団塊の世代についての本を何冊か買ったときに、その前の世代のことも気になったので、アマゾンで「昭和ひとけた」で検索したらこの本が出てきた。1988年第一刷である。当然、新品は無く、古本を購入した。
作者は昭和3年生まれで、関西の繊維関係の商社マンであり、自分のサラリーマン人生を綴っている。
僕のオヤジは昭和2年生まれで、同じく関西の繊維関係の商社マンだった。読んでみたら、オヤジの会社も本の中に何度か出てきていた。去年の2月に亡くなったが、その数日前に病院に泊まりこんだ時に、夜中にうわごとで、「在庫をチャッチャと掃かな、具合悪いで」というような事を言っていたのを思い出した。同じ時期に関西の繊維商社で働いていたのだから、似たような経験をオヤジもしていたんだろうと思いつつ読めて、個人的にはすごく興味深い本だった。
繊維業界は戦後の日本を外貨獲得で引っ張り、繊維商社は隆盛を極めたが、だんだんと人件費の安い国に追いつかれ、規制もかかり、オイルショックの不況で再編を余儀なくされた、という歴史であることがよくわかる。
今は日本の輸出というと自動車(今や輸出というよりも海外生産だけど)だが、僕の生まれた昭和30年代末までは繊維の景気が良かった時期である。イケイケで商売してきて、息をついたのが昭和40年に入ってからであり、作者の会社が事実上潰れて、他の商社に吸収されてしまう。作者はその時は海外勤務であったが、その地で会社を離れ、別の商社に転身する。空港での別れの場面は、一生懸命会社のために働いたサラリーマンならわかる、短いが感動的な場面である。
自分は会社を見切って、別の会社に行くために帰国する。気がつくと、支店長と同僚が空港に見送りに来てくれていて、自分は交わす言葉を見失ってしまった。涙を喉元に抑え殺してゲートに行き、機内に着席したとたん泣いてしまう、という場面である。17年間勤めた会社と永久に別れる、という感傷がひしひしと伝わってくる。
その後、別の商社での苦労と成功が語られるが、またしても昭和50年に第一次オイルショック後の不況が来て、またもや作者の転身先の会社が潰れてしまう。このときは、作者も責任ある立場として、部門の社員の面倒を見つつ人員削減もして、結局残ったメンバーで、部門ごと別会社に移る、という苦労の話となる。
僕のオヤジの会社も同じような時期に経営不振になり、銀行と繊維メーカーから人が来て、大変だったということを聞いたことがある。人員削減もやったようだった。こういう本を読むと、もっとその話を聞いておくべきだったと思う。昭和ヒトケタはあまり仕事の事を家では話さないのか・・・、この本にも家族のことはほとんど出てこない。
また、海外駐在時代に知り合ったカナダ人セールスマンとずっと仕事上のつきあいを続けてきたが、彼の突然の訃報を知らせるテレックスを見て、呆然となる場面など、作者のサラリーマン人生の機微を感じることができる。
僕が生まれたのが昭和32年。この本によると、昭和30年から36年、37年にかけての神武景気と岩戸景気の好況期にあたる。このころはまだ戦前の良き時代の名残をとどめていた、とのこと。「戦前の良き時代」という言葉はめったに聞かないが、いつの時代にも良いところ、悪いところがあり、戦前が一概に真っ暗な時代だ、などという事はないと思う。以下引用すると、
「三十年に入ると、民衆の生活も住は未だしであったが、衣・食には潤いが見られるようになり、三十一年の流行語、<もはや戦後ではない>という言葉の重みも、肌で理解できるようになった。
悪夢のような戦前、戦中の恐怖と圧迫、そして悲惨きわまりない戦後の荒廃と困窮からようやく解放されたという実感を、誰しもがしみじみと味わった。ある意味では、昭和の時代の最初にして最後の、つまりその後の高度成長によって完全に失われた、戦前から引き継いだ日本的な良さを最大限享受した時期だったかもしれない。
時流の変化もまだ先鋭化するに至らなかった。もちろん、変化への土壌は着々とはぐくまれ、台頭しつつあったが、目を見張らせるような技術革新、経済構造の変革はまだ表面化せず、古い時代の、良い意味での悠長さ、呑気さといったものがたぶんに生きていた。・・・」
作者の言う日本的な良さというのは、時間の流れがゆっくりしていた時代への郷愁、といった意味合いでその後の文章が続く。
経済成長によって新幹線や高速道路ができ、各地に空港ができ、テレックス、ファックス、インターネットや携帯電話といった通信機器の革新が起こる。それらが物理的な距離と時間をどんどん縮めていき、忙しくなっているのが現代だろう。
昭和30年当時、大阪から西脇までの出張は一泊の出張だったとのこと。今なら高速道路で1時間程度だが、当時は山陽本線で加古川まで行き、そこからローカルの加古川線に乗り換え、ゆうに3時間はかかったらしい。隔世の感である。
このころのアルバムの写真はみんな白黒であり、道路はまだ舗装されていないところが多かった。親戚のおじさんが車に乗ってくると、珍しくて、運転席に座らせてもらったものである。(三菱コルトだったと思う。)うちに白黒テレビが来たのが、昭和37年くらいだったかな。それまでは「白馬童子」を見るために、近所の家に行っていた。ラジオドラマで、「一丁目一番地」というのをやっていたと思う。飲むと舌が真っ青になる粉末のソーダの素をよく飲み、10円で7個買えるたこ焼きを食べていた。たしかに、今に比べるとのんびりした時代だったのかもしれない。僕にとっても、古き良き時代だ。何も考えなくても生きていけた(幼稚園や小学校の低学年だから当たり前か)。
話がそれたが、昭和ヒトケタとはどんな世代だったんだろうか。
作者が感じている昭和ヒトケタ観を終章から抜き出してみる。
「変化の少ない時代に生をうけ、育ち、社会生活を過ごした人たちは、おそらくは私たち昭和ひと桁世代がいたく感じるような、恐怖に近いおびえを抱くことはないであろう。彼らは、働くだけは働いた、楽隠居とまではいかないまでも、それに近い精神的なゆとりを持っているように思われる。しかし、昭和ひと桁の人間にはそれがないのだ。旧来のしきたりと、新たな断絶の世代との谷間に残され、精神的にも拠りどころのない、中途半端な境遇に置かれている。これは、昭和ひと桁生まれの人間につきまとう宿命とでもいうべきものかもしれない。
いわゆる昭和ひと桁の人間は、受難の世代に生まれ、閉ざされた環境のもとで育ち、自意識らしいものが芽生える頃には、戦火に追われた。そして戦後は、まず道徳観、価値観の逆転に戸惑い、物質的にも窮乏のどん底へと投げこまれ、それをやっとくぐり抜けて、当時の荒廃しきった社会へと巣立った。彼らの社会生活は雑草のように根強く、日本経済の復興に、後ろも見ずに駆けずり回る先兵として生き抜いてきた。その意味では、昭和ひと桁の人間は、「幼少期に注ぎこまれた”天皇陛下のおんために”、”お国のために”という精神徳目は、希釈されることなく幼い精神に凝着したのであろう。このことが、後年、国の再興のためにという精神徳目となり、ひいては”会社のため””仕事のため”と、モーレツぶりを発揮する素地となったのでは、と思えてならない」(辻川泰「火宅の住人」東明社)という指摘は正しいといえるであろう。」
同じく、あとがきから、
「昭和ヒトケタ世代は、良きにつけ悪しきにつけて、一つの時代をかたちづくり、また、「がめつさ」と「哀愁」の二つの顔を持ったかつての昭和ヒトケタ世代「戦士」も、いまや「老兵」です。しかし、彼らが今日の経済大国を双肩に担ったという事実は後世へも語りつがれるでしょう。」
この本は今から16年前に書かれているのだから、今では昭和ヒトケタ世代は75歳を越えている事になる。
ただ、この本が書かれた頃はバブルのまっただ中だったから、今作者がふり返ると、もう少し違った自己評価になるような気がする。今なら、昭和ヒトケタに続く世代が頼りなく思えるのではないだろうか。
戦中、戦後に青春を過ごし、価値観がひっくり返ったり、貧しい時代を通り抜けたりしたが、日本の高度成長をかたちづくったのは昭和ヒトケタやその前の世代の人たちであり、戦前の教育を受けた人たちであったと思う。
そこには”天皇陛下のおんために”、”お国のために”というような、「・・・のために」という、社会における絶対的な尺度・指標があった事が戦後との一番の違いのような気がする。(この事の善し悪しは別として)戦後にも平和とか平等とかいう絶対的な善はあるが、それは日本人が自分で勝ちとったものではなく、現在に至ってもまだよく分かっていないもののような気がする。
もう少し昭和ヒトケタについて調べてみたい。
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