事象そのものへ!が難しくてわからなかったので、易しいのに戻ってきた。これは週刊誌に書かれていたコラムをまとめたもの。1998年のクリスマスに発行されている。
この人は徹頭徹尾「考える」という事をテーマにしている。哲学者だから当たり前、ということなのかもしれないが、すごく新鮮だ。この人にかかると、色々な話題が根本のところでスッパリ切れたような明瞭さで示される。書いていることは簡単な言葉を使っているが、なかなかこんな事は書けない。
本当に「考える」ということはすごく難しいことだ。
「ソフィーの馬鹿、ともう一度言いたい」というところにこう書かれている。
「・・人は言う。
「私だって考えてますよ。」
違う。そういうときに人が言う「考える」というのは、ほとんどの場合、考えているのではない。その言い方によって、人は何をしているかというと、まず間違いなく、「悩んで」いるのである。「考える」という言い方で、人は「悩んで」いるのである。しかし、「考える」ということと、「悩む」ということは全然違う。いやむしろこう言っていい、人は、きちんと考えていないからこそ、ぐずぐず悩むのである。」
ここまでバッサリやられると、自分をふり返って、その通り!と言いたくなる。
子供に対する「死の教育」については、死とは無であり、死が無なら死は存在しないはずであり、存在しないものを教師たちはどうやって教えるつもりでいるのか、と問いかけた上で、
「教え方がない」のではなくて、「教えるもの」が、そもそも「無い」のだ。現場の先生方には、このことをしっかりと認識してもらいたい。認識してもらうためには、とにかく自分で考えてもらうしかない。自分でもわかっていないことを、人に教えることは決してできない。しかし、わかっていないということはわかっている。このことなら、教えることができる。いや、このことを教える以外、死について教える仕方はあり得ない。
私は思うのだが、命の大切さを「教える」ことは不可能だ。むろん、「命を大切にしよう」というお題目を復唱させることならできる。しかし、そんなことが、望まれているそのことなのではないはずだ。
命の「大切さ」を教えるより、命の「不思議さ」を感じさせるほうが先だ。命の不思議さとは、言うまでもなく生と死、すなわち「存在と無」の不思議である。生きて死ぬこと、存在することしないこと、この当たり前の不思議に驚くところにしか、それを「大切にする」という感覚は出てこない。
と書かれている。
命は大切だ、と言うだけではダメなのか。そういう事ってわかってないように思う。
たしかに、それを教えろ、と言われたら、「命がある」ということはどういうことなんだろう、というところから始めるような気がするが。ここまで明確にそう意識できるのは、生半可な事ではないだろう。
耳が痛かったのは「なぜ人は「入門書」を読みたがる」というところ。
なぜ人は、「哲学のすすめ」に際して、入門書を読もうとするのか。なぜ古典を、原典を読もうとしないのか。古典と原典を読まずに入門書を読もうとするそのことが、哲学とは何かをわかっていないまさにそのことなのだから、したがって、入門書を読もうとする人に哲学をすすめることはできない。哲学入門書のたぐいを一切読むな、信じるな。古典と原典のみを直に読め。
(中略)
難しいから、やさしい入門書ならわかるだろう。しかし、それなら、やさしい入門書でわかったそのこととは、いったい何なのだろうか。それこそが、哲学の問題なのだが。
もうひとつ。天才が一生涯かけて考えた考えが、われわれ凡人に「やさしく」、短時間でわかるはずがないという当たり前のことが、なぜわからないのだろうか。
すいません。頑張ってみます・・・と思わず頭を下げた。
ソクラテスシリーズでも書いていたが、臓器移植・脳死の問題には舌鋒鋭い。
人が、死ぬのを恐れて、他人の臓器をもらってまで生きたいと思うのは、なぜなのだろうか。
生存していることそれ自体でよいことである、という、人類始まって以来の大錯覚がここにある。しかし、生存していることそれ自体は、生まれ落ちた限りサルにでもできることで、いかなる価値も、そこにはない。それが価値になることができるのは、人がそれを「善く」生きようと努める、そこにしかあり得ないのだ。
(中略)
遠慮なく、極端なところを言ってしまえば、愚劣な欲望を価値とする愚劣な人間が、ひたすら長生きしてどうするのだ。愚劣な人間の愚劣な欲望のために、自分の臓器を差し出すことが、なぜ愛なのだ、世のためになることなのだ。
ここまでの覚悟を持って生きている、というのはすごいことだと思う。
ただ生きている、という事には価値などない、「善く」生きようと努めないと価値はない・・・。
学を究めるというのはこういう覚悟を持つことなのかと思う。
こういうふうに考えられれば、世俗の雑事など、とるに足らない事になるのか。
ここ数日、寝る前に、生きているということはどういう事だろう、という事を考えようとするのだが、考えられない。何をどう考えたらよいのか、わからない。少なくとも、「わからないということ」はわかっているつもりなのだが、本当に「考える」ためには、やはり訓練が要るのではないだろうか。この人とて、素質はあったんだろうが、いきなり「存在と無」について考えられたのではないだろう。
「わかりたい」という気はあるのだが、いかんせん考える習慣がないので、わからないままである。
そのために入門書など、買ったことはあるが、確かにあまり役に立っているとは言えない。
一念発起して、もうちょっと難しいところを読んでみるか。
考えることは、誰でもできるし、また、誰もが生きて死ぬわけだから、同じ不思議を思うはずなのに、この人のような境地にはなかなか達することはできない。ということは、やっぱり考えることにも訓練が要るんだと思いたい。
この本の内容は、字面だけ追っていけば、そんなに難しくない。すっと頭に入ってくる。
でも、わかってないんだろう。
ソクラテスのシリーズでもそうだったが、読んでるときは、ふんふん、とうなずきつつ進むけど、いざ読み終わると覚えてない。
自分には基本的に何かこういう考えを拒否するような潜在意識があるのかもしれない、と思う今日この頃である。
それでも、当分はこの人のシリーズを読むことにする。
たくさん読めば、少しは頭に残るかも・・・。すぐに量の問題に帰結しようとするところがあさましい。
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