「……やばいな、これは。」

ルネジムの事務室で、ミクリは彼にしては珍しく困っていた。

「ミクリさん、お先に失礼しますね。」

「……さん、ちょっと待って!」


彼女のために。


その日の業務終了後、ミクリはジムバッジを保管している箱を開けた。中身の確認のため。

「……は?」

中は空だった。

そばに置いてある“みずのはどう”の技マシンを入れる箱も開けてみたら、それも空だった。

つまり、次にルネジム覇者が現れるまでにそれらを用意しなければいけない。

ジムのメンバーは自分を含め簡単には負けを許さないが、それでもストックが全く無い今の状態は非常にやばい。

「今から急いでジムバッジを工場に受け取りに行って、その足でミナモデパートに……ああ、でも店が閉まらないだろうか。」

せめて誰かもう一人いたら、確実に両方行くことが出来るのだが。

「ミクリさん、お先に失礼しますね。」

そのとき丁度、たまたま居残っていたがミクリに声をかけた。

そしてミクリはにミナモデパートへ行ってもらい、自分はバッジ工場へ行った。


「ミクリさん、こっちです!」

「お待たせしました、さん。」

それぞれの用事を済ませた2人は、ミナモデパート前で落ち合った。

「技マシン50個です。」

は商品の入った紙袋をミクリに渡す。

「ありがとうございます、本当に助かりました。さんが居残っていてくれて良かった。」

ミクリは紙袋を受け取り、笑顔で言う。

途端にの顔がぽっと赤くなった。

さん、お時間大丈夫でしたら夕食ご一緒しませんか?この近くにおすすめのパスタ屋があるので、今日のお礼に奢らせてください。」

最上級の微笑みを浮かべ、ミクリは言う。

はますます顔を赤くしながらも、「申し訳ないです!」と断ったが。

「私が貴女に奢りたいと思っているのですよ。奢らせてくださいませんか?」

ここまで言われてミクリの誘いを断る女性はおそらくどんな世界にもいない。

は赤い顔のまま頷くことしか出来なかった。


「わあ、美味しい!すっごく美味しいです、ミクリさん!」

「そうですか、それは良かった。」

所変わって、ここはミクリ行きつけのパスタ屋。

は最初こそ遠慮がちだったものの、注文したイタリアンスパゲッティを一口食べたらすぐにいつもの笑顔になった。

ミクリは向かいの席に座り、美味しそうにスパゲッティを食べるを見、自分も笑顔でスパゲッティを食べる。

「ミクリさんはよく来られるんですか?このお店。」

が尋ねる。

「ええ、安いし美味しいのでね。それに雰囲気もいいですし。」

「本当ですね。」

心地いいBGMが流れている店内は落ち着いた照明が点いていて、テーブルの脇にはセンスのいい置物が置いてある。

いつまでもここにいたいと客に思わせてしまう雰囲気を醸しているが、時間はすでに夜の9時。

2人は食事を終え、外に出た。

「ありがとうございました、ミクリさん。奢っていただいて。」

「いえいえ、気を付けて帰ってくださいね。」

はボールからぺりーさんを出し、そらをとぶで帰っていった。

ミクリは彼女を見送った後、自分も家に帰ろうと歩き出した。

その時。

「あー、ミクリくーん!」

「きゃー、本当!偶然〜。」

語尾にハートマークが2、3個付いてそうな口調でミクリを呼ぶ2人分の声。

ミクリが振り向くと、声の主――知り合いの若いデボン社員達が寄ってきた。

「こんばんは。」

ミクリは笑顔で挨拶をするが、その表情はといたとき浮かべていたそれとは明らかに違っていた。

彼の両親はデボンの社員で、ミクリも何度か本社に顔を出している。

そしてそんな彼に一目惚れをする若い女性社員は数多くいる。

「最近、会社に来てくれないよねぇ、寂しい〜。」

「特に用事も無いのに部外者が何度も出入りするのはマズいでしょう?」

「そんなぁ、ミクリ君なら全然オッケーなのにぃ。」

――ああ、嫌な人たちに捕まった。

この2人はその中でも“よく言えば”積極的な2人で、ミクリは正直苦手なタイプだった。

「ねぇ、ミクリ君。さっき女の子と一緒にいたでしょ〜。あれだあれ?」

1人が尋ねてきた。

「うちのジムトレーナーですよ。」

「へ〜、でもぉ、仲良さそうだったよね?彼女じゃないの〜?」

「違いますよ。」

ミクリは笑顔こそ崩さないが、内心は2人を相当鬱陶しく、とにかく早く話を終わらせたいと思っている。

そのため質問の答えはかなり簡潔である。

「なあんだ、違うんだぁ〜。良かった〜。」

「ほらぁ、だから言ったでしょ。あんな子が彼女な訳ないって。」

「……え?」

最初にのことを尋ねた方の言葉に、ミクリの眉がぴくっと動く。

「だよね〜、あーびっくりしたぁ。」

「あんな子供みたいな子、ミクリ君には釣り合わないもんね〜。」

「本当本当〜。」

2人はそんなミクリの様子に気付かず、きゃはははと笑っている。

「……ですか?」

「え?」

ミクリの顔を見た2人から笑顔が一瞬にして消えた。

今まで彼女たちが見たことのない、怒りの表情をミクリは浮かべていた。

「彼女の何を知っているんだ、あなた達は。」

既に敬語を使うこともやめたミクリに、2人は何も言えずただその変わりっぷりに驚き、怯えている。

「よく知りもしない相手の事を悪く言うのは醜い行いだな、これ以上無い位。」

それだけ言うと、ミクリはその場を立ち去った。


(驚いた……。)

1人家に帰って思うのは、彼女たちではなくの事と、自分が彼女の事で怒ったということ。

ミクリはよっぽど気心知れた相手以外にあんな風に自分の感情をさらけ出すことは今まで無かった。

だけど、自分は怒った。のために。怒らずにいられなかった。

「……そうか、そうだったのだな。」

そう。

自分にとってが特別な存在だということを自覚した。

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