2005年7月6日
演劇入門 平田オリザ 講談社現代新書
昨年から、劇団の舞台を見に行くようになった。
今まで、演劇というものについての知識があまりなかったので、本屋で見つけて購入。
講談社現代新書、デザインを新しくしてシンプルになったが、ちょっとシンプルすぎるのでは・・。

外見はさておき、この本はすごく良かった。
こういう本に会うと、ついつい面白かった部分を残そうとするので、長くなってしまいます。
長くて、すいません。・・・先に謝っておきます。

本を読んで、自分の知識を広げるという事は普通の事だが、知識だけでなく、物の見方を変えてくれる本、というのにはなかなかめぐり逢えない。
この本はそういう本だった。
演劇入門、という題名どおり、演劇とは何かという事を書いてあるのだが、作者の演劇に対する理解は演劇そのものだけでなく、現代の文化にまで広がっていき、リアルとは、言語とは、コミニケーションとは何か、という高いレベルまで上がっていく。

いつも何気なく話している会話とは一体どういう事なのか、何がわれわれを喋らせているのかなど、作者の鋭い世界に対する認識に触れて、読者の世界も広がる、そういう類の本だった。
本当にこんな本にはなかなか当たれない。
全く何の知識もなく、立ち寄った本屋で目について買った・・・ラッキーだった。
出会いは突然に訪れるということか。

作者も前書きで言っている。

「この本は、ハウ・ツー本ではあるが、演劇を実際に創る人以外にも、世界や人間について多くの発見を与えることができると自負している。・・・」

人によって得るところは違うと思うが、僕にとっては素晴らしい本になった。

最初から面白い。
リアルな台詞とは何か?というところから始まる。

「リアルな台詞とは何か?
 これは相当に難しい問いかけだ。だが確かに、リアルでない台詞、説明的な台詞、もっと簡単に言ってしまえば、「ダメな台詞」というものがある。
 私が開講している戯曲の講座では、このことを、例えば次のような例を挙げて説明している。
 舞台設定を美術館だとしよう。主人公が入ってきて、いきなり、
「ああ、美術館はいいなぁ」
 と独りごとを言う。これがいちばんダメな台詞の例である。」

この部分を読んでおかしくて笑ってしまった。
そうそう、そんなのあるある、という笑いだ。
こんなとこでこんな事いうヤツおらへんやろ・・大木こだまではないが、思わず突っこみたくなるドラマはよくある。

まずは、演劇の特性である、「台詞だけですべてを観客に分からせる」ための技術論から始まる。
確かに、演劇には地の文はない。小説とは違う。なるほど・・あたりまえのことだが、この本を読むことで初めて認識した。

この本が素晴らしいのは、演劇におけるリアルを問うだけではなく、

「この答えは実は、なぜ、人は、いま自分たちが生きている世界を、リアルなものとして受け止めて生活を続けていられるのかという問いとつながっている。・・」

というように展開していくからだ。
作者の演劇に対する理論というのは、それのみにとどまるものではなく、現実の世界そのものの理解に広がっていく。
それがこの本の面白さだと思う。

現代演劇とは何か、というところでは、非常に荒っぽいが、作者の現代に対する認識と思いが語られる。

「「伝えたいことがある」近代演劇に対して、現代芸術、現代演劇のいちばんの特徴は、この「伝えたいこと」=テーマがなくなってしまった点だと私は考えている。テーマがなくなったというのには、基本的に二つの側面がある。
 まず一つは、それが本当になくなってしまったということ。
 脱イデオロギーの時代と呼ばれるように、ベルリンの壁が壊れ、ソビエト連邦が消滅し、冷戦が一応の終結を見た。また、エイズ、あるいは、コンピューターの異常な速度での発達といった現象が、価値観のいっそうの多様化をもたらし、一つの大きなイデオロギーで複雑な諸問題を解決しようとすることは、まったく無意味になってしまった。伝えるべき思想自体が空洞化したと言ってもいいだろう。・・(中略)・・

 もう一つの側面は、芸術の社会的役割の変化という点が挙げられるだろう。創り手の側からすれば、狭い意味での現実社会(政治や経済の仕組み)を変革するような役割は、政治やマスメディアや大学といった、どこか他のところでやってくれよということだ。
 単純な主義主張を伝えることは、もはや芸術の仕事ではない。・・(中略)・・

 繰り返すが、伝えるべきものがないというのは、伝えるべき主義主張や思想や価値観は、もはや何もないということだ。だが、伝えたいことなど何もなくても、私の内側にはとめどなく溢れ出る表現の欲求が、たしかにある。
 その欲求は、世界とは何か、人間とは何かという衝動と言い換えてもいい。
 世界を描きたいのだ。・・」

今の世の中の閉塞感の一つの要因は、作者が言うように、みんなが共有できる座標軸がなくなったことだと思う。世界の中で、自分の場所や価値を位置づけて、説明すべき軸がないのだ。僕はXではなくYだ、という軸が、昔はイデオロギーというかたちで存在した。資本主義と社会主義、保守と革新、伝統と改革、世界はこうあるべきだ、人間はこうあるべきだ・・などなど。
それが本当になくなってしまったように思う。価値感の多様化が進んでしまった。
だからといって、世界とは何か、人間とは何かということが多様な価値観の中でわかりやすくなったわけでもなく、かえって発散してしまったのではないか。

話が横にそれたが、この部分が「演劇とは何か」の導入の部分であり、第一章で語られている。
単なる技術論ではなく、なぜ演劇を書くのか、というところから話が始まっており、単なるハウ・ツー本ではないすごさがある。

第二章では、場所や背景や問題という戯曲を書く前の設定について書かれている。
ここで面白かったのは、テレビやマンガのシナリオと、演劇の戯曲の構造の違いについて書いてある部分。
根本的な違いというのは、観客との関係だ、と作者は言う。

「テレビやマンガのシナリオは、出来事の連鎖によって、ストーリーを進めていく。しかし、劇作家はそうは考えない。・・(中略)・・
 劇作家は、ストーリーの中で、ある特定の象徴的なシーンだけを抜き出して舞台を構成し、その前後の時間については、観客の想像力に委ねるのだ。逆に、観客の想像力を喚起するような台詞を書くことが、劇作家の技術の一部だと言うこともできるだろう。また、観客の想像力を、うまく方向づけていくということも、劇作家の大きな仕事である。」

「演劇は、映像やマンガのように、出来事の連鎖によって進んでいく表現ではない。他の表現形態に比べて、時間や空間の飛翔に制約のある以上、それは仕方のないことだ。
 私は、第一章で、演劇は制約の多い表現だと書いた。時空間の限定という事柄も、演劇の大きな制約の一つである。もちろん、演劇の中にはいろいろと実験的な作品があり、その制約をどうにか乗り越えようとする作業もたくさんある。だが、一方で、演劇の構造というのは、なかなか強固なものであり、それを乗り越えることが許されない。
 この大きな制約の根元をなすのは、観客の視点、観客の意識だと私は考えている。
 小説は読む時間を読者の側が自由に設定できる。しかし演劇は、観る視点、観る時間がある程度決まっている。少なくとも物理的には、そこに一定の時間が流れている。その一定の時間の中で起こる観客の意識の変化をどう捉えるかが、戯曲を書く上での大きなポイントになる。」

「眼前の観客は、制約上の根元でもあるが、演劇の武器でもある。
 生身の観客がそこにいるということは、逆に観客の側から観れば、生身の俳優がそこにいるということだ。この生身の俳優が観る者の想像力を喚起する力は、映像の比ではない。」

「だが、演劇の場合には、戯曲と演出と俳優の能力が重なり合えば、観客の想像力を喚起して、意識の流れを誘導し、その場にいなくなった人間についての物語も、あるいは前後の時間や、舞台の外側の空間についても、容易に観客に想像させることができるのだ。すなわち、ある限られた空間、ある限られた時間を描くだけで、世界全体をうつし出すことができるのだ。」

だから、徐々にだんだんと状況がわかっていくような展開は戯曲には向いていないという。
戯曲の場合は、できるだけ早い時期に、その作品が「何についての」作品なのか、ということを観客にうまく提示して、観客の想像力を方向づけていくことが重要とのこと。

「ロミオとジュリエット」において、一番重要な問題は、二人が「出会ってしまった」ことであり、それを冒頭の舞踏会のシーンで簡潔に問題提起していることが、この作品を名作にしているという。

ここでいう、問題とは、主人公たちが直面する「運命」だと言い換えることができ、人は何かの運命に直面したとき、明日が今日とは違うということに気がつく。そして、人間として変化を遂げていく・・・それが演劇というドラマの本質だ、という。

なるほど。演劇というのはそういうものだったのか。

第三章では、台詞について、色々と書かれている。
台詞の不自然さ(説明的な台詞)というのは、台詞の書き方だけでなく、場面設定に問題があることが多いとのこと。
人が対話をするのは、情報量に差があるときであり、差がなければ対話が起こらない。長年連れ添った夫婦がしている会話は、二人の情報量がほぼ同じであり、情報の交換となるような話はされない。そこに誰か外から入ってくると、その人と夫婦間には情報量の差があり、そこで初めて情報交換が行われる。これが対話となる。
このような場面でないのに(話者間の情報量に差がないのに)情報交換をするような台詞を書いてしまうと、それが説明的な台詞となり、リアルさをなくす、ということらしい。
要は、単なる日常会話は、観客にとって有益な情報は含まれない、ということであり、それは「対話」ではなく、「会話」になる、という事。対話が成立するためには、その場にとっての他者が入ってこないといけない。

第四章では、「コンテクスト」という事が語られる。

俳優のうまい/へたの根拠は何か?ということだ。
電車に乗っているという想定で、隣の人に、「旅行ですか?」という一言を言ったときに、すでにうまい/へたが存在する。
それはその通りだと思う。
どうして、人によって、それが自然に聞こえたり、不自然に聞こえたりするのか?
それが、コンテクスト、ということだ、と作者は言っている。

ジョン・ロックという人が言っている、私たちの他者とのコミニケーションをとるときの、二つの前提(誤解)は、

1.自分の考えは、当然、自分の考えている当の事物と一致しているものと信じている。
 (表象の一致・・・概念と事物が一致している)
2.自分がある言葉によって表明した考えや物事は、他人も同じ言葉によって表明すると考えている。
 (間主観性の一致・・・概念と言葉が一致している)

ということらしい。
つまり、この表象の一致と間主観性の一致という誤解をしないと、コミニケーションはできない、という事だ。

例として、少し脚の高いちゃぶ台がある時に、それをちゃぶ台と呼ぶのか、それとも踏み台と呼ぶのか、机と呼ぶのか・・・これがコンテクストのずれ、ということになる。

「 新婚間もない男性が、その「ちゃぶ台のようなもの」を必要としていて、新妻に、
「ねえ、あのちゃぶ台持ってきてくれないかな」と言う。妻は
「うちにちゃぶ台なんてないでしょう」と答える・・」

という例が示されている。

「これは、人それぞれに、何をちゃぶ台と呼び、何をテーブルと呼ぶかが違うからである。そしてさらに、自分がちゃぶ台と呼んでいるものは、他人もちゃぶ台と呼ぶだろうと私たちは考えている。これは当たり前のことだ。そうでなければ、私たちは言語によるコミュニケーションをあきらめなければならない。あるいは、自分の言葉が他者に通じているかを、びくびくしながら話さなくてはならない。例えば、外国人と話すときのように。」

「例えば、電子レンジをある家庭では「電子レンジ」と呼び、ある家庭では「レンジ」と呼び、さらにある家庭では「チン」と呼ぶ。これは、家庭ごとに異なるコンテクストを有しているということだ。」

「文化の差異、歴史の差異、文化を基盤とした価値体系の差異が、コンテクストの差異を生む。多くの文化摩擦は、嫁姑関係と同様、ここに端を発している。国際協調もまた、コンテクストの摺り合わせからはじまる点は、新婚家庭と同様である。」

「俳優が他人の書いた言葉を話すということは、すなわち自分のコンテクストを、ある程度、自由に広げることができるということなのだ。演ずるということの本質はここにある。
 だが、この「自由に広げる」という能力にも限界はある。例えば、急に英語やロシア語の戯曲を渡されて、その台詞の意味だけを説明されても、俳優はそれを演ずることはできない。およそ、どんな俳優も、まず自分のコンテクストに照らし合わせながら演技をしているからだ。・・(中略)・・
 すなわち、まず第一に、優れた俳優とは、自分のコンテクストを、ある程度の範囲で自由に拡張できる人間のことだと言える。」

この部分は、目から鱗が落ちる、という感じだった。
本を読んでいて、自分の考えが広がった、という感じがすることはそうそうないが、この説明は、本当に興味深かった。

すごく長くなったが、最後に作者は「演劇の役割」という見出しで、次のように書いている。

「 二十世紀末の日本においては、国家、企業、学校といった共同体が強要するコンテクストが、音を立てて崩れはじめている。
 コンテクストを強要され続けてきた、そして今も強要され続けている子供たちは、しかし、その仮想のコンテクストの無効性を直感し、世界をリアルに感ずる手段を、まったく持たない状態にさらされている。
 私たちは、もう一度、自分たちの共同体のコンテクストを、時間をかけて摺り合わせ、編み上げる作業からはじめる必要があるのだろう。新婚夫婦が行うように、子供たちにも、学校の備品一つ一つをどのように呼ぶかを、時間をかけて、主体的に決定させるところから出発する必要があるのだろう。
 そして、その時に、演劇という表現の役割は小さくないだろうというのが、演劇を生業にしてしまった私の、いささか希望的な観測である。・・」

こういう人の本を読むと、うれしくなる。
自分のやっていることを、世界とのつながりの中でとらえる、という仕事。

演劇、というものについて、今までよりだいぶわかったような気がする。
本当にわかっていればいいのだが・・。

ここまで読んでくれる人がどれだけいるか、わかりませんが、このメモにつき合ってくれた人は、ありがとうございました。
これは、いい本だと思います。