2004年8月14日
日本がアメリカを赦す日 岸田 秀 文春文庫
岸田秀の文庫が出ていたので、久しぶりに買った。
書かれている内容は、昔書かれた中公文庫の「ものぐさ精神分析」の中の、歴史を精神分析するという部分を詳しく書いたもの。特にアメリカと日本の関係についてまとめている。

十数年前に偶然本屋で見つけた「ものぐさ精神分析」はすごく示唆に富む本だった。シリーズで3冊あって、いずれも通勤電車の中で何度か読み返したおぼえがある。
この人も僕にとっては先生といえる。

この世界の成り立ちを、すごく簡単な言葉で合理的に説明してあり、納得させられた。目から鱗が落ちるというヤツである。
人間が、他の動物と異なっているのはただ一点、「本能がこわれている」という事であり、そこからスタートして人間界の様々な事象を全てこの一点から説明していく。本能がこわれているから、現実との適応ができず、幻想の中に生きなければならなくなったのが、この人類である。
人間だけがなぜ笑うのか?という事に対して、納得のいく説明をしてもらったのも岸田秀であった。

ご本人は、自分はフロイトが言ったことを読み解いただけ、というような事をどこかに書かれていたが、精神分析という手法を使って、様々な事象に対して納得性のある説明をし、それをフロイトの時代から現代に結びつけた功績は大きいし、現代日本を代表する思想家と言ってもいいのではないかと思う。

ということで、この本だが、現在の日本とアメリカの関係について考察されている。
第1章の書き出しが、「そもそも近代日本はアメリカの子分として出発しました。」である。
ペリーの来航によって無理やり開国させられた、というのが日本側のトラウマであり、先住民であるインディアンを虐殺したが、それを隠そうとしているのがアメリカ側の自己欺瞞である。そのために、何かが起こったときに、日本もアメリカも合理的な行動ができなくなる(神経症的な症状が出る)という事を、近代史をたどりながら説明していく。
歴史の部分はひと言では説明できないが、非常に面白い。
世界史をこのような観点からたどっていくような本は、岸田秀しか読んだことがない。
もっとこのようなアプローチがあってもいいと思う。

日米関係について、日本はアメリカの子分、という考え方に反発のある人もいるかもしれないが、個人的にはそれでもいいと思うのだが・・・。
メリット・デメリットを考えた上で、合理的判断に基づき、明快に「子分」と認識できればいいのだが。国民の総意としてそうはならないだろうけど。

本の中で岸田秀らしいと思うところを少し長くなるが、引用する。
プライドについてと、教育について書いてある部分である。

 人間が生きるにはプライドが必要です。なくてもすむが、あった方が気分もいいし、あるに越したことはないという程度の贅沢品ではありません。人間は、本能が壊れている動物ですから、本能では生きられないので、生きるには根拠が要るのです。ネコやライオンやシカは生きる根拠なんか要りませんが、人間は、自分には生きる価値がある、自分は生きるに値する、自分の人生には意味があると信じられないと生きてゆけません。プライドとは生きる根拠、価値、意味を与えてくれるものです。

 人間は本能が壊れた動物だと、僕はかねがね主張しています。本能というと、「やりたいことは何でも勝手にやろうとする盲目的衝動」というふうに解されているようですが、それは、壊れた人間の本能のことで、壊れていない動物の本能には、他の動物と不必要な争いはしないとか、みだりに他の動物の領分は侵さないとか、集団のルールを守るとか、一定の時期に一定の方式でしか性交しないとか、人間の世界でなら「道徳」とか「規律」とか言われるものも含まれているのです。そうでなければ、動物だって自然環境のなかで生きてゆけません。言わば、アクセルだけでなく、ブレーキも本能のうちなのです。人間の本能が壊れているというのは、ブレーキも壊れているということです。人間の「道徳」や「規律」は、人為的な作り物であるだけに、動物の本能的な「道徳」や「規律」ほど当てにはなりませんが、そういうわけで、人間は、文化として人為的に「道徳」や「規律」をつくらざるを得ないのです。
 本能によっては他の人間と関係をもつことができず、社会を形成できない人間は、教育によって、そういうことができるような人間にするしかないのです。人間の本能には欠けている「道徳」や「規律」を教育によって個人に叩き込むしかないのです。人間の「子供の無限の可能性」を信じて「ありのまま自由にのびのびと伸ばしてや」れば、何をしでかすかわからない、とんでもない怪物にしかならないのはわかりきったことです。「道徳」や「規律」を欠き、自閉的、自己中心的で、他の人たちのことなど眼中にない人間になるのは当然です。
 したがって、教育によって、「道徳」や「規律」を叩き込まなければならないのは明らかなのですが、ここに大問題があります。どのような「道徳」や「規律」を誰が叩き込むかの問題です。教育を担当する人たちは支配者の側に立っていることが多いですが、ともすれば彼らは、支配者に都合のいい「道徳」や「規律」を、子供自身のことはないたしろにして無理やり叩き込もうとします。そのような権威主義者教育の弊害はご存じの通りです。しかし、その逆の「ありのまま自由にのびのび」の放任主義教育の弊害も今や明らかになっていると思います。
・・・(中略)・・・
 そもそも、文部省の統一見解か、日教組の全国大会か、何が何かは知らないけれど、これが正しい教育のあり方だという一つの基本方針をみんなで決定し、それを全国に通用させようという発想が間違っているんですよ。それぞれの教師が一人々々、自分がいいと思う理念にもとづいて、そしてその上で、その理念を人には押しつけないこと、その理念に反対する者を攻撃しないこと、同じ理念を持っている者同士が徒党を組まないことなどを条件にして、それぞれの生徒を教育すればいいんですよ。それぞれの教師が自分でいいと思う理念の一つ一つは、それぞれ自分で考えたものであるかぎり、実に千差万別でばらばらでしょうが、全体的には偏りと偏り、極端と極端、プラスとマイナスが中和されて、程よいところに収まるものです。愛国主義でもいいし、共産主義でもいいし、天皇主義でもいいし、自由主義でもいいし、平和主義でもいいし、放任主義でもいいし、軍国主義でもいいし、個性主義でもいいし、民主主義でもいいし、権威主義でもいいし、主義などもたぬ主義でもいいし、何でもいいですが、ただ、そのどれか一つを選んで正しいとし、みんな一緒にこれでゆきましょうというのだけはよくない。何主義であろうと、主義とかイデオロギーとかはすべて幻想です。すべて偏っていて、ひとりよがりです。何らかの主義を信じている者は勝手にその主義を信じていればいいのであって、その主義を普遍的に正しいとし、それをみんなに強要すれば、それ自体はどれほどすばらしい立派な正しい主義であると思えようと、悲惨な結果にしかならないことは歴史が証明しています。教育を権威主義で統一するのも、自由放任主義で統一するのも、何か一つの主義で統一したということによって決定的に間違いなのです。

だいぶ長くなったが、要するに、作者はこういう人です。
同時代にこういう人がいてよかったと思う。