この人は以前「モラトリアム人間の時代」という本で、大人になりきれない(社会に出られない)青年たち、という社会現象を精神分析的に指摘し、なるほどと思わされた。かなり前に読んだ本だが、当時ちょうど社会人になったばかりであり、書いてあることがすごく感覚的にわかったことを覚えている。
モラトリアムというのは、支払い猶予期間の事。「働く」ということが、それまで教育を受けた社会に対する支払いであり、それを猶予してもらっている(=就職をしない、あるいは就職をしても、本気で働けない)という青年たちの心を分析していた。
アイデンティティという言葉も、一連の小此木啓吾の本で知った。
「自分とは何か(=アイデンティティ)」を20歳近辺で決めないといけない、というのが70年代の体制だった。就職することがアイデンティティを決めることとは言えないが、大きなファクターではあると思う。
ちょうどその頃に流行った、「いちご白書をもう一度」の歌詞はその気持ちを歌ったもので、さすがユーミンである。
「自分とは何か」を決めるということは、「決めた何か以外の自分」の可能性を切り捨てることであり、それが受け入れられないので、モラトリアムになる。
年をとる、ということは「夢のリスト」から一つずつ夢を消していく行為、という部分がある。中にはリストの上位に書いてある夢を叶えられる人もいるが、大勢の人はそんなことはできない。「マンガ家になりたい」とか、「ミュージシャンになりたい」とかいう夢は早々に脱落していく。そういった「夢のリスト」に書き込むものがあれば、まだいい方で、昨今は夢そのものが無くなってきているように思える。
不景気、就職難、閉塞感などから、社会そのものに夢がなくなってきている。「明日はきっと今日より良くなる」と思えない時代。僕らが20代の頃はまだそう思えた。
小此木啓吾という人は精神科医であり、「日本におけるフロイト研究・精神分析学の第一人者」とある。この人が書いてきたものは、いずれも社会に対する問題提起や解決するための考え方などを含んでおり、今回久しぶりに小此木啓吾の本を読んで、この人の偉大さに感心した。
2003年に亡くなったのは本当に残念。
まえがきにあるが、インターネット、ビデオ、ゲームなどに引きこもり、その中で自我意識が肥大化し、事件を起こす少年たちに触れて、作者はこの本を通じて、社会に警鐘を鳴らしている。
「 いずれにしても、この不気味な少年たちに対して、「厳罰主義」で臨むことだけで問題が解決することはありえない。一方で厳罰主義を唱えながら、一方でIT革命を推進する。この両者の深い心の因果関係を認識することなしの為政者の発言はとても頼りない。さらに、その背景には、私が第3章で論じるように、「楽あれば苦あり」の苦の部分を全て消去し、欠乏に耐えることで生まれる人間の自発性や欲望の、その欠乏の部分をすべて消去していく巨大な消費社会がある。
この消費社会の動向を全面的に肯定しながら、しかも、それが生み出す弊害に対しては、対処療法的な教育改革を説くというその矛盾を、教育や少年にかかわる人々が、心をただしてもう一度見つめてほしい。
為政者、そして教育者が、これらの事件をあたかも対岸の火事のように、自分たち世代とは無縁の少年たちの事件として扱い、自分たちも共にどっぷり漬かる、現代のこの「楽々世界」をどのようにしたらいいかという問題意識を抱かないところに、現代の少年たちの不幸がある。
私が「少年も大人も引きこもりの時代」という副題をつけるのは、われわれ大人自身が、自分中心の自己愛の世界に引きこもり、安住していることそのことを洞察することからすべてが始まると、本書が主張しているためである。」
題名にある「ケータイ・ネット人間」について、第1章、第2章に書かれている。
この部分はそれなりに面白い分析であり、インターネット、携帯電話、ゲームなどに熱中する人間を分析している。
インターネットの5つの魅力、というのがある。
「1.匿名で別人格になれる。
2.「全知全能な自分」を感じられる。
3.自分の気持ちを純粋に相手に伝えられる。
4.特定の人と、親密な一体感が持てる。
5.イヤになったら、いつでもやめられる。」
精神分析的にインターネットを見ると、こうなるのか、と思った。
なるほど、これらの5つの魅力というのは、インターネットで流行っている2チャンネルやケータイの出会い系サイトなどに通じるものがあると思われる。
それにしても、70歳で自分もケータイメールを使い、こんな事が書ける、というのはすごい。
個人的には、第3章以降の方が興味深かった。
第3章では、まず、仮想現実について、自分が子供の頃にスキーをするのに、リフトなどなく、「スキー=登る苦しみ」だったものが、今や滑るだけの楽しいものになった、という例を引いて、
「 つまり、現代の進歩は、私たちの生活から「楽あれば苦あり」の「苦」の部分をどんどん消去して、「楽」だけを追究する。苦痛があることで初めて、その苦痛を何とか処理しようと思う欲求や衝動が生まれる。空腹があるから食欲が生まれる。(中略)
ところが、この欲望を、本人の自然の営みを通して身体的な工夫や努力でみたすという部分が消去されている。現代の若者たちを無気力と呼ぶが、意欲そのものが発生する根源的な自然の状況を、大人たちが商品化してどんどん奪っているのが現代の社会である。彼らの願望を先取りして、若者たちを無気力化するのが現代文明の根本原理である。」
という問題提起をしている。
人間が直接自分で体験する、「一次体験」(特に苦の部分)が減少していっており、インターネット、IT革命が、能率と経済を絶対原理として、受け身的・消費的な子供たちを育てていき、「もはや彼らには、自分自身の試行錯誤による手作りで何かを学び身につける、そのような機会が大幅に失われている」状態。
そこに、ゲームやインターネット、ケータイが現れている。
第3章で続いて語られる、1.5の世界、というのは、以前この人が一冊の本で書いていたテーマ。
個人対個人の関係は1と1で2.0の関係となり、父・母・子という三者関係(より社会的な関係)は3.0の関係という。
1.5の関係というのは、ゲームやインターネットなどに熱中する人と機械の関係。0.5の対象は「半ば人間扱いされたり擬人的な機能を備えている」、「半分だけ人間的」なもの。「かわいがりたいときにかわいがり、忘れたいときには忘れている」事ができるかかわりである。ぬいぐるみは0.5で、ペットは1.0になる。「旅行に行くときに、ぬいぐるみなら気楽に置いていってしまえるが、ペットはそうはいかない」関係だからである。
1.5のかかわりは居心地がよく、「孤独感のない孤独」に浸るようになり、「伝統的な規範や道徳による「3.0」の世界の秩序が力を失い、「2.0」、つまり一対一の人と人との間がますます希薄になっている。家庭は「ホテル家族」化し、家族と家族のふれあいも乏しい」状態になり、それが引きこもりに拍車をかけている、という事になる。
引きこもった自己は自己愛の中に入り込んでいく。
どこまでが作者の医師・精神分析家としての実体験から出てきたものかはわからないが、過去から現状への歴史を非常にうまく説明していると思う。
1.5の世界を脱するには、1.5の世界の中で膨らんだ誇大な自己を等身大にすることが必要だという。
一番面白かったのは、第6章、「やりたいことがわからない時代」モラトリアムが現実に、という章である。
以前書かれた「モラトリアム人間の時代」の続編という感じ。
よく言われるが、アメリカには日本のような青年の引きこもりは無いらしい。
「なぜ日本では、青年期になっても仕事に行かないような、家に引きこもっている若者たちについて大騒ぎするのかね。米国だったら、二十歳を過ぎてもあんなことをやっていたら、みんなホームレスかルンペンになるほかないんだよ。そもそも二十歳を過ぎて親と同居しているなんてことがおかしいよ。みんな高校を出たら、さっさと自活するのが当たり前だよ。高校生だってみんなアルバイトしている。何か働いてなかったら生きていけないんだよ。」
と米国の精神科医は言う。
一方で、日本の社会は、モラトリアム社会になってしまった。
「 社会全体を見ると、子ども、若者、家庭の専業主婦、老人、介護を受ける人々などはすべて、働く人々が運営する社会に養われて暮らす。このモラトリアム社会では、社会の当事者、運営者である働く人々の心理よりも、これらの人々からモラトリアムを提供されて暮らす人々のほうが尊重され、優位を占める。働く人々が働かない人々を軽んじたり、厄介者扱いする発言などをしたら、「何てダメな人」と非難を浴びる。家庭の中で父親が「誰のおかげで君たちは学校へ行ったり毎日暮らしていられるんだ」などとホンネを口にしたら、途端にその父親は、ダメな父親、父親失格になる。この一言が絶対的なタブーなのがいまの日本社会である。」
「 モラトリアム人間社会は、働く者も働かない者も平等の社会である。いやむしろ、モラトリアムを提供する人々の心理よりもモラトリアムを提供されているモラトリアム人間の側の心理が大変に尊重され、その社会全体の社会心理を支配するような社会をいう。」
「 とりわけ学校教育とマスメディアの発言者たちは、もっぱらこの平等、社会福祉のタテマエを金科玉条にして発言する。そして、このタテマエを本当に真に受けて育った人々がいまの子どもや若者の親世代である。
もはや、このモラトリアム人間社会で生まれ育った人々には、本当の意味で働く人、そして、社会に責任を持ってストレスを抱えながら運営していく当事者と、働かない人、そして、気楽にその社会の世話になりながらいいたいことだけを口にしていればよい人、この二種類の人間のその意義の違いがはっきりとのみ込めなくなっている。むしろ彼らの教育環境は、この区別を曖昧にし、平等を説くことに教育の主眼を置いてきた。現代は戦後の民主社会の悪弊としての平等幻想・・・現実がきびしい競争社会であるにもかかわらず、みんなが特有な平等幻想を抱く社会である。すでに引用した曾野綾子氏の発言、人々がみなタテマエ=理想ばかりを現実だと思って幼児化しているという指摘も、この社会の幻想性に対する批判と受け取ることができる。人権尊重、平等を説くことで、言葉にならないホンネの部分−働く人のほうがやっぱり価値があるという部分がいつの間にか言葉にならない社会になってしまった。
このような環境の中で、人間、誰が何といってもまず働かなければならないのだ、ということをうまく子どもたちに伝えることがむずかしくなってしまった。どうやって「絶対に働かなければいけない」ことを子どもに教えることができるのか。「苦労して働かないで、楽をして養ってもらったほうがいいじゃないの」という気分が、子どもたちの心にいつの間にかしみついてしまった。
モラトリアム人間社会のジレンマは、いまやますます深刻なものになっている。」
「 実は、この働かない人々が大切にされ、尊重されるという社会心理は、消費資本主義と深く結びついている。いまや、商品の生産力は、オートメーション化されて巨大なものになり、一生懸命働いて製品をつくり出す人々よりも、その商品をどんなふうに売り込むかが景気、不景気を左右し、会社の運命を左右する時代になった。」
「 この世の風潮の中で、消費するお金はどこから手に入れようと、どんなお金であろうと消費する力になればよい、という気分が若者たちにただよっている。そのお金をどんなふうに稼ぐかは、ますます二次的なものになった。かつては、どんなふうにお金を稼ぐかが、その人の人間としての価値を左右し、その人のアイデンティティを決めていた。ところが若者たちの間に、いまや、どんなふうにお金を稼ごうが、その稼ぎ方はきびしく問われない風潮が広がっている。これまである種のブレーキをかけていた、これまでのタブーを乗り越えて、これまでタブーだったお金の稼ぎ方が、どんどん商品化される。」
エライ人は、やっぱりエライ。
長くなったが、この本は小此木啓吾が今まで書いたきたことの総まとめ、といった感じがする。
文庫本の税抜き680円は安い。
惜しい人を亡くした。もっと生きて、書いてほしかった。
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