2004年12月3日
41歳からの哲学 池田晶子 新潮社
本屋でパラパラと見て、面白そうだったので購入。
ソクラテスシリーズ3冊と「14歳からの哲学」を読んだが、この人はすごい人だと思う。言ってることは一貫し ているし、本当に真剣に考えていると思う。(哲学者にこんな事を言っては失礼か)それが文面から伝わってく るし、短い文章のなかに作者の気合いのようなものを感じる。久々にこの人の本を全部読みたい、と思わされる人に会った。

内容は週刊新潮に連載しているものを集めたもの。テーマごとに章立てして編集してある。
第一章が「平和なときでも人は死ぬ」で以下「いったい人は、何のために何をしているのか」、「考えることに終わりはない」、「なぜ人を殺してはいけないのか」、「信じなくても救われる」と続く。

この人の本を読むと、「考える」という事の難しさを思い知らされる。
何か問題があって、「ちょっとこれ、考えといて」などと言いつつ他の誰かに頼んだり、「考えてみましたが・・・」などと言って何かを発表したり、「考えたらわかるやろ」などと人に突っ込みを入れたりする事は、誰もがやっていることだと思う。
でも、実際、「考える」とはどういう事なのか、考えれば考えるほど難しいと思うようになってきた。「考える」ためには、時間が要る。考える対象に対して、継続して意識を持ち続けないといけない。

課題に対して、「・・・と考えます」「考えたんですけど・・・」などというが、今までそれに対して考えたことないような対象に対しては、時間をかけないと考えることなど出来ないと思う。
「考える」、というのは継続して問題意識を持ち続けること、という定義をすると、実際には自分が「考えている」と思っていることのほとんどは、本当の意味で「考えて」いることではない。「ちょっと思いついた」程度の事だと思う。今まで考えたことのない対象に対して、「よし、考えてみよう」などというのはお手軽すぎるのではないか。(対象にもよるが)

継続した問題意識の果てに、いつか「わかった」と思える日が来て、そうなってこそ「考えた」という状態になるような気もする。

実際、凡人である僕らには、生きている間に「考える」事ができる時間はそんなに多くないし、そんなにたくさんの「考える」対象を持つこともできないんだと思う。最近になって、この本に書いてあるように、「考える」事の大切さが少しはわかったような気がする。

考えるのが難しいからこそ、哲学者という商売が成り立つんだろう。

学生時代に、「考える人」の彫像が教科書に出ていた。当時は「何やこれ」と思っただけだったが、今になって思うと、あの彫像は「考える」事の難しさ、深遠さを表していたのかもしれない。

前置きが長くなったが、こういう本を読むと、こういう風に考えるのか、と気づかされる。

イラク戦争で、ネット上で反戦の声を上げた若者たちを見て、「うーん、そういうことではないんだなあ」と痒くなるような感じがした、と書いている。その感じはすごくよくわかる。
同じ時代に、同じ地球上で、戦争が起こっているというのに、何もできない自分に無力感を覚える、と言っている彼らに対して、

「・・・つまり彼らは、無力感を覚えるというまさにそのことによって、戦争を他人事だと思っているのである。自分のことではないと思っているのである。しかし、戦争が起こっているこの地球のこの時代を生きているのは、まさしくこの自分である。なんで他人事みたいに無力感など覚えていられるものだろうか。
 戦争を子供に教えるために、といった意見も聞かれたが、これも変である。戦争を生きている人は、戦争を生きるしかない。そんなものを教えて教えられると思っているのは、戦争を他人事だと思っている人だけである。
最後には、反戦の声など無力だという自嘲ともなっていたが、これは仕方ない。声すなわち言葉というのは、こういった考えを伴って、初めて力となるものだからである。
 そんなふうに考えると、人というのは案外に呑気なものである。何もできない自分に無力感を覚えるほどに、暇なのである。自分の人生を他人事のように生きているから、そういうことになるのである。・・」

出会い系サイトについては、

「出会い系にせよ、ネットチャットにせよ、なぜ人は、さほどまで他人を必要とするものだろうか。「人とつながりたい」「自分を認めてもらいたい」というのが、ハマる人々の言い分である。しかし、自分を認めるために他人に認めてもらう必要はない。空しい自分が空しいままに、空しい他人とつながって、なんで空しくない事があるだろうか。人は他人と出会うよりも先に、まず自分と出会っていなければならないのである。まず自分と確かに出会っているのでなければ、他人と本当に出会うことなどできないのである。」

厳しいコメントだが、そうなんだろう。まず自分について考えることが大事なんだろう。

デジタル放送に絡めて、テレビという媒体については、

「あるいは内容のあることを述べている場合もあるかもしれない。しかし、次々に変わってゆく映像は、人に考える暇を与えない。人は、考えるためには、一度は必ず映像を離れる必要がある。一方的に映像を受けとる習慣は、考えるという人間を人間たらしめている根幹の部分を、気づかず摩滅させるのである。・・」

これはそう思う。僕も最近テレビを見る時間はかなり減った。
考えるためには、時間が必要、という事であり、垂れ流しの情報を止めないとダメという事だと思う。

乞われて田舎の中学校の純朴な学生に対して、話をしに行った時の事にからめて、教育についても書いてある。

「言うには、我が校の生徒はこんなふうだから、町の学校へ行くと、感化されて、たちまちに悪くなる。そうでなければ、外の風に耐えきれずに引きこもる。高校側は、免疫をつけてきてくれと言う。馬鹿を言うな。悪く教育しろと言うのか。
 悩みは深い。この世の中である。あの子供たちに未来はない。それで、「哲学を」ということだったらしい。私は納得した。つまり、外的状況に動じない、強い精神に鍛えたいと。
 その通りです、それこそが哲学の身上です。私は同意した。昨今の教育現場の風潮、何を勘違いしているのか、「よのなか科」?商売の仕方や金のもうけ方を、早いうちから教えることが子のためだなど、驚くべき勘違いである。世の中のことは、世の中に出てから覚えればよろしい。世に出る前には、世に出る前にしかできないことがある。それが、考えることである。徹底的に考えて、自分の精神を鍛えておくことである。その過程を経ることなく、世に出てしまった大人たちを見よ。世の状況に左右され、フラフラと動じてやまないではないか。それが見事な証左ではないか。・・」

以前、高校生に勉強に対するモチベーションをあげるためには、自分が何になりたいかを話し合うことが有効と書いてある本を読んだときに感じた事と同じである。ここで言われている通り、若い時には、その頃にしか考えられないことがあって、将来何になりたいかというような具体的なことより、自分は何ものか、というような事を考えるべきだと思う。

食の安全について、起こっている騒動については、

「そも食べ物に感謝することを忘れたということ自体が、こういった騒動の大本ではなかろうか。牛だって鶏だって生き物だから、殺されて食べられるのはイヤである。しかし生き物は互いに食べ合って生きているものだから、その意味でそれは仕方ない。「仕方ない」という、こちらの側の、このイヤな気持を、ではどうするか。
 だから感謝するのである。私が生きるための食べ物になってくれてありがとう。「ありがとう」、言うだけではダメである。それは証されなければならない。証しとは何か。決まっている。よい人間になることである。よい人間、真っ当な人間として、生きることである。そうでなければ、私が生きるために殺される他の生き物たちに、申し訳が立たないのではないか。・・・」

この部分には感動してしまった。こんなことは幼稚園で習ったハズなんだけど・・。

長くなるが、もうちょっとだけ。
携帯電話についてのところで、言葉について書いている。この部分は作者の気合いがすごく感じられるくだりである。
電車のなかの広告に、「その一言が、たった五円で」というのがあったのを見て、言葉に対して値段をつける行為が始まった事と、値段が安くなると、それをありがたいと思わなくなる、という事を言った上で、

「自分で金を出して買う物、一般商品の場合ですら、人の心はそのように動く。値段がその物の価値なのだ。それなら、もともと値段のついていないもの、金のいらないタダのものを、ありがたいもの価値あるものと、思うことなどあるわけがない。金のいらないタダのもの、誰もが持ってる普通のものの筆頭が、すなわち、言葉である。日々話されるこの言葉、これが価値だと知っている人など、きょうびいるものだろうか。
 言葉なんて、タダだし、誰でも使えるし、世の中は言葉だらけだし、なんでそんなものが価値なのだと、人は言うだろう。しかし、違う。言葉は交換価値なのではなくて、価値そのものなのだ。相対的な価値ではなくて、絶対的な価値なのだ。誰でも使えるタダのものだからこそ、言葉は人間の価値なのだ。安い言葉が安い人間を示すのは、誰もが直感している人の世の真実である。安い言葉は安い人間を示し、正しい言葉は正しい人間を示す。それなら、言葉とは、価値そのもの、その言葉を話すその人間の価値を、明々白々示すものではないか。
 だから人は言葉を大事にするべきなのである。そのようにして生きるべきなのである。自分の語る一言一句が、自分という人間の価値、自分の価値を創出しているのだと、自覚しながら生きるべきなのだが、こんなこと、きょうびの人には通じない。・・・(中略)・・・五千円、五万円だろうが、必要な言葉は、必要なのである。
価値ある言葉に、値段はつかないのである。常にそのような自覚によって、言葉を語る人生と、そうでない人生とでは、その人生の価値は、完全に違うものになるのである。」

これら以外にも少年犯罪についてとか、遺伝子、自殺、宗教など、面白いテーマがたくさんあります。
きりがないから、このあたりでやめておきますが、この人はすごい。
凛とした思想家というか、言葉に強さ、切れの鋭さを感じる人である。
この人の本を、しばらく読み続けることにしよう。

池田晶子、「41歳からの哲学」お勧めです。
でも、この本に書いてあることが本当にわかるためには、もっと考えないといけないとも思います。