2005年6月4日
崖っぷち弱小大学物語 杉山幸丸 中公新書ラクレ
作者はサル学で有名な人。サル関係の本で名前を見た事がある。長いこと霊長類研究所で研究をしていた研究者である。
この本はその人が、弱小私立大学の人文学部の学部長になって、学生のレベルアップのために奮闘し、その経験から、今の弱小私学の学生・教員・学校のありようについて、提言を行ったものである。

自分メモとして書いた部分が多くなったので、長くなりました。適当に読み飛ばして下さい。

大学関係の文庫・新書ではこの本が今までのベスト。オススメの1冊。

作者がサルの研究で行った、フィールドで観察して、そこから事象を表す原理を引き出し、それを用いて次のステップに進む、という研究手法が生かされているだけでなく、とにかく自分でしんどい思いをしてでも良い方向に変えていくのだ、という信念が感じられる。こういうエライ人がいるのか、と感心。

普通の業界なら、市場が縮小する事がわかっているときに業態を拡大するというのはあまりやらない事だと思う。

人口統計というのは数ある調査の中では珍しく先が正確に読めるものだ。18歳人口の減少というのは、その時が来る18年前からわかっているのである。よく企業の業績予想で、先行き不透明というが、大学市場の需要を18歳人口に限定すれば、先行きは透明であり市場縮小だ。(大学進学率が上がる、とみると縮小とは限らないが、それでも常識的には縮小と見るべきだと思う)

この本の第一章によると、1994年度から2003年度の間の10年間で国公私立大学の数は168も増え、総計699校とのこと。この間の実質的廃学はたった2大学。
需要が縮小するとわかっているところに、約3割も新規参入しているという、珍しい業界と言えるだろう。
業界関係者がよほど市場原理がわからないのか、それとも自信家が多いのか、それとも学校法人などの経営者の頭の中には拡大という強迫観念が根付いているのか、それとも・・・。

2001年に151万人いた18歳人口は2007年には127万、2009年には121万、2011年には118万となっていく。(1991年には204万人もいた!)
昨日の新聞に出生率が最低記録を樹立した、と書いてあったので、傾向としてはまだ漸減傾向でなかなか増えないだろう。
当然、学校は淘汰の時代になる。

そうなると、あたりまえの事ながら、人気のない大学は経営が苦しくなる。入試は有名無実で、来る学生は入れる、という事をしないと経営が成り立たないのは当然の帰結。そういう大学がFランクに位置づけられる、と作者は言う。
このFランクというのは最近登場したとのことで、フリーで希望すれば入れる、という意味らしい。
これから数年間でさらにFランクの大学が増えていくということだ。こういう大学が「崖っぷち弱小大学」になる。

今まで最先端の研究所で優秀な研究者として生きてきた作者が、弱小大学の学部長になった、というところから、この本は始まる。

第二章の「学生は大学に何を期待しているか」で、作者は弱小大学が経営者の指示に従って、文科省の許容限度である定員の1.3倍の学生を取ろうとする、という事を説明した上で、その分だけ無目的な学生が入ってきている、と言っている。(その割合が全体の1/4程度だったとのこと)

「大学なら高校より束縛が少ないだろうし、友だちとわいわい騒いで過ごせば楽しいに違いない。その先にこれといった目標も当てもないけれど、とりあえず大学にでも行っておこうか、単位を取るためにさえも勉強する気などさらさらない。出欠席も確認せず期末試験も簡単で、みんなに単位をくれる軟弱教員の「楽勝科目」を探し出す。その次は、出席さえしていれば単位をくれるチョロイ先生の準楽勝科目を選んで、遅刻してもとにかく出席して、授業中はおしゃべりで楽しむか机にへばりついて熟睡して、それでもうまくいけば卒業単位は充足できる。だめなら一年余計に遊べるというものだ。授業料だけ払ってくれるこんな学生を、経営者は「賛助会員」と呼んでいる。しかし現場の教員にとってみれば賛助会員などではまったくない。教育効果を下げる最悪の寄生虫または病原体なのである。しかしそれでもなんとかやる気を起こさせようとするから、かえって手間のかかる対象になる。「誰だって何かを期待して入ってきたのだ」と思いたいが、やはり一部の学生の大学像は無目的な若者の溜まり場でしかない。
 いっとき、大学のレジャーランド化が叫ばれたことがある。しかし、レジャーランドは「今日一日をたのしく遊ぼう」という目的を持ってくるところだ。無目的学生にとっての大学はそうじゃない。何となく家にいてもつまらないから来るところ、すなわち街頭広場だ。地べたにベタッと腰を下ろしてたむろしている若者たち、頭も服装も街頭広場のまま、そっくりキャンパスにやってきたのが四分の一弱だったのである。そしてこれがほぼそっくり、定員以上に入学させたプラスアルファの0.3に相当する。」

これが、大学のユニバーサル化(誰もが行くようになった)という事なのだろう。
崖っぷち弱小大学は厳しい。
結局こういう事態に陥ると、その他の学生まで影響を受けることになる。それが悪循環となり、崖っぷちの学校はもっと崖っぷちになっていくんだろう。食い止めるのは大変だ。

また、資格取得に奔走する大学や学生を評して、本来の大学のあり方について述べている。

「大学に入ってくる若者の期待に応えることがすべてなら、たしかに弱小大学は卒業したらすぐに役立つハウ・ツウ教育に徹したらよかろう。しかし、学生側の目前の期待に応えていればよいのだろうか。それでほんとうにいいの?
 大学経営者だって、教職員だって、大学とはこういう存在でありたいという願望を持っているはずだ。自分で考え、自分で判断し、自分の責任で実行できる人間になってほしい。周囲と調和の取れる常識をわきまえた人間になってほしい。広い視野を持って世界と人間を見据えられる人間になってほしい。そのための基礎的な知識を身につけてほしい。社会の中でのマナーも身につけてほしい。長い人生のそこここで、じわーっと役に立ってくる、そんな教育をしたい。残念だが、そして経営者には申し訳ないが、インスタント教育だけを求めて進学する若者には、大学は不向きだということを理解してほしいのだ。「どうぞ専門学校に行ってください」。」

実際、ホームページを見ると、こんなにたくさんの資格が取れます!という専門学校のデパートみたいな大学があるのも事実。そんなことをやっていていいのか、と思っていたが、作者の意見を読んで納得。こういう人がいればまだ救いがある。

また、現代の若者たちの「他人の迷惑に対する無神経さ」に驚くが、その学生の親の世代からもうそれは始まっている、という。それを「傍若無人主義」といい、こんなことになるのは、外に出たときの行儀作法を家庭でしつけていないからで、親自身が他人との調和を取ろうとする訓練ができていない、という。
傍若無人主義は経済成長とともに30年〜40年前から、徐々に日本社会の津々浦々まで熟成されてきたという。

「社会の中でのマナーとはどういうものか。礼儀とはどうすることか。文化とは何か。親も、小学校も、はては中学・高校さえも避けて通っているのなら、あるいは、社会そのものが秩序を失ってしまったから家庭だけではどうしようもないのなら、大学で教え込まなければならない。親と力を合わせてと言いたいところだが、その親が頼りにならないときている。だから、まずは大学からしつけの教育を始めよう。」

そのために教員相互の授業参観を始めよう、というが、「自分の授業を見られたくないから他人の授業の参観も遠慮する」というような教員がおり、授業改革は困難をきわめるとのこと。

「なぜなら、教員が全員そろって授業管理、授業改革を志さなければ、学生は「易きに流れる」ものだからである。「アリの一穴から堤防が崩れる」のたとえどおりであろう。テレビでときどき見るが(たとえば、NHK総合「教育フェア2002−日本の宿題・シリーズ学校」)、教員同士の相互授業参観・相互批判は意欲的な小学校や中学校ならどこでもやっているようだ。崖っぷちにいる弱小大学では、意欲的な小学校や中学校の教員たちが試みていることはすべて真似してもいいぐらいだと思う。小学校や中学校の先生たちが試みていることをすべてやって、そのうえ大学らしい教育ができたら、そのとき初めて大学教授としての誇りを持ってもいいだろう。そのために、まずはいま持っているささやかな教授のプライドをかなぐり捨てることだ。たとえ少数にしても、それができない教員のいることが苦しい。」

今でも、社会から隔絶した一時代前の大学教授のイメージだけで生きている教員がおり、彼ら自身が頭と身体の両方でしつけ教育を受けなければならない、と提言している。
学部長である作者が、研究室のドアを開けて、学生と話をしやすいように、と教員に求めても、ドアを閉めきった研究室の中にいる教員が少なくない、という。彼らはまさに「引きこもり」そのものであり、学生ばかりか教員にまでも「引きこもり」対策を必要とするなんて、荷が重い、とぼやく。

学校内で名札をつけよう、という提案にすら同調しない教員が少数いるとのこと。
そこまで来ると、作者も厳しい。

「学生はあなたの鏡である。もちろん、あなたは学生の鏡だ。鏡を見、その態度を正しながら学生を、そして自らを磨く覚悟がないのなら、これからの弱小大学の教員としては完全な不適格者だろう。一日も早く教員を辞めるべきだ。私自身が辞めないですむ教員でありたいと思っている。」

研究予算を半分は教員に平等に配分し、残りの半分は申請書を書かせて、なぜ必要か、何のために必要か、どのように発展させるのか、ということを教員に提出させ、愕然としたという事も書かれている。
基本がさっぱり書かれていないとのこと。
こういう事は会社員になって、ある年齢になれば当たり前のことだが、そんなことをしたことがない人が大学教員になっているのだから、無理もないと思う。
ただ、マトモな人なら当然できることだし、そもそも研究とはそういうビジョンがあってやるものだから、それができない、ということは、研究をしていないで暇つぶしをやっている、という事になると思う。

第三章のまとめとして、

「・・教員が勉強し研究することは、すなわち学生たちに私たちが求めていることそのものだったのである。学生たちに求めていることを教員ができていないなんて、あまりに恥ずかしいではないか。教員はサービス業であることを自覚して学生への門戸を開き、学生に求めることは自分でも行うこと、これ以外に弱小大学の教員の生きる道はないだろう。」

と締めくくられている。

第四章では教育のことを考えず、学生確保に走る経営者の事について書いている。
学生数確保にはしるあまり、入試のポリシーがなく、とにかくたくさん来てほしい、という事ばかりになっているのが現実。また、事務局員は学生の立場に立ち、経営者側に立っていてはダメ、という事だ。

社会が望む大学とは、社会に役立つ人間を作ってくれるところであり、それはどんな人間像か?という事について、

第一に、有形無形に存在する社会のルールを守れる人間であり、社会に対する倫理観と使命感を行動にできる人間。
第二に、社会の常識を理解できる人間。
第三に、集団の中で調和のとれた生活や仕事ができる人間。(コミニケーションがとれる人間)
第四に、これらの基本の上に、自分自身でものを考え、判断し、独創性を発揮できる人間。

このうちの最初の3つが教養、というものになる。
だから、今の大学で本当に必要なのは教養教育そのものだ、と作者は言う。

大学教育の目的、というところでは、

「大学教育の本命は、広い視野に立って人生の柱を形作れる教育でなければならない。そしてその人生を豊かに過ごすための知識である。もう少し具体的に言えば、世の中にあるさまざまな現象の相互関係に気づかせ、それらを総合して考える態度をみにつけるようにさせることである。世の中にはいろいろな考え方が存在し、それぞれがそれなりに正しいことがある。真実も真理も一つだけでないことがしばしばある。そんな実態を知るのも、大事な教育のうちである。だから、同じことを教師によって別々なふうに言われても一向にかまわない。それぞれの考え方や正しさの背景には、それぞれの抱えた歴史や環境も影響しているだろう。それぞれの教師が何を基盤に据えて言っているのかを知ることによって、最終的には学生一人一人が判断することだ。そこには当然、相互批判が必要だ。真摯な相互批判が、お互いのよって立つ基盤を理解し、お互いの存在を認め合うことにつながる。これがコミニケーションである。
 だから大学教育は、さまざまな考え方の存在を知り、自分の考えを作り、必要に応じてそれを行動に移させる、その基盤づくりの教育だとも言える。結論は当たり前のこと、人間づくりである。
 現代の弱小大学の広報パンフレットを見ると、いずれも、どんな資格や免許が取れるか、どんな技術が習得できるか、どんな就職口があるか、そんなことが詳細に書いてある。専門学校と同じではないかといぶかられる向きもあるだろう。そのとおりだと思う。しかし、人間づくりはできたが自力で生活を維持することができなければ考えも行動も空疎なものになってしまう。現実を生きる術も身につけさせなければならない。これがいまの弱小大学である。しかし、それが社会、もっと具体的に言えば就職先となる会社や団体が大学に望んでいることなのだろうか。「資格を持っていてくれれば助かる」という例があることも確かだが、「資格などあとから取ればいい。基礎的な学力は必要だが要は人間だ」というのが大方の基本路線のようだ。一言で言えば、資格や免許があるに越したことはないが、それで就職できるなんて甘いこと期待するなよ、ということだろうか。」

「・・受験生の短期的期待であるところの資格や免許などのハウ・ツウ教育を柱に据えるか、長い目で見た若者の将来のための教養教育でいくか。それは経営に主眼をおくか教育に主眼をおくかの視点の違いにかかっていると言えるだろう。たぶんこれからの弱小大学は、比重の置き方がこの二つの方向にはっきり分かれていくことだろう。」

などと書かれている。

長々と引用してすいません。

需要が減少している中で、供給拡大を続ける大学という業界で起こっていることについて知りたければ、この本がベストだと思う。作者はFランクの「崖っぷち弱小大学」の事と言っているが、多かれ少なかれ、すべての大学に当てはまることだと思う。入ってくる学生の半分は推薦入試で面接と基礎テスト程度であり、残り半分も入試とはいえ、2科目程度のマークシートのテストで入ってくる。筆記試験など全くない大学がたくさんある。

なぜ筆記試験がないのか?なぜマークシートなのか?
それは採点に時間がかかるからであり、採点に時間がかかると合格発表が遅れ、そうなると何種類もある入試をもう一度受けてもらうことができないから、という事だと思う。
何とか優秀な学生を取りたい、ということになっているが、要は受験料稼ぎの口実としか思えない。

こんな事が、本当に学生のことを考えてやっていることと言えるのだろうか。

早々に合格を決める推薦入試など、高校にとっては迷惑なはず。
高校3年の、本来なら入試のために追い込みをする頃に、遊んでいる学生が隣にいることになるのだから。
推薦入試の枠がこんなに増えたのは、単に、一般入試を受けて入る学生が増えると、一体どれだけ合格させたら定員程度になるのか、わからなくなるから、という大学側の事情しかないだろう。
しかし、元を正せば、何度も何度も入試をやるから、わからなくなるので、それをやっているのは大学の勝手だろう。
全国一斉に同じ日に入試をやればいいのだ。
今のように入試をたくさん受けられるからといって、受験生の選択が広がった、といえるのだろうか?
10回以上も同じ学部の試験を受けられるというのが、多様性のある学生の選抜ということになっていると、やっている大学関係者は本気で思っているのか。

もともと、多様性のある入試、というのは一生の一大事をたった数時間の試験で決めていいのか?という批判から出てきたのではないかと思うが、それはたくさんの浪人生が出ていた頃の話ではないか。
大学間では多様であっていいと思うが、一つの大学にそんなに多様な選抜は必要なのか?望むものは一つではないのか?
今や希望すれば入れる大学がたくさんあるのだから、全国一斉に日を揃えて、2回くらいやればいいのではないか。
予備校のデーターも昔とは比べものにならないほど充実しているのだし。
推薦というのは、本来の意味通り、マジメに高校が「推薦してもよい」人だけにすればいい。

現状の入試制度は、本当に学生のことを考えてやっていることとは思えない。
共通テストというのも、どうなのか・・・これはわからないが。

要は今の大学のシステムそのものが、金儲けに走って入試科目を減らし、入試回数は増やし、安易に無試験の推薦なるものを増やし、一般教養を軽視し、引きこもったり、研究のビジョンもない教員を放置したり、しているのだ(全部ではないだろうが)。

そう思うと、やっぱり大人が悪いのだ、というのが結論になる。
今の学生が悪いのではない。結果として問題はあるし、正していく必要はあるが、今のようなシステムを放置している大人はもっと悪いのだろう。

哲学ライターの池田晶子がいつか文部科学大臣になる(なりたい)と書いていたが、ああいう人にばっさりやってほしい。

今の大人が、本当に学生のため、ということを考え、一からやり直さないとダメなんではないかと、この本を読んで思う。