学生時代から生物は好きだった。去年新聞の書評に出ていて、ぜひ読みたいと思って買ったが、なかなか手がつかず本棚に置いていた。表紙がドイツのフランクフルトで出土した始新世(4千万年〜5千万年くらい前)のクイナ(鳥のように見える)のきれいな写真で、見るからに重々しい装丁の本である。面白いが内容が濃くて、そんなに早くは読めなかった。その上何やかや仕事も忙しくて、更新ができなかったが、ようやく読み終えることができた。
著者は大英自然史博物館古無脊椎動物部門主席研究員という肩書きのリチャード・フォーティ博士という人である。原題は"LIFE:An
Unauthorized Biography"。
地球が誕生し、生命が発生してから40億年の歴史が、著者の解釈によって書かれている。
第1章は、著者が21歳の時に古生物学者として、初めて調査に行った北極圏のスピッツベルゲン島で、未発見の三葉虫の化石を見つけるところから始まる。
一通り、北極圏での探検が語られた後、著者は、
「そこで私は、自分流の独特なやり方で、数十億年におよぶ生命の歴史を語ろうと思う。重要な出来事を網羅するとなると、簡潔にまとめあげるのは不可能だ。なにしろ、あまりにも多くの歴史があるし、物語の筋は、そのなかで何をとりあげたかによっても決まるが、何をとりあげなかったかによっても決まるからだ。」
と述べ、生命の歴史を語る上で、ある程度人間的なものの見方を加える事は仕方ないことであり、また、不確かではあるが、生命の起源にほど近いところから始めて、時間を追いながら現代に向かうやり方を採用する、と言う。
「私が関心をもつ物語は、太陽が水素を燃やして輝きはじめたときから膨大な時間が経過した後の話であり、人間が土器をつくりはじめ、神殿を建て、粘土板に日々の取引の詳細を記録するようになるよりは前の話である。それにしても十分に長い。」
という言葉で第1章を締めくくっている。
第2章は地球の始まりからの話である。僕は地球は最初から青い惑星だと漠然と思っていたが、誕生の経過は激しいもので、ひっきりなしに隕石が衝突し、表面は熱くどろどろに溶かされていたとのこと。
生命の誕生を可能にしたのは、誕生後まもない地球に衝突した隕石であり、そこに炭素が含まれていたからではないかと書かれている。また、地球には大気と水はあったが、当時はそれらの元になったガスと水蒸気が、できたての地殻から噴出していた、とある。
さらに、太陽と地球の距離が、炭素や水や窒素、その他の元素から生命体の構成素材を自然合成する化学反応が起こせる、ちょうどよい距離だったこと、地軸で回転しているおかげで、太陽にずっとさらされずに済んだことなど、何かが一つでも違えば生命の誕生は無かった、という事だろう。
それにしても、どうやって生命が誕生したのか?
その謎は解かれていないようだが、推定される原始大気(酸素は含まれていなかった!)中に稲妻の代わりに放電すると、生命の元になる有機化合物が生成された、という実験結果があり、おそらく、何億年かの間に、何億分の一かの確率でしか起こらない化学変化が運よく起こり、生命が誕生した、という事になっている。
そのギャンブルはたった1回だけしか成功しなかったらしい。その理由が書かれている。
「細菌からゾウまで、すべての生物は、分子レベルでは同じ特徴を共有していることである。つまり、すべての生物を結ぶ共通の糸があるのだ。・・・中略・・・この驚くべき事実は、明白な結論に帰結する。生命の発生は容易なことではなかった。エネルギーを失うのではなくとりこむ自己複製系にとっては熱力学の法則が不利にはたらくことを考えると、生命の発生はおよそ勝ち目のないギャンブルだったにちがいないのだ。もしかりに生命の発生がそれほど困難ではなく、何度も起こっていたとしたら、一部の生物はその他の生物とは別の水たまりの泥から発生したことを示す証拠が残っているはずである。ところが現実はそうではない。遺伝子を構成する分子を調べても、すべての系統は一つの共通の祖先から別れたことを示す証拠しか見つからない。」
ということで、「無生物を生物に転ずる生命の火は一度、たった一度だけ火花を散らした」という事になる。
アンモニアやメタン、水蒸気がうずまく原始の地球に、何億年かの間に数え切れない稲妻が落ちたであろうが、その中のたった一度の稲妻によって、今の地球上のすべての生物が生まれた、という事を考えると、何とも言いようのない神秘的な気分になる。
40億年前の稲妻と、今の自分がつながっているのだから。
最初の部分の紹介が長くなったが、著者の博学多識と、時には科学的に、時には叙情的に語られる生命の歴史はわかりやすく、興味深い。ふだんなじみのない古生物学という学問を通して、地球と生命について考えさせられる。
35億年前には、直径数千分の一ミリの光合成細菌が孤軍奮闘し、それぞれ一生の間に一兆億個もの小さな酸素の泡を吹きだしたのである。(一つの細菌の寿命は一日以下。)
それが10億年くらい続いて原始大気を今の酸素のある大気に変えたとのこと。そして、30億年前くらいには、今の大陸の元になる一つの陸地ができたらしい。
地球上には最初から酸素があったと思っていたが、それは光合成細菌が長い年月をかけて作ったとは・・・。
この部分には「世界を変えた小さきものたち」という見出しがふってあった。
この章の終わりは
「最初に塵があった。そしていつの日か、生命という奇跡のような壮大な実験も、再び塵に帰ることだろう。われわれは不変の存在ではない。われわれの存在の究極の原点が、太陽の誕生や小惑星の衝突、隕石の落下などと密接な関係をもっていたように、現在のわれわれも、地球をとりまく宇宙と今なお深い関係にある。藍藻は酸化型大気という保護層、広大な宇宙に対する薄いバリヤーを形成した。その外被の向こうには、想像を絶する広大な宇宙空間がある。これから見ていくように、広大無辺の宇宙は、過去にその破壊的な力をときどき地球に向けて行使した。いつの日か、再びそのような事態が、地球上の生物を一掃するほどの規模で起こらないともかぎらない。しかし、将来どんな小惑星が地球に衝突しようとも、やがて噴気孔や熱水噴出孔ができ、原始的な細胞があざやかな粘液で再び地球を彩るような日がきっと訪れるだろう。たとえ複雑でエレガントな生物たちがよみがえることはないにしても。」
と締めくくられている。この2章が40億年の生命の歴史のうちの35億年である。
ここから先は、カンブリア紀とか、オルドビス紀という古生物学で使われる区分名で歴史は進んでいく。全てを紹介しているときりがないが、第6章では、地球の緑化が語られる。これはオルドビス紀(5億年前)にようやくオゾン層ができて紫外線の有害な部分が取り除かれたおかげであり、また30億年の光合成細菌のおかげでもある。
デボン紀(4億1000万年前〜3億6千万年前)には陸上の動物の形態変化が成就する。
第7章は石炭紀(3億年ちょっと前)である。陸地に森が出現し、巨大な昆虫や大ヤスデなどが森を歩いていたらしい。巨大化の原因として、この時期には酸素の生産量が物質の酸化によって固定化される酸素の量をはるかに上回っていた、という説があるそうだ。
この章で、グラスゴーのヴィクトリア公園が紹介される。この公園には地下の岩盤層まで続くロックガーデンがあり、ここは石炭紀の森の林床が掘り出されたところとのこと。
「しばし足をとめ、その巨木が繁栄していた時代から、自分が立っている現在までの三億年という時間の隔たりに思いを馳せてみよう。そしてさらに、それらの木々の前には、先カンブリア時代の海辺の片隅にいた最初の光合成生物へといたる系譜があるということについてもじっくり考えてみよう。これは感傷的なたわごとではない。現実に存在した実体のある過去のみごとな断面なのだ。・・・中略・・・かたわらで見ていると、過去との交信ができないまま、「化石の森」を素通りしていく見学者がけっこう多い。二〇世紀の人間は説明過多のせいでなまくらになり、驚くべき対象を前にしても素直に反応する能力を奪われてしまったのではないか。
現代はむしろ、どのように感じ、どのように考えるべきかを教えてくれるビデオが好まれる。コンピューターグラフィックなどで石炭紀の消えた森を再現することは可能だし、それはヴィクトリア朝の展示スペースに鎮座している白っぽくて冷たい化石よりもずっと本物らしく見えることだろう。しかしその類の映像は、スイッチを切ったとたん印象が薄らいでしまう。事実までもが、虚構と混ざり合い跡形もなく姿を消してしまう。なればこそわれわれは、ケルヴィングローブ公園の「化石の森」のように、堅固な石と化した事実の前に向き直るべきなのである。」
たしかに、マルチメディア、コンピューターの進歩であたかも本物のように見えるものが作られ、それが興味と理解を高めるのは事実だと思うが、博物館で実物を見たり、活字で読んだりする方が記憶に残ることも事実。化石を追い求め、分析し、過去を調査してきた古生物学者らしい素晴らしい言葉だと思う。
でも、本物に感動するにはそれなりの意識や知識が必要だと思う。情報過多の世の中で本物を見つけるのがどんどん難しくなっている。くだらない情報が多すぎてそれらを選別するための教養が必要とされている時代が現代ではないか。
長い引用になるが、第8章に大陸移動説に関して、古生物学者の科学の中での位置づけについて書いてある。
「どんな世界でもそうだが、科学にも直線的な順位がある。この順位はもちろん公式のものではないが、科学者ならば誰もが自分がはめ込まれている位置を自覚している。階級の最上位に位置しているもっとも頭の切れる選り抜きの科学者とは、理論物理学者たる数学者である。この図式を定着させたのは、それまで曖昧模糊としていた物理法則を神業のように解明してみせたアイザック・ニュートンである。現代でいえばアルバート・アインシュタインがその原型であり、リチャード・ファインマンもこの系統に属す嫡子である。
(中略)
そのちょっと下に位置するのが物理学や化学の実験化学者である(当節は生化学者もここに入る)。彼らは、理論屋さんたちの夢を実験的に検証する立場にある。かつては、実験に明け暮れするそのような魔術師めいた人物には、貴族でもあった化学者ラヴィアジェのように、どこかしら近づきがたいところがあった。豪奢ではあるがすっかり荒れ果てた館の誰も近づかない棟に隠遁して実験にふけり、反対の棟では錯乱した叔母たちが夜ごと叫び声をあげているといったイメージである。しかし今や彼らの立ち居振る舞いはすっかりビジネスライクになり、賢明な科学行政官然としてたくさんの研究助手からなるチームを率い、最新技術に何百万ドルもかけて、ライバルを出し抜こうと配下の研究者に発破をかけている。彼らの研究対象は、素粒子、遺伝子、ウィルスなど、その時々の話題の的ならば何でもござれだ。理論屋も創造的な実験屋も、ノーベル賞の候補となりうるし、その死亡記事は一流紙で大々的に扱われる。地質学の野外研究者でそれほどの名声を達成する者は、まずいないだろう。
「大陸移動派」対「反大陸移動派」をめぐる物語は、野外研究者が理論物理学者に勝利をおさめた数少ない例の一つである。(古生物学者の全員が「善玉」だったという色分けは不当である。なにしろ、最後まで頑なに反大陸移動の論陣を張った御仁のなかには、古生物学者であるイェール大学教授の故カート・ティーチャートもいた)。有力な物理学者たちは、氷河が残した石や特徴的な化石といった証拠の数々を何十年にわたって無視しつづけた。」
地道に世界各地の化石を集め、特徴的な地層を調査してきた古生物学者たちの言うことが正しかったのである。著者がこの順位について真剣に書いているわけではないと思うが、地質学の野外研究者の置かれている位置というのは業界の中では高くないのだろう。
生物の系譜を過去からたどることで現在を変えられるわけでもないし、それ自体新しいものを生みだすものではないと思うが、世界を認識し、構成するためには歴史が必要であり、生命の歴史は重要なものである。現在は遺伝子などの情報からたくさんの事が分かるようになってきたが、この本を読むと古生物学者がいてくれて良かったなあと思えるようになる。好きでなければできないし、古生物学を理解してそれに金を出してきた国家もえらいと思う。
(ただ、この大陸移動説にはオチがあって、プレートテクニクス理論によって古代に大陸が一つであったという事を最終的に証明したのはコンピューターであり、その主役は数学になってしまったとのこと。)
2億5000万年前のベルム紀末と今から1億年前に二度起こった大絶滅は第8章で語られる。ベルム紀末の絶滅は「地球を襲った前代未聞の大虐殺」であり、それが「現在の世界を支配している動物の大多数が登場するきっかけとなった」とのこと。ただ、この絶滅が何故起こったのかはまだ分かっていないらしい。
第10章では恐竜の絶滅の原因について書かれている。この白亜紀末の大量絶滅時期の事をK・T境界と呼ぶらしい。Tは第三紀(Tertiary)、Kは白亜紀(Cretaceous)を意味するCをギリシア語(kreta)のKで置き換えたもの。K・T事件直後の海が奇妙なほど貧相だったことは明白であるとのこと。それくらい、この絶滅はすごかったらしい。
この絶滅の原因は何なのか?それはウォルター・アルヴァレズが決定的な証拠を見つけた事で明らかになった。彼は、1970年代の末にグッビオの地層にイリジウムの放射性同位体が含まれているかどうかを調べたのだった。その結果、K・T境界の薄い粘土層の中のイリジウムの濃度が、その周囲の地層と比べて著しく高いということが分かった。イリジウムは地球の表面ではかなり希少な元素だが、隕石中にはかなり高濃度で含まれているらしい。K・T絶滅は巨大な隕石の衝突によって引き起こされた激変、というのが今の有力な説になったのだ。(反対している人もいる)
隕石の大きさの推定は直径9キロメートルくらいとのこと。
この人は別にK・T境界について調べていたわけではなかった、というのが科学の面白さだろう。
ディープインパクトのような隕石衝突の映画があるが、このように活字で書かれた物語で読んだ方が恐ろしい。
第11章が哺乳類、第12章が人類、という順序で現代に近づいていく。
第12章で、ミトコンドリア・イブ(全ての人類はアフリカの一人の女性につながる)の話も出てくるが、解析方法に不備があることが指摘され、「アフリカのイブ」説は否定されたとのこと。ふ〜ん、そうだったのか。夢のある話だったのに、残念。
ただ、アフリカに住む人々の間に見られる遺伝的変異は、それ以外の世界中に住む人々の間に見られる遺伝的変異よりも大きいという事実があるとのこと。これはアフリカの集団が一番長い歴史をもっているという証拠となる。「カラハリ砂漠に住む人々が、少なくとも遺伝的な変異の測定値が語る範囲では、いくつかの点で現生人類の「根源」と思われるものに一番近い」らしい。
最終章である第13章は、「偶然の力」という見出しになっている。
その2ページ目に地球上で生きのびてきた生命について、次のように書かれている。
「本書では四十億年におよぶ生命の歴史をたどってきたわけだが、それは無限に可能な選択肢のうちの一つにすぎない。その一本の道にしても、繰り返し登場するテーマは、さまざまな程度での幸運だった。恐竜が死滅した時期を生き延びた動植物に繁栄をもたらしたのは、絶妙のタイミングで遺伝子にちょっとした変化が生じたおかげというわけではなかった。かれらはその時点ですでに、生存に必要な資質をそなえていたのである。そして、これもまた、別の幸運である。白亜紀末、恐竜やアンモナイトを絶滅させた危機が襲ったとき、小さな温血哺乳類と鳥類が昆虫やモクレンといっしょに生き延びたのは、最後の瞬間に生き残るためのうまい方法を工夫したからではなく、生き延びるための装備をすでにそなえていたからなのである。カンブリア紀に登場した動物のなかのあるものは不運にも絶滅し、子孫を残さなかった。偶然にも生き残り、それらがそなえていたデザインを子孫に伝えることに成功したものが、その後の動物がたどる経路を決定した。大陸塊もまた、きまぐれに地殻上を漂移し、離合集散を繰り返したことを思い出そう。どんな動物がいつどこでどの大陸塊に乗っていたかを決めたのも、偶然である。南極大陸がパンゲアから分離して南極点に向かったことで、その上に乗っていた陸上動物は死滅する定めとなった。化石は乏しいが、南極大陸が氷床でおおわれる前のそこには哺乳類がいたことがわかっている。むろん、突然変異はたくさん生じた。気候が寒冷化した時点で、動物が耐寒性をもたせるような突然変異もあったはずである。しかし、血も凍りつくほどの極寒のなかでは、少々の耐寒性などしょせんは無力だった。そんな大陸にたまたま乗り合わせたのが不運だったのだ。」
と語り、生命が目的論的に進化したのではなく、全ては幸運によってそうなった、という事を述べている。自然に勝つことは所詮できないのだ。幸運な生命だけが結果的に残った、ということだろう。
ただ、人間のみが変化に対する影響を予測できる、という事が今までの生命との相違点だ、とフォーティー氏は言う。
この壮大な物語の締めくくりは、
「人間が賢明に振る舞うことを期待しよう。偶然に翻弄される運命の歯車も、われわれの運命を左右するだろう。火の玉が落ちるかもしれないし、気候変化は必ずや起こるだろうし、前例のない事件だって起こりうる。それでもおそらく、生命はなんとか対処してゆくことだろう。」
となっている。
大作だったが、すごい本だった。
自然科学は面白い。
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