2004年1月7日(水)
教育改革の幻想 苅谷剛彦 筑摩新書

現在までやってきた教育改革について、1950年代からの学力調査や定量資料を用いて、いったい何をやってきたのかを論証している。
受験地獄と言われるようなものは実際にはほとんど無かったとか、子供中心主義の教育への憧れとか、さもありなん、という事が書いてある。
カリフォルニアでは、子供に自ら学ばせる、という改革を行った結果、全米で読み書き算数の成績がほぼ最下位になり、やり方を改めたとのこと。日本でも今のゆとり教育でできたゆとりは、ほとんどがテレビゲームの時間に消えていっており、ゆとりが基礎学力の向上につながっていないとの調査結果。
総合学習の時間というのは、結局は先生に丸投げで、評価方法や授業の方法論についての議論も無く、結局は遊びたい生徒は遊んでいる、という実態がわかる。
知識を詰め込む、ということがなぜ評判が悪いのかわからない。人間には文化が必要であり、教育とはレアな人間に文化をインプットするためのもので、それは人間が積み重ねてきた知恵や知識を与えることだと思う。知識を詰め込まないで、何を教えるのか?子供が自発的に何でも理解していくなら、学校の制度自体が要らないのではないか。学校とは知識を詰め込むためのものであり、その知識があるからこそ、生涯学習も可能になる。
「コンピューターによる情報探索の方法にどんなに詳しくなっても、そこで得た知識や情報の意味が理解できなければ、集めた情報は無意味である。しかも、問題が複雑になればなるほど、情報のありかを知るためにも、その問題をめぐる基本的な知識が必要になる。とりわけ、情報量が多くなればなるほど、どの情報が正しいのか、問題解決にとって意味があるのかを判断するために、周辺的な知識を含め、当該テーマに関する知識が不可欠になる。調べる方法さえ身につければだれでも問題発見・問題解決ができるということではない。集めた情報を理解したうえでの取捨選択が不可欠になる以上、ここでも基礎的な知識の有用性は否定できないのである。」
加えて言えば、知識の量や質で問題意識の量が決まり、問題意識が無ければ、そもそも何を調べたらいいのか、調べた結果をどう発展させればいいのかもわからない。
小中高のある時期、知識の詰め込みをすることは悪いことではなく、子供の自発的な学びに期待するのは間違いだと思う。