人は誰も時代というものを超越して生きることはできないし、良かれ悪しかれ、その時代の影響を受けているものだと思う。だから、人間のものの見方の物差し(=価値観)には、時代による目盛りが付けられるのはやむを得ない。だから現代の社会を考えるときには、現代に占める割合が一番多い団塊の世代がどのような時代を過ごし、価値観を持っているのかを考えてみたいと思い購入。
今の日本はいったいどうなっているんだろう、という事から、この本を読んだ。
この本は、団塊の世代をちょっと後から見て、彼らが持つ自意識に焦点を当てて書かれている。
団塊の世代、と言われても何のことか・・?という人のために書いておくと、序章の部分に団塊の世代に関する定義が岩間夏樹という人の本から引用されており、それによると、
「団塊世代は狭い意味では、昭和二十二年から二十四年(一九四七年 − 一九四九年)生まれの約八百万人をさす。しかし、その世代文化の拡散範囲から見れば、昭和二十年代生まれの約二千万人と考えてもよいだろう。彼ら団塊世代は、かなり共通するライフコースを歩んできた。 (戦後若者文化の光亡 団塊・新人類・団塊ジュニアの軌跡)」
と書かれている。
作者は現職の高校の先生。1954年生まれというから、団塊の世代の尻尾、というところか。僕は作者より3年後の生まれなので、ポスト団塊という事になる。(ということは、三無主義・・・無気力、無関心、無責任 の時代になるのか)
この本では、団塊の世代を大きく4つの側面から捉えている。一つ目は彼らが受けた戦後民主主義教育の観点から、二つ目は最もよく語られる部分だろうが、学生運動の観点から、三つ目は主として1970年代の音楽(フォーク)や世相から、最後に団塊の世代を主人公にしたマンガ(課長島耕作)や小説から、という構成である。
序章の中に既に結論がまとめられている。作者の持つ団塊の世代に対する問題意識は、戦後、自我は解放されたが、その行き場所を無くしてしまったのが彼らだ、という事になる。そこを引用すると、
「人間である以上、自意識はいつの時代にもあったろう。ただし、状況とどうしてもうまく折り合うことができない、必ずしも大きいとは言えないが、時には自分でもてあますタイプの自意識が、一握りの有閑階級や知識階級を超えて一般的になったのは戦後ではないだろうか。
つまり、戦後自我は解放された。しかしこの世の現実がそれに合わせて完全に変わったわけではないので、結局新たな自我は落ち着き先が見つからずに苦労してしまう。そうまとめてもいいような場合が広範に見られたということである。
純粋戦後生まれ第一世代である団塊の世代は、その後の世代に比べて、非常に幸運でもあり、裏返すと非常に不運でもあった。学生の一部は「連帯」と「闘争」の果てに世界と直接対峙する自我の姿を見る思いにもなれたろう。そうでなくても、高度成長期には、「消費する自我」=金さえあればなんでもほしいものが手に入るはずの自我を多少は実感したろう。自我の拡充をどこまでも許しそうな現実が待っているかのような夢に少しは酔えた、ということだ。
それは幻想だった。となると、もう自我はどうしたらいいか、皆目見当もつかない。もっと悪いことに、この問題をどう語ったらいいのか、そもそも言葉が見つからない。私が全共闘世代を批判するとしたら、この点をおいて他にはない。彼らは社会主義のたてまえを語るのに慣れすぎた。自分たちの問題を自我のそれとして考える習慣を残さなかった。そういうものは七〇年代も終わり近くになってから、三田誠広(一九四八年生まれ)や村上春樹(一九四九年生まれ)の文学の中におずおずと登場したにすぎない。
あとは、「自分探し」というような、多くの場合揶揄の対象となった形で、自我の追求(「自分を生かす」というような)がある程度試みられはした。笑われるのも無理はない。現実に自分にとって都合のいい場所が用意されている、なんてあるわけない。個人の自我が「生きる」かどうかなんて、他人にとってはいつだってどうだっていい問題である。だいたい、あなた自身が他人の自我などには可能なかぎり無関心ではないか。我々は、大人になる過程で、いつかはこのことを学ばなければならないのだろう。
(中略)
たとえば、大東亜戦争の責任を誰も取ろうとしない、とはよく聞く。では、六〇年安保闘争や全共闘運動の責任は誰がどのように取ったのか、このような問いかけが発せられたこと自体、私は寡聞にして知らない。もし、そもそも責任なんか取れない戦いであり、運動だったというなら、そのこと自体を総括して(連合赤軍事件のおかげで、この言葉は七〇年代のワルノリ雰囲気の中で、よくネタにされた)せめてものおとしまえにしようと、誰も考えなかったのだろうか。
そうだとしたら、そんな奴らが歳だけは五十を越えて威張っているのは、やっぱりよくないと思える。」
長くなったが、僕は序章の作者のこの言葉が、この本のすべてを表しているのではないかと思う。
第二章の、学生運動に関して書いているところでは、知的誠実さを持った学生もいた、という事をことわった上で、全共闘時代をふり返っている「全共闘白書」の中の座談会の部分を引用して、そのあまりの脳天気さにあきれつつ、作者は、
「結局、観念が異様に肥大して現実喪失に陥るのが「全共闘の可能性」のうち最大のものだと思えるから、我々を初めとする次世代は継承しようとしなかったのである。なるほど、我々にとっても、たぶんその後の若者たちにとっても、現実はつまらない。あるいは「現実はつまらない。つまらないとやる気が出ない。だからやる気を出すなら現実なんかに目覚めないほうがいい」という裏のメッセージを発して、後の世代にまで悪影響を与えたのが全共闘世代で、もしそうならそれこそ最大の罪だと思う。この中のごく少数のグループが観念の空転を極限まで演じて見せて、やっぱりこれはまずいんだよ、と教えてくれたのが最大の功績だろう。」
と、まとめた上で、全共闘で指導的立場にいた人は、「かつて自分たちが何をしようとして、何ができなかったのか、できるだけ客観的に」語り、後の世代まで伝える責任があるだろう、と言っている。
実際に、あの運動は継承されなかったし(逆に、全く継承しなかったので、三無主義と言われたのか?)、今にして思えば、すべきではなかったとも思う。
僕は高校時代は心情左翼だったが、大学ではノンポリで、だいいちあまり学校にも行かなかった。でも、学生時代にはまだヘルメットをかぶって、角材を振り回しているセクトの人たちはまだ大学にいた。立て看も多かったし、特徴的な右下がりの字で、「日帝」(日本帝国主義のこと)や「革命」などという文字がそこら中に見られた。
全国的に学生運動はもう下火だったし、ベトナム戦争も終わっていたし、闘争というと「学費値上げ反対」ということが一番覚えている事だ。
確かに、同年代でヘルメットをかぶる仲間に入った人は誰もいなかったと思う。
「ようやるなあ」、という思いと、「やっても何もかわらへんやろう」という思いはあったと思う。
だから、作者の言うところにはうなずける。
第三章の「若者として歌う」という章では、フォークソングの流れをたどって世相と若者の考え方を分析し、最後に同棲という社会現象に触れて、
「同棲は男女の新しい生活の形だ、などと言う人もいたが、実際に同棲によって結婚という古いしきたり+に反逆しているのだ、などと信じ込んだ奴がいたとしたら、そいつは本当の馬鹿である。」
と断じている。続けて、
「自分には何ができるかわからない、何もできないかも知れない、が、せめて可能性だけは信じたい、その可能性が実現しやすくなるために、できるだけ身軽でいたい。心の底でそう思っていた人も多かったろう(し、今も多い)。というか、誰かの夫・妻・父・母になってしまえば、その分だけ自分の可能性は現に局限される。これがどうにもいやなのだ。自分にはそんじょそこらのおじさんおばさんよりもっと輝かしい人生があるのではないか、ないなんておかしいじゃないか。戦後の民主主義と消費社会は、こんな傲慢な考え方を自然にする自我を育てたのである。」
と言うが、その後作者は、自分にも身に覚えがあり、この本を通じて自己批判しているのです、と書いている。
僕にも身に覚えがあり、手放しで戦後の民主主義と消費社会を批判はできないが、今なら作者の言うことはもっともだと思う。
結局序章にあったように、自由が一人歩きし、落ち着き先を失ったために、自由とセットになっている義務とか責任とかいう事が、語れなかったままになっているのかもしれない。
最後の章で、作者は教師としていじめについて意見を言っている。
「教師として一応断っておきたいが、生徒の人格を認め、生徒の言い分にも耳を貸すようになればなるほど、一般に学校はいじめなどを止める力は弱まる。強制力がないのだから、いじめている・いじめられている事実を白状させることも、いじめている方を脅してやめさせることも、容易ではなくなるのだ
それでも私は子どもでも年齢に応じた人格を認めるのは当然だし、よいことだと思う。が、それにはリスクが伴うことも覚悟してください、と言っているのだ。限度を超えたいじめ、例えば長期間執拗にいやがらせをされたり、金を脅し取られたような場合には、りっぱな刑事事件なのだから、相手が子どもであっても遠慮なく警察に届けてください。やったことの責任をきっちり取らせるのもまた、「人格を認める」ことの一部である。」
ということで、作者は団塊の世代に呼びかけて、「あなたも私も大人になることを拒否した世代なのだ。経済的にならともかく、精神的に楽隠居なんて考えるのは、いくら何でも図々しいと思うよ。」と言い、続けて終章である「日暮れて道はなく、課題はある」となる。
そして、最後に自分も含めて、まだ平均寿命まで時間はあるのだから、「じっくり自分の心と記憶に向き合って、意識的無意識的に置き忘れてきたことを明らかにすることぐらいはできそうではないか。その結果若い世代が呆れて、ああいうふうにだけはならないようにしようぜ、と思うなら多少は年長者としての責任を果たしたことになると思う」と締めくくっている。
読んでいて耳が痛い部分もたくさんあったが、団塊の世代の尻尾にいた作者であればこそ、ここまで書けたのではないかと思った。
本当に団塊の世代の人たちは、この本を読んでどう思うのだろうか。
45歳以上くらいでないと、この本を読んでもピンと来ないような気はする。
団塊の世代とはどんな考え方を持っているのか、というような事を知りたい人にはお勧めします。
(あんまりいないと思うが・・・。)
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