題名を見て、「弱者」とはお父さんのこと?と思った人は不正解。
この本は、社会の中で暮らしていて、何だかおかしい、と思うこと・・「弱者」への配慮のあり方について書かれている。
具体的には、身体障害者(本当は「障がい者」と書かないといけないのだが)、部落差別、マスコミの言葉狩りなどについて、どう扱うべきなのか、というのがテーマである。
「なんかおかしい」と思ってない人は、この本を読んでも、わからないか、腹が立つだけかもしれない。読むなとは言いませんが。
その部分の問題意識が共有されていないと、わかりにくいのではないかと思う。
なんかおかしい、という感覚をプロローグで、作者は3つの項目にして書いている。
1.はっきり口に出して言うのは、はばかられる。
2.言ってみても、変わるはずがない。問題解決の難しさが何となく直感的にわかる。
3.やり過ごしておいても、自分がそんなに損害を被るわけではない。
この部分で非常に共感できるのは、これらの「おかしさ」とマスコミのメディア情報について書いてあるところ。
「少年による殺人、強姦などの凶悪犯罪の検挙数は、現在、やや増加の兆しを見せているものの、それでも高度成長期のピーク時に比べて三分の一ほどに減少している。マスコミなどは、それを言ってしまうとニュースにならないせいか、そういうデータを決して公表しようとしない。問題を問題として取り上げる専門家や評論家なども、自分たちのはじめの「驚き」そのものが、マスコミのセンセーショナルな情報提供の仕方によって動機づけられていることに無自覚過ぎると言えよう。彼らはほんとうに子どもが「大変なことになっている」のかどうか、またそうだとすれば、どういう意味においてそうなのか、一歩身を引いて考え直してから議論に参加すべきである。」
「問題はむしろ、メディア情報を一種の「見世物」として消費し続ける私たちの空虚な心のあり方のほうにある。ほんとうは、私たちは、それらのテーマを本気で考えようなどとしていないのだ。本気で考える必要性を自分の日々の生のなかに感じていないからである。」
この部分は、「弱者」はおいといて、そのとおり、と思った。
メディアの情報を見ても、「この問題についてとりあえず自分のできることをやろう」というような方向には行かないように思う。
また、「弱者」について考える作者の目は、現在の「弱者」のカテゴリーに入っていない壮年期の健康な男性に向けられている。
「最近の中高年男性の自殺は、経営に行き詰まった中小企業主ばかりではなく、大企業の役員も多い。また有名人もかなり目立つ。伊丹十三、新井将敬、桂枝雀といった人たちである。この人たちは、言わば、「社会的な強者」である。少なくともまわりからそう見なされてきた。しかしこれら一連の事実は、一見そういうカテゴリーに分類される人が、必ずしもそうではないことを象徴的に示している。
「弱気を助く」べき存在として規定された人たちがじつはそんなにそれにふさわしい存在ではない。戦後民主主義が施してきた「救われるべき弱者」と「救うべき強者」の社会的分類と、それにもとづく「何でも福祉」の考え方はもう古いのである。だれが弱者か、どういう意味でそうなのかが新しく問われなくてはならない。」
シルバーシートの問題・・これは色々なところで取り上げられているが・・それに対する違和感がおさまらない、と作者は言う。
賛否はあるだろうが、作者はこのように言う。
「 つまり「優先席」の存在そのものが、自然な同情や親切心の発露を封じ込め、かわりに、気後れやこわばりの意識を誘発しているのだ。この種のものはない方がいいのである。あるいは、あってもなくても同じであって、そういう配慮のためにお金や神経を費やすのは無駄なことである。こういう「装置」を外側にセットしておくことで、「弱者」へのいたわりの心が成長するような啓蒙的効果が期待できるなどと企画者が考えているとしたら、それは、大きな間違いだ。「お年寄り、体のご不自由な方、小さいお子さんをお連れの方には席を譲りましょう」の放送のたぐいの至っては、ただうるさいだけで、その説教の無意味さにはうんざりする。たぶんだれもまともには聞いていないだろう。」
ちょっと、きつすぎるような気はするが、基本的にはそのとおりだと思う。
「前近代から近代にかけて、歴史はたしかに大きく変化してきたのだが、それは必ずしも「よい」方向一辺倒への変化とは言い切れない。この歴史的変化によって、近代の平等社会固有の厄介な問題も生まれたのであり、まさにその厄介な問題の一つが、本書で取り上げているような「弱者」問題なのだ。」
この意見も、そのとおりだと思う。
でも、これは言いにくい。なかなかこういうことを堂々と言える人はいない。
もちろん、作者は「弱者」に対する配慮すべてを悪いと言っているのではない。
すべてが「よい」方向に進んでいる、と考えることが、「私たちの時代そのものに対する健全な懐疑精神を隠蔽することにつながる」からだ、と作者は言う。
また、作者の問題意識は、障害を持つ子供を敢えて産んだ親の出産記事の記者が書く、「障害を持つ子を誇ろう」というようなレトリックについても、「なんかおかしい」という感覚を述べている。
そういう記事を読むと、「聞いているこちらが恥ずかしくなってくるような居心地の悪さがつきまとう」ということである。
「マスコミ記事特有の扇情的なトーンと、その背後にある思想(イデオロギー)のうさん臭さ」の問題である。
これも、言いにくいが、そのとおり、と思う部分。
「 「苦しみ」はやはり「苦しみ」なのであって、それ以外のものではない。もちろん、それを背負った当事者が、なお生き抜くために、自分たちのつらい現実を「前向きにとらえ」ようとしたり、この子は神が自分たちに与えた試練だと一生懸命思おうとすることは、人間の心情として、理解できるし、必要なことでもあろう。
だが、それは、あくまで彼ら自身の生きる必要(社会の無理解や偏見や制度の壁と闘うために自己を強くする必要)に発し、彼らの生活から立ち上る固有の感覚を通して踏み固められた内部感情の範囲を逸脱すべきではない。」
「ごく常識的な感情の持ち主なら、「障害を持つゆえにわが子を誇る」気にはなれないし、この世界を「ひどい世界」と決めつけることに対しても疑問に思うだろう。また、子どもがこの世に生を受けた意味を、「このひどい世界を変えるために生まれてきた」などというところに求めはしないだろう。さらに、障害を持つこと自体が「すごくうれしい」などと感ずるのは倒錯しているとしか考えられないし、自分の子が「勇気ある子」だなどという判断をこんな文脈で下すのは不適切だと感じるだろう。」
こういう事を言うマスコミがいないのはなぜだろう。
あくまで、障害者の家族や本人に言っているのではなく、報道の姿勢に対して、うさんくさい、と言っている。
第二章で、作者はこのうさん臭さは、「平等」や「個性」を金科玉条とする戦後社会のイデオロギーに通じている、と言っている。
「・・しかし、過熱した受験競争で子どもが苦しんでいるのが子どもをめぐる諸悪の根源だからそれを何とかしろという、時代遅れの認識は現在も衰えることなく続いている。」
「未発達な段階にある早期の子どもに、一人前の「個性」の存在を前提すること自体がおかしい。「個性」などというものは、もともと、社会の壁に突き当たる過程をくぐり抜けることを通して、しこから次第に頭角をあらわす形でしか実現していかないものである。」
「つまり、「平等」と「個性」を二つながらに理念に掲げることは、外から見れば明らかに自己分裂しているのに、その主観的・心情的な意図においてはうまく重なるのである。かくして人権民主主義的な「手品」は行われる。」
この中で、作者はある学校で成績上位者をはりだした事に対して、文句をつけた大学教授が音頭をとっている人権グループを痛烈に批判している。
「彼らの幼稚な観念の中では、人間どうしの間に何らかの序列や格差や競争が存在すること自体が「許せない」ことなのであって、学力や能力という尺度で人を選別することそのものが「あってはならない差別」なのである。彼らは近代社会の正しい意味での平等原理や「差別」の概念を誤解しているだけではない。自分が生活や表現活動の足場にしている「大学教授」のような社会的地位が、知的格差と競争を前提としてしか獲得できないものであることすら忘れているのだ。」
本当にこの手のインテリはかなわないと思う。
時々、権利の裏側には義務というものがセットになっているのを知っているのか、と言いたくなる。
部落差別についても、差別の観念化の発生、、現代の状況とのズレ、差別のイメージの固定化などについて、興味深い検証をしている。
第3章の共同性の相対化、という章では、「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない」という言い方についての反論や、差別についての教育を受けたりしたときに、「自分も知らず知らずのうちに差別者の側にいるんだということがわかりました」といった殊勝げな「反省の弁」に対する批判などが書かれている。
これらは、被差別者でなければ差別者の側に括られる、という単純二分法にいわれなく膝を屈した、という状態ということになる。
「こういう単純二分法に力を与えているのは、「被差別者」の実存的な苦しみや切実さであるよりは、むしろものごとをわかりやすい一般的な倫理道徳的感情で整理してしまおうとする怠惰な意志である。大事なことは、ある「被差別」感情や「弱者」感情を持つ者と、それを持たない者との間に、どうやったら橋を架けられるかなのである。そして今問題にしているのは、持たない者の側からそこに迫るうまい方法を見つけだすことだ。
私はこう思う。特定の被差別感情や弱者感情を持たないものの側からこの問題に接近する最低限の条件は、内部からの「聖化」を避ける方法と基本的に同じである。つまり、自分がなぜそのことを気にするのか、自分がそのことを問題にしようとする必然性はどこにあるかということを、自らの経験と感覚のなかに問い尋ねてみるのだ。」
この、「怠惰な意志」という言葉が、弱者差別についてのうさん臭さを表しているのではないかと思う。
被差別者は良い、差別者は悪い、という単純二分法で片づけてしまおう、という意志が怠惰なのだ。
差別語の規制のところでは、
「しかし、日常のなかでの人間関係のあり方が変わらない限り、逆に、言い換えられた新しい言葉が、再び手垢にまみれて差別的な語感を獲得しないという保証はない。「語感」という不思議な事実の秘密は、どんな意味でも、その「語彙自体」の内部には存在しない。私たちがそれをどのような文脈や生活の関係のなかで使いこなしてきたかという経験の歴史にしか求められないのである。
・・(中略)・・
これらの自主規制は、結局のところ、人間性というものを安っぽく平板なものに見積もる方向に私たちを引っ張ってゆく。私たちは、「障害者や被差別者のことをいつも気遣わなくてはならない」というせせこましい掛け声にただ従うのではなく、そのような掛け声に対しては、「すべての障害者や被差別者が、そんなことにいちいち傷つくほど、ひがみ根性や被害妄想に支配されているはずがない」という考えをそのつど対置するべきであろう。それによって、人間というものが、もっと自尊心と余裕を持ったおおらかな存在でありうる事実を示すことができるからである。」
これも、実感できる。反対の人もたくさんいるだろうが・・。
あとがきの最後に、作者は、「マイノリティ」当事者でない自分がこういうテーマを論ずることのむずかしさに圧倒されて、「ほとんど挫折しかけたことさえあった」と書いている。
それを助けてくれたのは、編集者の執念と問題意識の深さがあったからだ、とのこと。
こういう本を書くのは、本当に大変だったと思うが、「怠惰な意志」に対抗してこの種の問題を語るための貴重なテキストだと思う。
読むのも大変だが、作者の努力には感心する。
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