本屋で山本七平の新刊を見つけて購入。
本屋でパラパラと見たが、この本の内容は読んでいなかった。
この本は、山本七平が1975年の昭和天皇訪米時に渡米し、アメリカで色々な取材をした内容をまとめたもの。当時週刊誌に連載されたらしい。
1975年というと、昭和50年。18歳の時か。天皇訪米という言葉は聞いたような気がするが、当時はあまり関心が無かった。
山本七平の興味は、天皇訪米についてアメリカ人がどう思っているかということや、人種の問題、アメリカという国のシステムなど、広範囲にわたっている。
今でこそ、少しのお金と時間があれば、簡単にアメリカに行けるし、アメリカとはどんな国か?というような事については掃いてすてるほどの情報があるけれど、1975年当時はまだアメリカという国が今ほど身近ではなかったと思う。
まだ冷戦のさなかであり、安全保障条約、ベトナム戦争、核爆弾、資本主義・・・などというような事がアメリカに関するキーワードだった。
また、70年代はアメリカ自身がベトナム戦争を経験し(75年終戦)、悩んでいた時期だったと思う。
この本の中にも、何度も「病めるアメリカ」という言葉が出てくる。
深刻な人種問題など、色々な内政上の問題を抱えてはいるが、それでも発展を続けるアメリカというシステム、というものが作者の取材の観点だろう。
さらに、「逆にこちらが病んでいるのではないだろうか?」というのが山本七平らしい問題意識だ。
色々な取材や事前の調査を通して、山本七平は日本とアメリカの違いについて書いているが、その中で興味深かった部分を抜き出してみる。
「・・否応なしに、同じ状態に陥ったときのわれわれと、非常に違った面があることに気づく。それはいかに非難すべき相手でも、その相手が発言すること自体は、決して非難・妨害しないことである。」
「黒人問題は黒人が解決する、他人の無責任な声援などほしくはない。アジア系に問題があるなら、アジア系が自分で解決すればよかろう。といったバウハウス氏(註 有色人種地位向上協会の会長)の態度は、無愛想といえば無愛想だが、当然といえば当然であった。彼らは、相手の”顔を立てて”「検討させていただきます」といったような生返事はしないし、山のように理由と釈明を並べたてて、最後に「ノオ」と言うわけでもない。いきなり「ノオ」である。そして少なくともアメリカという社会では、問題の解決には常に、こういった態度が要請されるのであろう。」
「私はふと、「アメリカ人に対してはアメリカ人の尺度で計らなければならない。日本人に対しては日本人の尺度で計らなければならない」といった意味の、モンテスキューの言葉を思った。少なくとも戦前の日本人は、自分の尺度でアメリカ人を計り、とんでもない結論を出して大失敗をした。」
「・・・「制限時速五十五マイル」という標識を、あるいは「アメリカ」という標識を、何もいわずに黙って掲げてしまうのは、表面は最もアメリカ的に見えて実はアメリカではない、ということなのである。
その通りかもしれぬ。だたそれは戦後の日本にもいえることである。「民主主義という標識を掲げよ」といわれれば黙って掲げるのは民主主義ではないし、非民主的と言われまいと口をつぐむでは形を変えた全体主義だ、と言われれば確かにその通りである・・・」
「 「父よ、なぜ私に日本語を教えなかったのか。中国人は、三世も四世も、中国語ができるではないか!」
これに対して二世は答え得ない。「そこで権威を失ってしまう」と氏は言った。
「もちろん例外はあるであろう。だがしかし、父とは、伝統を継承してこれを子供に伝えるから権威をもちうる、この原則には例外はない」と。私はこの一世、二世、三世の関係と、戦後日本の世代間の関係とに、一種の併行現象を見ないわけにいかなかった。」
「アメリカ人は自らを、空間的・論理的・組織的に把握しても、歴史的・時間的には把握していない。アメリカという空間が二千年前のイスラエルのように喪失しても、アメリカという伝承的時間だけを二千年間生きつづけるアメリカ人などは存在するはずがない。そして歴史という意識がないなら、歴史的必然などという意識があるはずがない。
だが彼らの行き方を調べてみると、このことは、必ずしも将来に向かっての改革がないということではない。彼らは、あらゆる問題を「今日の問題」として空間的に解決しようとする。もちろんその解決はすぐ新しい問題を生み出し、それが「明日の問題」となって未来に申し送られるわけだが、それは、明日が今日になったときにまた空間的に解決するわけである。
これはマルクスの嫌った典型的な改良主義的行き方で、以上のような意味で言うのなら、「病めるアメリカ」に必ず付随する「アメリカに明日はない」「アメリカに未来はない」といった言葉は、正しいといえるかもしれない。」
「では一体アメリカとは何なのか。アメリカという形で統一された「伝統なき空間的モザイク」が、組織として機能するように構成している枠組みは何なのか。「憲法です、そしてそれに基づく法規(ルール)です。アメリカとはそれだけの国で、それ以外には何もありません」。」
「アメリカの建国を彼らは「最初の革命」という。人類最初の革命の意味だそうで、ここで人類ははじめて、伝統や因習や社会悪を内包した「石器時代以来の不合理な社会」を捨てて、合理的組織としての人工的政府をつくった、と彼らは言う。
だたこの考え方の背後にあるものは、十八世紀的”理性信仰”であり、理性という合理性を、伝統や因習が阻んでいるから人間は苦しむ。人間は環境の動物、したがって人間が悪ければそれは「社会が悪い」のであり、その「悪い社会・環境」を捨て、それから解放されて、理性に基づく合理的科学的社会組織をつくれば、人間は幸福になる−−これが独立宣言以来二百年の、彼らの国是である。」
さすがに今読むと、当時の問題意識が見えずに、何でこんな事を書いているのか?という感じがする部分もあるが、山本七平の抱いたアメリカと日本の違いというものは今も変わっていないと思う。
今は当時と違い、ベルリンの壁が崩壊して、グローバル化=アメリカ化というほどアメリカは強くなったが、昨今の状況を見るかぎり、やはり「病めるアメリカ」と言えるのかもしれない。
(映画、華氏911を見たが、このような作品が公開されるというところが、アメリカの強さか)
今は日本の方がよほど病んでいると思う。
過去の経緯はともかく、「あらゆる問題を「今日の問題」として空間的に解決しようとする」姿勢が日本人に今必要とされていると思う。
その意味では、アメリカは良い手本であり、実際に色々な分野で手本になっているのが現在だろう。
何事もやりすぎは良くないが、日本の社会の色々なところで起こっている制度疲労を見ていると、問題の歴史的・時間的把握はやめて、空間的・論理的・組織的に考えるというアメリカ的取り組みが必要だと思う。
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