2004年12月19日
事象そのものへ! 池田晶子 法藏館

池田晶子の本が面白かったので、アマゾンで探して購入。
1991年の本で、著者が30歳の時に書いた本。

昔から哲学関係の本を、わかりもせずに題名に惹かれて読んできたが、読んだだけでほとんど理解できなかった。読んでいるときは何となくわかったような気もするのだが、到底わかったと言えるレベルではなく、その証拠にほとんど内容を覚えていない。
日本語で書いてあるのに、何で全く理解できないのか、不思議であるが、それでもわからぬなりに読んでいれば、少しはわかるようになるのではないか、と思っているが、ぼちぼち諦めた方が良いのかもしれない。

久しぶりのその手の本だった。
14歳からの哲学、41歳からの哲学、ソクラテスシリーズを読んで、この人はわかりやすい、と思っていたが、やっぱり「考える」人の考えていることはすごい。
日本語で書いてあるのに、わからない。

いつかは、こういう事もわかる日が来るだろう、と思ってきたが、残された時間も減ってきたし、これからそれほど理解力が進歩するとも思えないし・・・。
それでも、この人の考えていることを辿りたいと思う。
何度か読み返せばわかるようになるのか。

「事象そのものへ!(Zu den Sachen selbst!)」という題名は、「現象学の唱道者フッサールによる合言葉ですが、彼の生涯の情熱と覚悟とは、この一語に尽きていたと私には思われるのです。」とのこと。

本の中身は、

序 哲学への開放 「知識人」批判から
T 事象そのものへ!
   存在の律動  [論理]
   清冽なる詐術 [詩]
   未知への帰還 [科学]
   変幻と貫くもの[心理]
   発現する消失点[神]
U 応用編
   非−女権思想論
   禅についての禅的考察

という見出しになっている。
章立てを見ただけでも、難しそうでしょう。

序の知識人批判の中で、柄谷行人(この人はソクラテスシリーズでもやられていた)の事を批判して、

「人生に意味はないと言うための百万言ならば、「知識人」たちの仕事とは、何という徒労だろう。「意味」という病からは逃れられても、「意味という病」という意味からは逃れられないのだ。彼らの認識はいつも、無限にそこへと接近するが、決してそこへは到達しない漸近線の奇跡を描く。なぜか。「死」という原点から、それらが照射されないからだ。知識人たちの認識を通過しなくても、私たちは死ぬことができるという健康な事実を忘れているからだ。こういった事態こそが、最も強大な「意味という病」ではなかっただろうか。私たちに必要なものはいつも、生(ある)と死(ない)の存在論だ。「人生」のこの構造が変わらない限り、思想に前線も銃後もありはしない。」

ここはまだ前後を読むと少しは理解できるところ。
この序章の最後の部分に作者の哲学に対する決意と思えることが書いてある。

「私たち生まれてきたものは、死ぬまでは生きてゆくしかないのだろう、先に死にゆくものたちを、こころの隅で見送りながら。ただそれだけの事実の、何がいったい、こんなにも悩ましく私たちのこころを追い詰めるのか。そして、追い詰められたこころが、追い詰められたそこに、責めるべき何をも、祈るべき何をも見出し得なかったとき、再び自身に、生滅する一切に、添い続けようとする以外の何が残されているだろう。哲学は構築されるのではない。感受したものを問うことだ。夢を見るように問い続けてゆくことだ。たとえそれが、あの至高点に消え果てることが既に知られているとしても、私たちのこの宇宙が、生(ある)と死(ない)という夢を、そこに浮かべて見続けているその限り。」

すごい言葉。こんな言葉が書ければ・・と思います。30歳でこんな言葉が出てくるのだから、本当にすごい人だと思う。

「清冽なる詐術」という詩について書かれた章が僕にとっては最も難解だった。

「意識は常に「無」を欲望する。しかし、意識には「無」がわからない。詩とは、持て余された意識によって、「存在」のうえに書かれる「無」の幻影だ。意識が「存在」そのものとなるそのときまで、「在って、ない」ことばの群れが、自己へと還るためにのみ自己から発せられ続けているだろう。つぶやかれないつぶやきで、宇宙は充ちているだろう。」

元々、詩が苦手だが、本当にわからなかった。

「未知への帰還」というところでは、科学について書かれている。驚いたのは、この人、数学や物理学の本をたくさん読んでいて、すごく科学に詳しいということだ。
巻末に引用された図書が書かれているが、51冊の中にニュートンのプリンキピアとか、ハイゼルベルグ、アインシュタイン、ヴィントゲンシュタイン、ホーキングなどの著作が並んでいる。

この章は比較的わかりやすかった。

「われわれの問題は、ただひとこと「なぜ 在るのか」に尽きるのだが、解答はないのだから当然問いも消失する。在るから、在る。何らの疑問はない。だから科学が問うことができるのは、ただこの一点を除いた「一切の思考可能なものの全体者」であり、無限の思考が可能なのだ。しかし思考は、思考が可能なものしか思考可能ではない。思考にとっての可能性は、そのままその不可能性を指し示す。やはり「在る」ものしか考えることができないのだ。」

神について書いてある、「発現する消失点」は、神と宗教に関して書いてある部分が面白かった。

「・・・ある人が宗教をもつということと、その人が宗教的であるということとは全く別のことで、時にそれらは見事なほどに背反する。もったりもたなかったり、選んだり忘れたりすることができるような宗教ならば、それは人生の余技である。しかし問われていたのは、他でもないその人生ではなかったか。逃げも隠れもできないこの人生ではなかったか。人生がその全重量でもって載っている秤の、もう一方の側が問題なのだ。そこに載っているものはいったい「何」なのか。あるいは何も載っていないのか。としたならこの人生が、それ自身の重さを抱えて落ちてゆくその先は「どこ」なのか。−−このとき、宗教的なものは、私たちに慰安と平安を与えるような性格のものとしては決してあらわれない。「神」は私たちに刺し違えて死ぬ勝負に出ることを、不断に要求し続けるだろう。」

存在について突き詰めていくと、神に行きつくということなんだろうか。

それにしても、すごい人がいるものだ。
すごい人は、若いときからすごい。
また、美人である。天は二物を与えるということか。

もうちょっと易しいのを読もう。
久しぶりに脳の体操をした気分。