2003年11月11日(火)
ケータイを持ったサル 正高信男 中公新書

「何か」を知るためには、その「何かでないもの」を知らなければならない、という事がよくわかった。
今の10代の生態やそれを生み出してきた社会を、ここまで明確に分析できたのは、著者がサル学者で、サルと比較して、人間の社会や言語、群れの意味、などを考察してくれたからだと思う。
今のケータイを持った若者は"家のなか主義"の結果で、その元は母親が、子供に長期にわたって依存し、子供もそれに依存するという状況から出てきた、とする。社会性の無さが、仲間だけとの密な群をつくり、本来社会とのつながりを作るための言語が、サルのように、群のなかでの相手の存在確認のためのものに成り下がっていく状況を作る。
地面にすわるのはまさしくサルと同じで、靴のかかとを踏むのは、スリッパと同じく家のなかの心地よさを外まで拡大した結果だという。彼らにとっては、仲間(小学校の頃の関係が多い)以外はモノとされ、外で座りこみ、電車の中で化粧をすることに抵抗は無い。
ケータイを持ち、メル友が300人以上いる女子高生と、ケータイを持たない女子高生のグループに、相手の事を考えて取り引きすると儲けが増えるようなゲームをさせると、ケータイ族は相手を信頼することができない、という事が明確に現れている。子供を持たなくなったのは、子供という他者に対して全責任を負う重荷に耐えられないから、とも。
専業主婦は子育てに良くないとか、ユニークな視点が多く、すばらしい本。こういう視点から社会に対して警鐘を鳴らす、というのが人文系の学者の一つのあり方だと思う。