「勝ち組」大学ランキングを書いた著者が、国立大学の法人化について書いた本。
国立大の法人化について、経緯や現状を知りたい人には良い本だと思う。しかし、ある程度、大学についての予備知識がないと、いきなりこの本を読んでも分からない部分も多いと思う。
著者はあとがきの中で、
「大学とは不思議なところだ。科学の最先端を担っている一方で、精神的な闇を抱えているように思われる。」と分析した上で、「今求められているのは、こうした「闇の世界」の悪霊祓いであり、「陰陽師」のような役割だろう。さらに、「媒介者」として、大学と文科省の間、さらに両者と国民の間の橋渡しをすることだ。誤解や偏見を避け、できるだけ内部の事情を明らかにしながら、大学問題を語ること、それは利害関係を持たない大学外の人間によってしかできないだろう。
わたしのような門外漢が、こうした本を書くのはそのためである。誰かが問題提起をしなければならない。そう考えて、あえて本書を執筆した。・・」
と書いている。
この本では、国立大の法人化実施への流れを解説した後、法人化の今後を占うために、30年前に新構想大学として設立された筑波大学の「挑戦と挫折」について分析している。さらに、文部省支配から自ら抜け出すために、いち早く民営化を検討した東大医学部の事例を紹介し、文科省と国立大の関係、国立大学協会の無為無策、東大のすごさについて、色々な人からの取材にもとづいて書いた上で、最後に文科省と経産省との関係について述べている。
僕はもともと大学の授業にはほとんど出ず、専門は課外活動だったので(あの頃はそれでも4年で卒業できた)、大学の教育をとやかく言う資格はないと思うが、この本を読むと現在の大学が抱えていた問題がよく分かる。
本の中から抜粋すると、
「国立大学と文部省の関係は、長く「甘ったれ坊や」と「過保護ママ」の関係だった。」
「大学人は大学を自分たちのものだと考えている。大学の自治と称して社会からの干渉を嫌う。働いても働かなくても給与が出る。研究費もある程度は保証されてきた。大学人の多くは、こんな良い環境を変えるのは嫌だと心底思っている。それゆえ、組織内の融和を最優先し、意志決定には満場一致を求める。」
「・・アメリカと日本では研究者の姿勢に、プロとアマチュアほどの差があると感じていた。典型的な競争社会と「ぬるま湯」社会。それが競争すれば、どちらが勝つかは明らかだろう。個人の問題ではなく、制度の問題だった。」
「・・つまり日本の国立大学ではマネジメントがない、管理運営ができないのが根本の問題です。例えば、学部、学科の統廃合ができない。アメリカでは、社会が必要とする学科とそうでない学科で給与に十倍の差があります。日本では年功序列で給与も決まっており、人事評価ができない。例えば学長の給与は、国立大学の格で決まっていて、評価されることはない。信じがたいシステムなのです。」(これはノーベル賞を取った江崎玲於奈の話)
「本来、筑波の「新構想」が前提としたのは、どのようなものだったのか。それは内部対立をオープンにし、その対立の意味を明確にした上で選択し、その責任をとっていくような意識・精神だ。西洋型の精神構造だし、今では「選択」と「自己責任」として、少しずつ理解されてきている内容だ。
一方、日本の大学という「村社会」では、対立を避け、根回しが重視され、「全会一致」が原則になる。そこでは「私は知らなかった」「私は知らされていなかった」ということが重要な意味を持つ。そういう人がいれば、その決定が無効になるのだ。内容の是非よりも、構成員が「知っている」ことが重要なのだ。それは「情報公開」による選択権の保証ではない。研究者としての特権意識、誇りが傷つけられなければよいのである。だから、根回しによる「全会一致」が原則になるのだ。日本での「相互に対等・平等」や「自他への干渉を排する」とは、こうした意味になっている。」
「○三年秋に,、各国立大学は、それぞれの中期目標・中期計画(案)を文科省に提出した。原案で何をどう書くかは大学の自由のはずだが、○二年末、大学側の求めで文科省が書式のモデルを示した。「A4版横長用紙に横書きで、おおむね一○〜二○ページを目安に」とある。「教養教育の成果」「卒業後の進路」「授業形態、学習指導法」といった七八もの記載例が並ぶ。
またも、幼稚園児への手取足取りだ。しかし、このワークシートがなければ何も考えられない大学が多いのが実情なのだ。」
「文科省はどんどん小さくなっていく。こうした流れにあって、国立大学が自立していかなければならないことは当然のことだし、教育委員会が、各学校が自立するのも当然のことだ。国立大学だけが「甘ったれ坊や」なのではない。マスコミと国民の意識もまだまだ遅れている。一番遅れているのは教員や組合や教育学者たちかもしれない。「ゆとり教育」での文科省バッシングを見ているとそう思わざるを得ない。言うべきことは「文科省は何もするな」である。「何かしてくれ」では断じてない。本来の裸の王様に戻ってもらうこと以外に、求めることはないはずだ。
中央の行政機能は、地方に移っていく。文科省から教育委員会へ。そして教育委員会から学校へ。横並びの終わりであり、選択中心の社会への転換だ。」
「公立校の教員は、公務員である。国立大学の教員も国家公務員である。しかも教育公務員という特別職で給与面でも優遇されている。そのことにどれだけの人が意識的なのだろうか。
東京都が入学式、卒業式での国家国旗問題でゆれている。公立校の教員に対する都教委の「強制」が問題になったのだ。そして、反対派の教員は「教員の思想の自由を守れ」と言う。しかし、彼らは、自らが教育公務員であることをどう考えているのだろうか。法律や条令や学校の規律を守ることを、公務員の義務と考えていないのだろうか。それがいやならば、なぜ公務員を辞めないのだろうか。法律を守れない教員が法律や校則について教えられるのだろうか。
私は生徒に対して国旗国歌を強制することに反対である。また、都教委の教員への対応が適切とも考えない。しかし、教育公務員に対しては、自らの立場の自覚のなさに憤りを覚えるのだ。・・」
「今回、独法化反対の議論で、その独立行政法人という名称の「行政」という部分への反発はすごいものがあった。大学は教育・研究は行政ではない、そう言うのだ。しかし、彼らは公務員型を要求し続けたのである。彼らは「行政」「公務員」の概念をどう考えているのか。国大協や調査検討会議の場で、一度でもこうした議論が行われただろうか。」
実際の独法化は始まったばかりだが、横並びではなく、何がしたいのかを明確にして選択に任せる、というのが進むべき道のような気がした。
まだまだ難しい。どうなっていくのか・・・。
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