2005年5月5日
あたりまえなことばかり 池田晶子 トランスビュー

この本はちょっと難しい。池田晶子の本はどれも難しいのだが、この本は扱っているテーマが死や魂、宗教、幸福、孤独といったものであり、こういう普遍的なテーマは簡単な言葉では語れない。

繰り返し、繰り返し、同じことを言っていると思うのだが、わかったようでわからない。
作者曰く、自分の本はわかる人にはわかるとのこと。ぼくはわからない方の部類に入っているのか。

「道徳を教えることも、哲学を教えることも、我々にはできない。できるのは、自ら考えることと、自ら考えざるを得なくなる地点にまで導くことだけだ。考えるほどに私は思うのだが、子供であれ大人であれ、人は不思議に目ざめることによって、自ずから矩を知るのではなかろうか。無理に道徳や哲学を教え、学ぶ必要もない。不可解な大宇宙に生き死ぬ不思議、この感覚に目ざめるだけで、じつは十分なのではなかろうか。この感覚は、ある意味で、畏怖する謙虚さのようなものだからである。
 子供に善悪の感覚がなくなっているのは、ほぼ間違いなく、不思議を忘れているからだ。眼前には、わかりきった社会しかないからだ。万引き、売春、人殺し、どれも「社会にとっての」悪いことだ。しかし、「自分にとって」、それらはどう悪いのか、大宇宙の謎の前にそれらを置いて、一度静かに眺めてごらん。」

学校ではもっと宇宙について、知識を与えるべきだと思う。
NHKスペシャルでやっていた宇宙の番組などを見ると、ほんとうに不思議な気持ちになる。
なぜ地球があるのか。なぜ宇宙があるのか。なぜ人間がいるのか。
夜空を見て、何億年か前の光を見ているという事実。いつかは太陽が膨張し、太陽系は地球も含めてなくなってしまうという不思議。いつかは銀河系が他の系と衝突し、銀河系自身もなくなってしまう、という不思議。
宇宙に歴史というものがあるのかどうかはわからないが、人類のたかだか数千年の歴史など笑いとばすしかない。
はるかな時空を超えて、精神がこの不思議を思うとき、人間は謙虚になれると思う。
その謙虚さが、実は人間は何も知らないという事を思い出させるんだろう。

「一般に人は、生きていることを幸福といい、死ぬことを不幸という。けれども同時に人は、その生きるために労働することに不平を言い、生きるためには食べなければならないという言い方をする。しかし、もし本当に生きていることそれ自体を幸福と思っているのなら、その生きるために労働することも幸福であるはずだ。すると、生きていることそれ自体は、あるいは不幸なことだと思っているのだろうか。だとしたら、なぜ人はさほどにまで死を厭い、避けようとして生きているのだろうか。生きていることが不幸なことなら、死ぬことは幸福であるはずである。いったい、生存していることそれ自体は、幸福なのだろうか、不幸なのだろうか、どっちなのだろうか。」

幸福とは何なのか。
生死とは関係ないものだろう。
きっとこの問いにも答えなどないのだ。

「天才とは、その宿命を直知している人間のことだ。こうでしかあり得ない、こうする以外の何がある。彼らの意志は、誤たずにその生を歩むが、まさにそのゆえに、彼らは彼らの意志によって生きているのではないようにも見える。幼いピカソが、この世で初めて発した言葉は「鉛筆」だった。「嘘をつくのが有利なときも、嘘をつくのはいけないことか」とは、八歳のウィントゲンシュタインの問いである。なぜ彼らは、そうすることしかできないのだろうか。
 古代人たちは、憑かれた人々を導く神を、「ダイモーン」と呼んだ。天才とは、文字通り「デーモニッシュ」な人々のことだ。彼らは、魂の奥深いところで、自分がこうとしかできないことの理由は、何がしか自分とは違うところから来ることを知っている。それをするのでなければ生きている理由がないのだから、死と引き換えにしても彼らはその生を選ぶだろう。選択の余地のない宿命を生きるということは、したがって、この世的な幸福と不幸では計れない。
 人は、おのおのに固有のその生を生きるしかないという意味では、天才に限らない。すべてのわれわれが、なぜかこの世に居る限り、この世にいることのその役回りがあるのであろう。細胞群や星々が、生成の神秘における自身の所在を正確に心得ているように、おのおのの魂にはおのおのの定めがある。宿命を知るとは、おそらく大仰にすぎる。凡百のわれわれにとって、それは、分際を知るといったふうなことに近いのではなかろうか。そのとき、「本当の自分」はあんがい遠くないところに居たことに気づくはずだ。」

凡人にとっては、自分の魂の定めについて考えることが自分について考えることになる。
自分のこの48年の暮らしとは何だったのか。
宇宙の中で、いったい何をしたか、あるいはすべきなのか。
そんなことを「考える」ことが「自分としてある」ということの第一歩なのだ、と作者は言っているんだと思う。

あたりまえなことばかり、というタイトルの通り、書いてあることはあたりまえなことばかりであった。
しかし、あたりまえなことほど、むずかしいことだ。
これは、いつの世にも、真実なのではないか。