「行ってらっしゃい、菊にぃに。」
「行ってきます、。楽しんで来て下さいね。」
仕事に行く菊を見送ったあと、は朝食の食器を洗い始めた。
それが終わると掃除をし、そのあといつもならインターネットの日参サイト巡りをするが、今日は出かける用事がある。
スポンジに水を含ませ洗剤を付けさあ洗おう――とその時電話が鳴った。
慌ててスポンジを置き、濡れた手を拭いて携帯をとる。画面に表示されているのは“湾ちゃん”の文字。
「もしもし、おはようございます。」
『、ごめん!! 今日行けなくなったヨ!!』
「ええっ!?」
の出かける用事とは、実は湾とスイーツバイキングへ行くことだったのだが。
『台北で厄介な騒ぎが起こっちゃって抜け出せそうにないヨー!』
電話口の湾の声が止まると、かすかに遠くの方から罵声や叫び声が聞こえてくる。
には何を言っているかは分からないが台湾語も北京語も混ざっているようで、確かに厄介だ。
「うう……仕方ないです。」
は冷蔵庫に大事に貼られたクーポン券をちらりと見た。半額スペシャルの期限は今日まで。
『また今度絶対行くのヨ! その時はお詫びにおごるヨー。』
「気にしないでください。それより怪我とかしないようお気をつけて。」
電話を切ったが、食器洗いを再開する元気は湧いて来ない。誰か他の人を誘う、という手も考えたが。
「菊にぃにはお仕事…耀にぃにもお忙しいですし。ヨン君と香君は甘いものそんなに好きではないですし、ベルちゃんやエリザさんは家が遠いですし……。」
友人達の顔を思い浮かべるものの、誰一人として湾の代わりに行けそうにない。
「かと言って一人というのも……ああでも勿体ないです〜!」
よっぽど残念だったらしく、ついにはクーポンを手に持ちすんすんと泣き出した。
だがすぐに今度は家の電話が鳴ったため、急いで泣き止み電話をとる。
「もしもし。」
『お、その声ぁ嬢ちゃんかぁ? 俺だ俺、サディクでい。』
「サディクさん! こんにちは。菊にぃには今お仕事へ行っているのですが、何かご用事ですか?」
『あぁ、仕事か。いや、俺も仕事でこっちまで来たからよ、ついでに挨拶でもって思っただけでぃ。』
「そうなのですか……あのサディクさん、お時間があったらでいいのですが…………」
「おーい、嬢ちゃん! こっちだこっち。」
「サディクさん、お待たせしました〜!」
トルコには明日帰ると答えたサディクを、はすかさずバイキングに誘った。
彼女をも凌ぐ甘党サディクがその誘いを断るはずもなく。
「70分1500円か。俺ん家にもこういう店欲しいなぁ。」
「おしゃべりせず黙々と食べるのがコツなのです!」
店の内装やメニューを珍しげにじっくり見るサディクに対し、は早くも気合いを入れている。
「おしゃべりせず……かぃ。」
のことを気に入っているサディク的には、食べるだけでなくおしゃべりも楽しみたいところだが。
「わあ! サディクさん、冬季限定みかんクリームショートケーキですって! おいしそうです〜。」
“今日のオススメ”コーナーを見てうっとりしているを見ると、彼女が楽しいなら何だって構わん、という気持ちになってくる。
「ほら、早く席とって食べようぜぃ。時間勿体ねぇんだろ?」
「はいっ。」
「わ。サディクさん、これ美味しいですよ〜。チョコムースと生クリームがほわっととろけます〜!」
「何!? そりゃあ食うしかねぇな! こっちの和風あんこパフェも絶品だぞ!」
「あっ、それまだ食べてない! 後で絶対食べます〜!」
おしゃべりせず黙々と食べることに集中する――それは意外と難しかった。
甘党同士気が合う上に二人の性格を考えたら、まあ無理もない。
それでもかなり速いペースでそれぞれ目当てのスイーツを食べ尽くし、70分が終わる頃には心も腹も満足しきった。
「ふいー、食った食った。」
「お腹いっぱいになりましたねー。」
会計を済ませて店を出る。冬至が過ぎたとは言えまだまだ日の入りは早く、日中は暖かかった町もあっという間に冬へ戻る。
「半額だから750円か。台湾の嬢ちゃんにはわりぃが得したなぁ。」
何の気無しにそう言った後で、サディクははたと気付いた。
本来ならの隣にいたのは自分ではなく彼女の親友。
も自分だけが楽しんでしまったとでも思ったのか、少し笑顔が陰った。
「……なぁ嬢ちゃん、今度は俺ん家のうめえモン食べに来いよ。台湾の嬢ちゃんも誘ってよぅ。」
「え……。」
「二人で今日の礼と詫びでぃ、安くしとくぜ。」
「…ありがとうございます! サディクさん、お優しいです。」
この話の流れ的にもサディクの性格的にも、湾に何かせずにはいられない。
今日過ごした楽しい時間は、彼女のおかげで手に入ったのだから。
お人よし同士というイメージです。