ダイヤモンド社という出版社は、以前教材をしつこく電話勧誘され、こんな出版社の本は二度と買わない、と思っていたのだが、新聞をみて面白そうだったので、今回だけは買ってしまった。
原題はTHE GEOGRAPHY OF THOUGHTとなっており、思考の地理ということになるが、これは西洋(主にアメリカ)と東洋(主に東アジア・・・中国、韓国、台湾、日本など)で、世界を認知する方法がどのように違っているかについて、指摘し、検証した本なので、そういう題名になっている。
副題に、思考の違いはいかにして生まれるか、と書いてある。まずは、本の題名の訳に感心。「木を見る西洋人 森を見る東洋人」とはうまく意訳してある。これなら、言いたいこと、書いてあることがすぐにわかるよな、という感じである。
この手の本は、なるほど、と思った所に線を引いて読むのだが、この本は今までで一番線を引いた場所が多い。
作者は心理学者であるが、中国人の生徒から「中国人はこの世界を円だと思っていて、西洋人は直線だと思っている」という指摘を受けるまで、世界中の人間の認知はみんな同じだ −つまり、世界中の人々が、この世界に対して、同じような捉え方をしている、ということ− と思っていたとのこと。(このことが既に西洋らしい、と言える。)
この中国人の生徒の一言から、ニスベットさんはこの本を書くのだから、良い生徒は良い先生を産む、という事だろう。実際、この本の中の実験の部分は、東洋人の学生の協力によってできたものらしい。
日本人である僕らは、世の中そんな単純なものではなく、いくつかの原理で説明できるなどという事はない、という直感を持っていると思う。色々な要素が絡み合っており、こちらが正しいときもあるし、あちらが正しい事もある、という感じである。(そんなことはない、という人もいるとは思うが)
そして、真実は、その中間あたりにあるだろう、という感覚を持っており、敢えてそれをつきつめて証明しようとはしない(というか、そんなことは証明できないし、それを証明して何になる?という感じ)のが一般論としての世の中の捉え方のような気がする。
まさに、この本の中で、東アジアの人たちの考え方として上記のような事が言われている。こういう事をちゃんとつきつめて説明する、という行為そのものが西洋的であり、それはすごいことだと思う。
作者は西洋の思想のルーツを古代ギリシアのアリストテレスにとり、東洋には中国の孔子をとっている。それらを分析した後で、中国人とギリシア人について、以下のように書いている。
「中国人は、すべてのものが根本的には互いに関連しあっているという確信をもっているがゆえに、対象物が文脈に応じて変化することを当然だと考えている。対象物をカテゴリーに正確に分類しようとしたところで、それはたいして出来事を理解する助けにはならない。カテゴリーや規則で対象物を理解したり制御するには、世界は複雑すぎるし、込み入りすぎているのである。」
「一方のギリシア人は、過度にものごとを単純化しがちであり、ありもしない対象物の特性をもち出すような怪しい説明にも満足してしまう傾向があった。しかし彼らは、対象物に規則を適用するにはまずそれを分類する必要があることを正しく理解していた。規則というのは、それが広い範囲の対象物に適用できる限りにおいては便利なものである。そのためギリシア人たちは、規則の適用範囲を最大限にすることができるよう、常に高いレベルの抽象化を行おうという思いに駆り立てられていた。」
西洋人と一緒に仕事をしたことがある人なら、この分析を見て、そやそや、と頷くのではないか。
自分の経験からは、「あんたの言うてることは正しいけど、世の中そんな簡単なもんやないやろ」という事を、西洋人にたいして何度となく思ったし、その考え方の違いがよく説明されていると思う。
本の中では、この後西洋的な自己と東洋的な自己とか、社会の成り立ちの違い(西洋は相互独立・低コンテクスト、東洋は相互協調・高コンテクスト)に進む。色々と興味深い実験結果が示されるが、一つ紹介すると・・
7歳から9歳までのアメリカ人、中国人、日本人の子供に、文字の並べ替え問題をさせると、アメリカの子どもは自分で課題を選択する条件で最も高い意欲を示し、お母さんが選んだ課題だ、と言われたときに最も意欲が低い。アジアの子どもは、お母さんが課題を選んだ、という条件で最も高い意欲を示した。というようなもの。
また、西洋の討論の伝統は文章技法(レトリック)を発達させ、アメリカ人は科学論文の文章技法は、検討されるアイデアの概要、関連する基本的な理論の説明、研究の仮説、研究方法とその正当性についての記述、その方法論によって得られた証拠の提示、証拠が仮説を支持する理由についての考察、別解釈の可能性の再吟味、その論文の内容を包含するさらに広い枠組みに関わるコメント、から成っておりこれは大学院生になると第二の天性、といえるほどになるとのこと。
そんなもん、習ったことない、というのが日本人であろう。
また、日米の歴史の授業の違いとして、日本では出来事の関係を重視し、「どのように(how)」という質問がアメリカの教室の2倍なされる。アメリカの教室では、歴史の文脈の設定には時間をかけず、まず結果から入り、ある出来事がなぜ起こったのかという原因を考えさせるため、「なぜ(why)」という質問が日本の2倍多く発せられる・・というような面白い事例も出てくる。
一番興味深かったのは、第6章で、 世界は名詞の集まりか、動詞の集まりか というセクション。
以前から、言語によって人間は考え方の制約を受けており、話す言葉の構造が違えば考え方も異なり、言葉によって世界を切り取る、切り取り方もかわるのではないか、と思っていたのだが、それが説明されていて、個人的にはここが一番読んでいて楽しかった。
西洋人は世界を分類してカテゴリーに分けること(対象物の世界で育つ)が習慣であり、カテゴリーとは名詞で表されるものなので、西洋人の子どもが名詞を覚えるスピードは動詞よりも速い。東洋人は、分類よりも関係の世界で育っているので、名詞と同じ早さで動詞を覚える、という事実。
英語は主語主体の言語であり、日本語は動詞が中心的位置(述語主体・・・述語という概念は英語には無いのか?)に来る、という違いがあり、主語は名詞であり、それはモノゴトそのものをあらわし、述語はものとものの関係をあらわす、という事で東西の世界に対する認識の違いは、ある程度言語と関係がある、という結論。
これらは長年の疑問が解けた、という感じだった。
もちろん、言語だけではなく、文化そのものの差はあるという結論だが。
長くなったが、この本は僕にとっては本当に面白かった。
東西の世界に対する認知を分析し、こういう本を書くという行為こそ、西洋人の最も得意とするところだと思う。その文化に敬意を表すると共に、正しくもあり、正しくもない、というような東洋的な場の考えもこれからの世の中に必要だ、という事も理解できた。(量子力学には東洋的な考えが必要とのこと)
世界の見方について知りたい人、外国人はわけのわからんやっちゃと思っている人、言葉と文化について興味のある人、仕事で外国人とつき合う人・・などにお勧めします。
読書メモのようになってしまった。
けど、色々な人種の人がいるアメリカだから、こういう研究ができるんだろうなあ。
この延長で、中近東の考え方についても分析すればいいのではないかと思うのだが・・。
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