年かして女が生まれた。
 男二人と女一人。
 剣道に興味を示したのは、末っ子のアイサだけだった。

 竹刀を握らせて、気づくのに時間は掛からなかった。
 剣道場の娘に生まれた、剣道の天才。
 俺は、そういうのに縁があるらしい。

 相手の呼吸を、気配を、次の動きを読むという才能。
 本人にとっては、息をするのと同じくらいに当たり前のこと。
 凡人は、それを会得するのに何年、何十年の修行を積む。
 俺がそうであったように。

 だが、アイサは言う。

 「父ちゃんのようになる!」

 そして、小さな身体で毎日竹刀を振る。
 百回が二百回になり、五百回になり、一千回になり。
 両手に幾つものマメをこさえては潰して。

 「ルフィとチョッパ−が出て行ったら、この家に残るのって剣道馬鹿ばっかりじゃない」

 ナミは溜息を吐いて、橙色の頭を振る。
 アイサの髪は赤味の強い茶色だ。
 すっかり髪の白くなった親父は、縁側で盆栽の手入れをしながら言った。

 「アイサは、おばあちゃんに似ましたね」

 「くいなじゃねぇのか?」

 尋ねる俺に、鋏を入れる手を止めずに答える。

 「くいなは母親似でしたから」

 「まぁ、顔はな」

 「剣もですよ。くいなの太刀筋や足捌きは、たしぎさんの若い頃を見るようでした」

 俺は親父の顔をまじまじと見た。

 「……お袋は、剣道家だったのか?」

 初耳だった。
 俺に最初の稽古をつけたのは確かにお袋だったが、それは“嗜み”程度だと。

 「この道場の跡取りは、元々はたしぎさんでしたから。
  彼女は私より強かったんですよ。三本やって、さて一本取れたかどうか…」

 親父が婿養子なのは、知ってはいたが。

 「昔話はよしてくださいな。
  三本に一本なんて、学生時代のことでしょうに」

 茶を運んで来たお袋に親父は頭を掻きながら庭に下り、手入れの済んだ鉢を棚に戻す。
 お袋は、俺の横にも湯飲みを置いた。

 年中和服を着込んだお袋の身体には、肩から胸に斜めに走った縫い痕。
 ほんのガキの頃一度見たきりのそれは、今思い出すと刀傷に間違いなかった。
 その傷の所為だったのか、力の入りきらない腕で。それでも竹刀を置くことはない。
 今も剣道を始めたばかりの子供達に稽古をつけている。
 くいなも、俺も、アイサも。
 最初の“師匠”はお袋だった。

 「…なぁ、お袋」

 ふと、口をついた。

 「何ですか?」

 “婆さんになった”くいなは、きっとこんなだったろう。
 その顔を俺に向ける。

 「女ってのは、強ぇな」

 近眼に老眼の入った眼鏡の奥で、黒い眸が細くなる。

 「今頃やっと判ったのですか?馬鹿ですね、あなたは」

 そしてお袋は立ち上がった。
 湯飲みを手にした俺は、しゃんと伸びた背中に声を掛ける。

 「…なぁ、お袋」

 「まだ、何か?」

 「また、沸いてねぇ湯で茶を淹れてるぞ」

 「………え?」

 慌てて湯飲みを引ったくり、茶を淹れ直そうと台所へ向かう。
 廊下の角に姿が消えたとたん、 ガチャ−ン!! と派手な音。

 別にボケたわけじゃねぇ。
 お袋は昔っからこんなんだ。

 庭で親父が静かに肩を揺らしていた。


    * * *


 親父とお袋に習って、子供が生まれると道場の庭に木を植えた。
 長男だけは一歳の誕生日になったが、どうせならと食える実のなる木ばかりを。

 秋が深まると、家はやたら賑やかになる。
 今年はアイサが剣道大会の年少の部で優勝した祝いをするんで、尚更に。

 婿養子になって家を出た長男と義理の娘と、姓は違っても初孫と。

 「俺の柿、喰えるようになったか〜?サンジ、またケ−キ作ってくれな!!」
 「もう、ルフィさんったら!
  毎年沢山のお裾分け、ありがとうございます。
  ほら、おじいちゃまとおばあちゃまに、お礼を言いなさい」
 「たくさんたくさんたくさん、ありがと−ございます。(ペコリ)」

 医大の受験勉強中の次男と。

 「なぁなぁ、今年も栗のピラフ作ってくれるか?あとな、パイとプリンとアイスクリ−ムと…」

 来年から出場する大会は、少年の部と少女の部に分けられる長女。

 「兄ちゃんたち、イイなぁ〜。梨って、むいて食べるだけでつまんない」

 そして、何故だか腐れ縁が続いている“日本一の”クソコック。

 「いやいやアイサちゃん。
  梨はサラダにすると美味いよ〜vあと、コンポートとか、シャ−ベットとか〜vv」

 「何ハート飛ばしてんだよエロ爺」

 「爺はおめェじゃね−か!俺には孫はいねェ!!」

 「フン、羨ましいか」

 「なにをぉ!俺にだってなァ、長っ鼻に甲斐性がありゃあ、直ぐにでも孫の五人や十人…」

 「あんたら、何下らないことで張り合ってんのよ。
  …って、ウソップとカヤちゃん、そ−いうことになってんの?」



    金銀の花が散ったその後に
 
    豊かな実りの秋が来る。



                                          − 未完 −


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 ひとつなぎ番外編・ロロノア家の人々。
 十八で父親になった彼は、二十一で結婚してとっとと子供をこさえた長男のおかげで
 四十になったとたん“おじいちゃん”になったようです。
 ゆうさんの傑作長編「Sailing days」他を参考にさせていただきました。
 毎度ながら、すみません。

 ところで、柿と栗と梨って同じ頃に食べられるのだろうか?
 品種によって成熟時期も違うとは思いますが、無理っぽい気が…。(汗)

 (2004.11.28 文責/上緒 愛)