以前読んだこの人の本が面白かったので買っておいた本だが、「素数に憑かれた人たち」を読んだ勢いで一気に読んだ。
この本は、数学の歴史の中でどちらかというと避けられてきた、無限というものに立ち向かい、数の不思議に挑んだ数学者の伝記である。
難しい数式は(ちょっとあるが)少なく、物語として面白い。
主役はゲオルク・カントールというドイツ人。何度か精神病院に入院している。第一章を引用すると・・
「 とはいえゲオルク・カントールの病気についてわかっていることがひとつある。抑鬱状態に陥る直前、彼は決まって、今日「カントールの連続体仮説」の名で知られる問題を考えていたということだ。カントールはヘブライ語の文字アレフを使って表される次の式に頭を悩ませていたのである。
(2のアレフ0乗=アレフ1)
この式は無限の性質に関するひとつの命題を表している。カントールがはじめてこの式を書いてから百三十年ほど経た今日もなお、この式、そしてその性質と意味は、数学におけるもっとも深い謎のひとつなのである。」
本は、無限にかかわる数学者の歴史で始まる。ギリシアのピュタゴラス、イタリアのガリレオ・・・。
ガリレオが無限に関してそんなに研究していたとは知らなかった。
「・・どの整数も、それ自身の二乗数と一対一の対応関係を結ぶことができるのだ。逆に言えば、二乗数と同じだけの整数が存在するのである。こんなことが成り立つのも、ここで扱っている集合がどちらも無限集合だからだ。「新科学対話」の中でサルヴィアティは「二乗数は整数よりも少なくはない」と正しく結論した。しかし、ガリレオはサルヴィアティに、これらの二つの集合の要素は「同数だ」と言わせることまではできなかった。それはガリレオには手に余る問題だったのだ。彼は、取りこぼした数(二乗数以外の数)が無数に存在するにもかかわらず、すべての二乗数は整数と対応づけられる事を発見して衝撃を受けた。ここにガリレオは、無限集合の重要な性質−無限集合はそれ自身よりも小さい部分集合(真部分集合)と、要素数において等しくなりうるという性質−を発見したのである。無限という概念には、人を怯ませるものがある−それは日常的な直感がまったく通用しない世界なのだ。ガリレオは無限に関する本を書こうとさえしたが、結局はここで歩みを止めた。無限が持つ強大な力は、ガリレオさえも怖じ気づかせたのである。」
作者は、章を進め、有理数と無理数の分類、数直線上の異なる二つの数に関して、「隣の数」というものはない(どれだけ近づこうとも、隣の数と言えるものには決してたどり着かない)ということ、無理数は数えることさえできないということ、無理数の中でも、有理数を係数とする方程式の根になるような数(ルート2など)は代数的数と呼ばれ、それらの集合は有理数と同じサイズを持つこと、代数的数でない無理数を超越数と呼び、これらはいかなる方法によっても、取り押さえ、数えることはできないこと・・・などを説明してくれる。
その後、カントールの話に入っていく。
この人は集合を使って、無限や数の連続性について研究した人。
集合というと、数学の教科書に出てきたが、こんなところで使われていたとはしらなかった。
無限というものの、直感では捉えられない面白さが、ここでも紹介される。
0から1の直線上の点と、長さ1の正方形の平面上の点は同じ数だという。(カントールが発見した)
さすがに、カントールも予想だにしなかった結果であり、それは他の数学者から攻撃を受ける元になったりした。
カントールは「無限は神から与えられたもの」、「数学と哲学は自由であるべきであり、アイディアの導くところ、どこにでも自由に向かわなくてはならない」という信念を持っていたとのこと。
第12章の超限数というところには、
「・・しかしどこまで続けても「最大の数」には到達しない。なぜなら最大の数というものは存在しないからだ。どんなに大きな数を考えても、その数に1を加えてやればもっと大きな数になる。最大の数は存在せず、数はどこまでもどこまでも続くのである。少しのあいだ目を閉じて、宇宙空間を飛んでいる自分の姿をイメージしてみよう。あなたが宇宙空間を飛んでいると、数が次々にあなたに向かってくる−−ちょうど高速道路に描かれた破線のように。1138,1139,1140,...2567,2568,2569,2570...永遠にどこまでも。
ゲオルク・カントールの天才は、想像力を自由に羽ばたかせ、終わりがないという状況にも怯まなかったところにある(カントール以外にはボルツァーノと、おそらくガリレオもそんな数学者だったろう)・・」
と書かれている。作者の、カントールをはじめとする、無限に取り組んだ数学者に対する尊敬がこの本を書かせたのだと思う。
皮肉にも、カントールの最後の遺産は、すべてを含む集合はありえないという事実に気づいたことだったとのこと。
作者は、
「われわれは絶対者には決して到達できないのだ。」
と書いている。
カントールは無限について研究を進めるたびに精神を病み、精神病院に入退院を繰り返し、全く畑違いのシェイクスピア研究に没頭したりしたらしい。無限という概念が当たり前になる前に、一人でそれに立ち向かうということがいかに大変なことだったか、想像を超えたものがある。
カントールの考え通り、無限というのは神につながっている、という気はする。
無限のその先(というもの自体が意味をなさないが)は神、というところに行かざるを得ない。
カントールの死後、無限の研究を引き継いだのは、クルト・ゲーデルという数学者であり、この本の第二の主人公である。
このゲーデルは、「任意の系が与えられたとき、その系の内部では証明できない命題が常に存在する」という、「ゲーデルの不完全性定理」を書き上げた。
「有限な宇宙の内部に存在している人間の心には、そのシステムを超えて広がる大きな実体を捉えることはできないということだ。」
26歳でこれを発表したゲーデルは、その後カントールが研究していた連続体仮説(数直線の無限やその扱いについて)の研究に手をつける。
しかし、ゲーデルも、その仕事を始めると同時に、精神病の徴候を見せ始めたとのこと。
第20章を作者はこのように書き始めている。
「実無限の強烈な光を直視することは難しい。カントールもそうだったようにゲーデルもまた、長いあいだそれを見つめ続けることができなかった。連続体仮説を研究するためには強靱な精神をもって自己の内面と向き合わなければならない。・・・」
カントールが無限の研究に行き詰まってシェイクスピアに走ったように、ゲーデルもライプニッツという数学者の著作に関する研究を始めたらしい。不思議な一致である。
ゲーデルがやり残した残り半分の道のりは、ポール・コーエンという数学者が歩き通した。
コーエンの証明によって、カントールの連続体仮説が正しいかどうかは、現在用いられている集合論の公理系内部では立証できないことが決定的に明らかになったとのこと。
「・・コーエンの証明が教えているのは、現在用いられている公理系の内部では、連続体仮説を真とみなしても偽とみなしてもよく、いずれにせよ新しい矛盾は生じないということである。かくして長年に及ぶ努力の末に、連続体仮説は謎のままに留まることになった。」
最後の第22章に、「数は実在するのだろうか?」という見出しがある。
「数というものは、物理量を勘定したり比較したりするのに便利なように、人間が作り出した抽象概念のようにも思える。そのため、数は一種の言語だとか、数は実世界の問題に対処するために人間が取り決めた約束事だとか言う人たちもいる。しかしもしそうなら、数を作り出したわれわれは、数のすべてを知らなければなるまい。だが、私の考えでは、現実はそうなってはいない。人間はいつの時代も懸命に研究をすることにより、数の性質をひとつ、またひとつと発見してきたのだ。いや、数ばかりではない。関数や空間、数がもつ抽象的な性質もそうやって発見してきた。直感に反する事実が明らかになったことも一度や二度ではない。してみれば、数は人間が作り出したものであるはずはないだろう。数はこれまでも、そしてこれからも、魅力あふれる新しい事実をわれわれに教えてくれる実体なのだ。数学の課題は、まさに数そのものと、数を抽象することにより引き出された概念、そして数に付随する概念を研究することなのである。
数は実在する。そしてその実在性は、人間とは関係がないと私は考える。別の宇宙でも−−その宇宙にはやはり人間が存在するかもしれないし、われわれが現在この宇宙で認識しているようなものは何ひとつ存在しないかもしれないが−−数はやはり存在するだろう。そして数は無限に存在する。しかし、数はどれぐらい密に詰め込まれているだろう?」
この信念はすごいと思う。僕には「数の実在」について作者のようには思えない。人間が作り出した抽象概念だと思う。
作者自身、数学の専攻であり、現在も統計学の助教授という地位にある人なので、今まで数について考えてきた人なんだろう。だからこそ、数は実在する、というところまでの思いがあるのか。
数は人間が作り出した抽象概念ではあり、人間がその抽象化をどんどん進めてきた。色々な壁に突き当たったが、それでも人間は考え続けていく。それでいいのではないかと思う。
確かに、無限について考えると、深遠なところに入っていかざるを得ないと思う。神につながる感覚というのもうなずける。
それでも数は人間が作り出したものだと思う。
作者の言う「数の実在」は、神の実在とつながる意識なのかもしれない。
とにかく、面白かった。
こういう「数の不思議さ」というものを、教科書でもっと教えても良いのではないかと思うのだが・・。
|