2005年1月10日
ロゴスに訊け 池田晶子 角川書店
2002年初版。この人は着実に書いている。

考える、というのは、すごく混沌としたものだと思う。
考えているときの頭の中は、色々な思いの断片が渦巻いているような感じであり、ある対象について考えてはいるのだが、それに付随することや全く関係のないことなどが、ぐるぐると回っている、というイメージ。それを言葉にすることで初めて、一つの「考え」になる。
でも、きっと作者のような人は、この言葉になる前の混沌の部分がすごく豊饒で、またそれがちゃんと言葉に結びつくという構造になっているんだろう。この手の本を読むと、書いてあることについて考えるのだが、「考え」になる前のイメージのところで我慢ができず、書いてある言葉に飛びついてしまって、自分で「考える」という作業がなかなかできない、というのが自分の感覚。
こういう事は、訓練で何とかなるんだろうか。
そんなことについても書いてあった。考えることとそれを言葉にすることはベクトルが逆だという。

「以前から述べているように、考えるのは理性によって考えるのであって、決して言葉によって考えるのではない。理性によって考えたその考えを、表現する際に言葉を用いるのであって、考えているその現場には言葉は存在していない。したがって、考えるということと書くということは、ベクトルが逆の方向を向いているわけで、考えを言葉にするのに人が難儀する理由がこれである。」(哲学の神髄は逆説にあり)

そういうことか。「考えている現場に言葉は存在していない」という感覚は何となくわかる。

いつもながら、言葉については厳しい価値を求めている。

 「しかし、だからこそ、言葉は闘い取らなければならないのだ。闘い取る言葉にのみ価値があることになるのだ。ふやけた言葉ばかりが、新聞にも市場にもネット上にも氾濫する。このような状況において、言葉のためにその本来の価値を闘い取るべく、私は自覚的に文筆を業としているのである。したがって、読者は、それを自覚的に読むことで、価値を闘い取らなければならない。共同戦線なのである。」(サルにだって言葉は書けるぞ)

言葉=精神だという。その精神はもはや「私」ではない、という感覚。そういう感覚が持てればいいと思うのだが、なかなかその境地には達しない。

 「ところが今や、利便性の追求の果てに出現した携帯電話その他の恩恵によって、言葉の価値は下落の一途である。わざわざ話す必要もない言葉、どうでもいいような譫言、寝言の、昼夜を分かたぬ垂れ流し、寝転がったままですらそれらは排泄できるからだ。言葉はそれ自体が価値であるなど、きょうび誰が理解するだろうか。
 しかし、言葉はそれ自体が価値なのだから、言葉の価値の下落する時代とは、とりも直さず、生の価値の下落する時代である。どうでもいい言葉を垂れ流すことによって、人は、自身の生の価値をも垂れ流していることを理解しない。それで、人々が価値を喪失している時代であるとは、これまた饒舌な、誰に向かって言っているつもりだろう。」(ビジネスか、生存か)

こう書かれると、ほんと、その通り、と思うのだが、自分に反省しないといけないことがたくさんあるのも事実。

 「人が自分の言葉に責任を取らない時代である。責任を取る時代があったのかどうか知らないが、今が責任を取らない時代であることは確かである。
 インターネットによる情報や意見のやり取りの実態にそれは明らかだが、もとをたどれば、テレビ、新聞、雑誌等、マスコミの権力の肥大化に、その原因はあるのだろう。大新聞やテレビ局の名の下に、人が匿名で語ることのうま味を覚えたからである。いや、テレビはまだ名と顔がさらされるぶん、自己規制は働くのかもしれないから、やはり元凶は活字メディアの匿名性にあるだろうか。」
 「しかし、今日、新聞や雑誌の記事、たんなる報道ではなく、何がしかのの主張や論評をしようとするものは、たいていは匿名である。少々間違ったことを言おうが、少々こじつけめいていようが、それは指摘されてもその責任を取る必要はない。単身で自分の言葉の責任をとる必要がないから、だから彼らの言葉はいつまでたっても正しくならないのである。
 したがって、逆に、署名でそれを行おうとするものは、たいていどこかが及び腰である。明らかにそれは文体、とくに語尾に現れるが、「でないと言えないこともないかもしれないのではなかろうか」といったふうな、もー痒くなるような、いったい何が言いたいんだか、決して断言しないのである。断言することを避けるのである。やはり、責任を取るのが恐いのであろう。」(責任を取れない言葉を語るな)

以前から、日本の新聞には記名記事がないのが不思議だった。事実報道はともかく、何らかの主観的な意見を記事にするなら、記名記事にするべきだと思う。それだけで、日本の新聞はかなりましになると思う。

「(中略)・・私は人が「権利」の語を使うたびに、「卑しい」、どうしてもそう感じてしまうのである。なぜ、「私たちは幸せになりたい」と言わず、「私たちには幸せになる権利がある」と言おうとするのだろうか。」
「 「権利」を掲げることで、「幸福」を逃しているのは他でもないその人なのである。権利があるのに叶えられない自分は不幸だと、当然思うことになるからである。」(天与の権利は誰のもの)

権利、という言葉にひっついてくる、何となくベタベタしたものが明確に語られている。
当然、全ての権利について言っているわけではないが、「幸せになる権利」などという言葉は僕もこの歳になって、うさんくさいと思うようになった。

「 「ただ生きることではなく、善く生きることだ。」ソクラテスが喝破したのは、二千五百年前のことである。民主政治の堕落した当時のアテナイにおいて、快楽や金銭を人生の価値と思いなし、それらのために生きている大衆に対し、説くには、もしもそれらが価値であるなら、君が生きていることに価値はないはずではないか。なぜなら、それらがなければ君には生きている価値はないのだから。そして、もしも君が、生きていることはそれ自体価値であると思うなら、それらのことは価値ではないのでなければおかしいではないか。なぜなら、君が生きていることそれ自体が善いことなのだから。
 留意してほしい。彼は、すべての人はただ生きているだけで善いことだと言っているのでは断じてない。善く生きている人にとってだけ、生きていることは善いことだと言っているのである。言うのもおかしなくらい、これは当たり前なことではないか。どうして、善く生きていない人にとって生きていることが善いことである道理があるだろうか!」(生きている、ただそれだけで価値なのか)

この内容は何度も繰り返し書かれている。
こう書かれると、その通り、と思う人もたくさんいるのではないか。
しかし、一方で(本の中にも出てくるが)「すべての人は生きているだけで価値がある」と言う五木寛之の本がベストセラーになるのも事実。
僕は池田晶子に賛成する。