2005年8月28日
考える日々3 池田晶子 毎日新聞社
最近書くことが増えて、読む方が滞ってしまった。
サンデー毎日に99年末から2000年末まで連載された時評をまとめたもの。
このシリーズも3冊目になる。

相変わらず読んでいて気持ちがいい。
いろいろなことが、切れ味のいい包丁でさばかれて、きれいな切り口を見せてくれるような感じである。

連載時期が世紀末だったため、その関連の時評が多い。

この人の書くことは、とにかく首尾一貫していて、全くぶれないのが好きだ。

高度情報化時代が加速しているということに触れて、

「時代が加速していると言ったが、そんなことは、こっちの側から見てみればウソッパチで、一人の人間が一生のうちに感じ考え得ること、その幅は、ほんの少しも動いていない。生まれて死ぬまでの間は生きているという、人生の形式が動いていないからである。時代が動いているというのは、主客転倒の錯覚であって、動いているのはあくまでも、一人一人の人間である。ただその数が、近年飛躍的にふえたぶんだけ、出来事が増えたように見えるだけであって、他人の出来事を自分の人生として生きなければならない如何なる理由もない。何が忙しいのか。(生きるために食べている)」

世界宗教者会議でのクローンなどの生命操作に触れて、

「もともと宇宙とはそんなものだったと、言えば言えなくもないのかもしれない。彼岸も此岸もないごちゃごちゃの混沌が、すなわち存在の現象形態であって、その不可解不思議に耐えかねた「人間」が、苦しまぎれに「神」という観念をでっち上げたのだというのが、実は真相なのかもしれない。(「永遠の生」という異常事態)」

就職、就労については、

「「フリーター」という職業名が、正式なものになったと聞いた。その語感の示すような、自由気ままなアルバイト暮らしというのは、若いうちにはその大変さは、たぶん自覚されない。けれども、そのまま最後までヌクヌクゆけるものではないこと、また、フリーターを選ぶような人には、そのような人生はちっとも面白くないだろうこと、ちょっと覚えておいた方がいいかと思う。それなりの覚悟あっての、それなりの人生ということである。(生き残るだけが価値ではない)」

携帯電話の普及率に触れて、

「先日のニュースなど、近所でおいしいキムチを作るおじさんがいるので、このことを全国の皆さんに是非とも知らせてあげたい。で、その情報をインターネットテレビなるものに作成して流している人のことを、これまたテレビで放映しているわけである。
 そうまでして、そうするべきことなのだろうか。自分たちがいかに無内容なことをしているかということを、今やそこにいる誰もがわからなくなっているのだ。これは驚くべきことである。
 情報伝達機器が発達するほど、伝達される情報の無内容が露呈してくるというのは、皮肉なことだ。当然といえば当然である。伝えるべき内容を発達させずに、伝える手段ばかりを発達させてきたからである。そもそも「何を」伝えたいのかという然るべき問いを、なぜ所有せずにいられるのか、それが私には不可解である。「便利になる」、大変けっこうなことである。しかし、便利になるほど人が馬鹿になるのは、どういうわけなのだろう。(そうまでして、そうするべきか)」

日本人、というアイデンティティについて、

「これはもうずいぶん繰り返してきたように思うのだが、「自分は誰それである」と言おうとする時、もしその発言に確実さを与えたいなら、「誰それ」以前のその「自分」が、先に知られているべきなのである。なぜなら、「誰それ」とは、「自分」によってそう思われることによって「誰それ」なのだから、それなら、そう思っているところの「自分」とは誰なのか、先にそれを知ることなしに、「自分は誰それである」とは言い得ないはずだからである。
 世に言う「自分探し」とういのが間違えているのはここで、あれはそうは言っても、その「自分」というのを、じつは知っている気になっているのを知らないだけなのである。その証拠が、あれでもないこれでもないと、自分の誰であるかを探し回れると思っている当の行為である。しかし、「自分」といのは、あれこれ以前にまぎれもなくここに在るものなのだから、探し回れるはずがない。「自分」といのは、探すものではなく、考えるものなのだ。(日本人の誇り)」

小渕総理の入院のことに触れて、

「どうして政治のことを書かないのか、もっと政治家のことを批判すべきではないかと言われることもあるのだが、ああいう人々は私の精神活動において、およそ「批判」の対象になど、なり得ないのである。猿や狸の行動様式について、人間が理性により批判を加えるものだろうか。動物行動学者だって、彼らはそれを「観察する」のであって、対等に「批判する」といったことはしないであろう。(耳を貸すだけで時間の損害)」

17歳の殺人に触れて、

「いったいどこが不可解なのか。あるいは「孤独な心の闇」と言う。なんでこんなものが心の闇か。
 こんな薄っぺらな言動を、何か深遠な預言でも受け取ったかのように深読みしようとし、少年たちのサインを見逃さないで、などの阿呆なことを言っている。いつまで寝呆けているつもりなのだろう。
それほどまで死について興味があるのなら、他人を殺す前に、自分が死んでみるべきである。そうではなかろうか。
 存在感がないことが悩みなら、それを苦にして自殺すればいいのである。そうではなかろうか。
 青年期の一時期、生死について悩み、自意識過剰になるのは当たり前のことで、そういう時は、かつてなら、自殺を考えるか、実際に自殺するかしたものだ。そうではなかったろうか。しかし、自分のことで悩んでも、誰も他人を殺そうとはしなかった。これはどうしてなのか。
 言うまでもない、自分のことを悩むことと、他人を殺すこととの間には、いかなる関係もないからである。自分の存在、自分の生死、まったく正当に不可解であるこれらの事柄が、他人を殺すことで理解できることになるわけがない。死が不可解で、なぜ他人を殺すのか。
 あれらの少年たちが、自殺をすることなく他人を殺すのは、要するに、悩み方が足りないのである。思い詰めたことなどじつはないのである。自殺をするよりも、注目されたい、つまり自分ではなく他人を見ている。たんに甘えているのである。(そうでなければ、それまでだ)」

何年たっても、これらの文章は色あせないと思う。
何で自分が存在するのか?それには答えがないし、答えがいつか出ることもないだろう。
だからこそ、いつまでたっても池田晶子の本は生きつづける。
答えのない問いを問い続けている人はえらい・・誰にでもできるはずのことだが。