2005年5月27日
量子の絡み合う宇宙 アミール・D・アクゼル 早川書房

アミール・D・アクゼルという人の書く本が面白いのと、量子論というのに興味があったので購入。

量子論とか量子力学とかいう言葉は新聞などで見聞きするだけ。最近は量子コンピューターなどという言葉もあり、だんだんと応用分野が出来てきたのか、という印象である。その割には量子とは何なのか、量子論とはどういう事なのか、という事については全くわからなかった。ぼんやりと、電子とか原子とか、この世を構成する一番小さいところに関する学問、という知識しかなかった。

この本を読んで、それがわかるかというと・・・さらにわからなくなった。
それほど、わけがわからないものである。

そもそも、量子とは、非常に小さなエネルギーのかたまりを意味しているらしい。量子力学の扱うものは、宇宙のすべてを形作る粒子であり、原子、分子、中性子、陽子、電子、クオーク、光子(光の基本単位)などである。
著者曰く、

「量子の世界ではすべてがあいまいだ。光も電子も原子もクオークも、われわれの扱うすべての存在はどれも漠然とした性質を持っている。量子力学を支配するのは、「不確定性原理」である。この原理によれば、ほとんどの物は正確に見たり感じたりはできず、確率と偶然に包まれたあいまいな形でしか知ることはできない。物事の結果は元来統計的な性質を持ち、それは確率という形でしか予測できない。つまり粒子の正確な位置は予測できず、粒子が最も存在しそうな場所しか予測できないのだ。また、粒子の位置と運動量の両方を高い精度で求めることもできない。そして量子の世界に広がるこのあいまいさは、決して取り除くことができない。量子論の限界を超えて物事を正確に知るための「隠れた変数」は、現実には存在しない。不確定性、不明瞭さ、確率、ばらつきは、決してなくすことができない。これらの謎に満ち曖昧模糊とした性質は、この不思議の世界とは切っても切り離せないものなのだ。
 さらに不可解なのは、複数の量子系の状態が「重なり合う」という現象である。電子(負の電荷を持つ素粒子)や光子(光の量子)は二つ以上の状態が重なり合った形になりうる。したがって、量子の世界では、「ここにあるか、あるいはそこにある」と言う代わりに、「ここにあり、かつそこにある」と言うことになる。二つの穴の開いた壁に光を当てると、光子はどちらかの穴を通るのではなく、両方の穴を同時に通り抜ける。原子核の回りを回る電子は、同時にたくさんの位置に存在できる。」

どういうこと?
学生時代に、教科書で原子の回りを回る電子の絵を見たが、あの時は原子の回りをちゃんとした丸い物体が回っていたはず。あの絵は嘘だったのか?
だいたい、どこにあるかもわからないものを、どう研究するのか?
おまけに、それらを精度良く観察することもできないという。
ここにも、そこにもある、という状態はどういう状態なのか?
光の量子が、両方の穴を同時に通り抜けるとは・・・二つに分かれるわけでもなく・・・。

これだけではない。おまけに、もっとすごい事がある。

「しかし量子の奇妙な世界で最も不可解なのは、「量子の絡み合い(エンタングルメント)」と呼ばれる現象である。二つの粒子がお互いに何万キロ、何億キロ離れていても、それらは謎めいた形でつながりあっている。片方の粒子に何かが起こると、瞬間的にもう一方の粒子も変化するのだ。」

これが、この本の題名にもなっている、絡み合いということである。
まるでSFではないか。

もう少し詳しく言うと、

「ある特別な方法で結び合わされて生成された複数の粒子や光子は、お互いに「絡み合った」存在となる。たとえば、原子の中の電子がエネルギー準位(原子中の電子の軌道に相当する)を二段階遷移すると、そこから生成した二つの光子はお互いに「絡み合う」ことになる。どちらの光子も決まった方向に飛んでいくわけではないが、この二つの光子は必ずお互いに反対側に飛んでいく。そしてこのようにつながりを持って生成した光子や粒子は、お互い永遠に「絡み合う」こととなる。一方が変化すると、もう一方が宇宙のどこにあろうとも、それは「瞬間的に」変化する。」

ということらしい。
ほんまかいな?というのが正直なところだろう。
本の最初に、J.B.S.ホールデンの言葉として、

「世界はわれわれが想像している以上に奇妙なだけではなく、われわれが想像できうる以上に奇妙ではないのか」

という言葉が紹介されているが、まさにその通り。
この本は、これらの量子論を作ってきた物理学者たちの人物を描きながら、量子論そのものの発展をたどっていく、というものである。
途中、難解な部分もある。それは、式が出てくるからとか、物理の理論がむずかしい、とかいうものではなく、何らかの実験をした結果の説明を読んでも、それが想像できない、という難しさである。

それでも、面白い。
あの天才、アインシュタインは、量子論の曖昧さは何か隠れた変数が見つかっていないからではないか、と考えていたとのこと。量子論について、彼は「神はサイコロ遊びをしない」という言葉を残している。
時空の絶対性をくつがえした天才だからこそ、量子論の曖昧さは何かが欠けているはずだ、と考えたのか。

それにもかかわらず、数多くの科学者たちは「曖昧な」量子論の正しさを証明してきた。その歴史がこの本に描かれている。

この本の面白さは、よく調べられた数々の科学者たちの姿と、量子論そのものへの興味という二つのものだろう。
アミール・D・アクゼルの本はいずれもこのパターンで書かれていて、本当に面白い。

それにしても、従来からある、目に見える物に対する物理学(古典物理というらしい!)と、この量子力学はどこでどう交わるのだろうか?
かたや、人間の目に見えて、実体があり、ぶつかったり、壊れたりする事については、計算できるし予想もできる。火星や木星の衛星に探査機を送って、リモコンで動かす事までできるのだ。
一方、それらすべてを形作っている原子や電子といったものは、量子力学で扱われる。こちらは、不確定だといい、確率統計的にしか扱えないという。ここにも、そこにもあり、波であると同時に粒子でもあるという。

人間の科学は、これらの古典物理と量子論を統合するところまでいけるのだろうか。
今のところ、これら二つは別々になっているが、大きくて実体があり、目に見えるものと、それらを形作っている目に見えないものを表す理屈がこんなに違っていいのだろうか。

きっと、世界のどこかに、そんな事を考えている物理学者もいるのだろう。
生きているあいだに、何らかの答えを誰かが見つけてくれるといいのだが・・。
量子論にかかわった科学者の一人は、量子論とは存在の問題だ、と言っている。
精神がなぜ存在するのかは、科学では答えが出ないと思うが、モノがなぜ存在するのか、という事については科学に期待する。
でも、これだけ違うと統合は20年そこらでは無理かもしれない。
アインシュタインのような天才が出てくれば・・・。