ギターを習い始めたり、他の書き物が増えたりして、滞ってしまった。
この本は、以前読んだ「会社はこれからどうなるのか」という本の続編。
著者によると、一連のライブドアの騒動があって、これを出そうと思ったとのこと。二部構成になっている。
第一部は、文字通り「会社はだれのものか」について、著者の考えてきたことを書いている。第二部は対談の収録。対談相手は企業関係者二人と糸井重里。
第一部の「会社はだれのものか」は、前作の「会社はこれからどうなるのか」よりも内容がくだけていて、読みやすいし、わかりやすいと思う。
株主資本主義の本場であるアメリカで、著者が考えたことは、アメリカの信奉している株主重視の会社経営は間違っているというもの。「法人」という摩訶不思議なものの、モノとヒトの両面性を考え、いったいどちらを重視するのか、という問いを立てている。
本の中に出てくる、八百屋とデパートの比喩は、法人の両面性をわかりやすく説明している。
著者の考えは、アメリカの会社経営は法人のモノの側面を重視しすぎであり、「会社」は株主だけのものではない、というもの。実際に働いている人間にとっては、すごく共感できると思う。「会社って一体何なんだろう」と思うサラリーマンは、是非読んでみてください。
著者は、会社のヒト性を強調してきたのが日本の会社であり、アメリカで主流の考えである、会社のモノ性を重視し、売り買いの対象とするような株主主権論は、法理論上の誤りだ、と言い切っている。
そして、会社のヒト性を重視することで、社会の中での会社のふるまいを考えるに至り、会社の「倫理性」を語る。コーポレート・ガバナンスという「会社統治(企業統治ではない)」の話である。
エンロンの事件は「・・経営者は、まさに会社と信任関係にあり、会社の目的のために自己利益の追求を抑えて行動する義務を負っている。つまり、自己利益の追求を原則としている資本主義が、その中核に倫理性を追求するという逆説がここにはあるのです。・・(中略)・・資本主義とは、いうなれば、その中核の部分で、人間が倫理的であることを必要とした社会体制なのです。」という事に反した事例であるという。
資本主義が、その中核の部分で、人間が倫理的であることを必要としている・・・これはすごい言葉だ。
僕らは若いころは、資本主義は悪であり、社会主義こそが目指すものである、という論調が幅をきかしていた時代だった。
その世代に生きて、アメリカに渡り、この言葉を語る・・この本は学術的な本だが、胸にじーんと来る。
自分の生きている世界を肯定する理由を与える言葉になった。
この言葉でようやくわかったことがある。
一部の非営利法人の倫理性の欠如である。
たくさんある、特殊法人など(学校法人も含まれると思う)の利益配当を目指さない(と名目上言って、税金を免れている)非営利法人が、色々と倫理に反する事件を起こしているが、これは、それらが利益を上げることを通じて、社会的にヒトとして生きるという法人の基本的な性格をゆがめたため、結局、資本主義の中核の部分から外れてしまい、そこで「人間が倫理的であることを必要とした」体制でなくなってしまう、という事なのではないだろうか。
ファミリー企業との癒着や、談合、いい加減な経営・・これらはすべて、非営利というところから来ており、いくら法律を変えたり、情報公開をしたりしても、その中核の非営利性をなくさないと、彼らの倫理性は回復しないのではないかと思う。
営利団体がすべて倫理的であって、非営利団体がすべて倫理的でないというのではない。しかし、営利行為こそが資本主義の中核であるから、その部分の欠落というのは、倫理性にとって致命的なのではないかと思う。
また、これからの会社のありようとして、ポスト産業資本主義という言葉が出てくる。
前作に強調されていたが、これからの会社が利潤を上げるためには、「お金=資本」が必要なのではなく、他の商品・サービスとの「差異=知恵」が必要なのだ、ということであり、それを生み出せるのは「人間」しかない、ということである。
ヒトの頭脳、知識や能力、ノウハウや熟練・・これが差異を生み出す力だ。
これは正しいと思う。よい会社はヒトを切り捨てない。そのために利益を上げつづけるのだと思う。
「会社に対する究極的なおカネの供給者は株主です。以前はそのおカネで機械制工場を買えば、利益をあげられたがゆえに、株主が会社の支配者の地位を保っていた。だが、もやは機械制工場を持っているだけでは利益を生みだすことはできない。ポスト産業資本主義の時代とは、おカネの供給者としての株主が、違いの創始者としてのヒトに、会社の支配者としての地位を譲り渡さなければならなくなった時代だと言えるのです。現代とは、株主主権論が、理論上だけでなく実践上も、その正当性を失いつつある時代なのです。」
そして、最後に、今はやりのCSR(Corporate Social Responsibility)=企業の社会的責任についても言及している。
株主主権論が正しければ、会社に社会的責任があるとすれば、唯一それは利益を最大化することである・・とミルトン・フリードマンというヒトが言っているとのこと。この主張の原点は、徹底した個人主義であり、会社とはそもそも個人の利益追求の道具にすぎない、とされる。
しかし、株主主権論は法的に間違っている、という著者の立場からCSRを考えると、元になるものは、資本主義経済にも国家システムにも還元されない市民社会というものになる。この市民社会というものは、ヒトに対して自己利益を越えた「何か」を追求し、法的な義務を越えた「何か」を自らに課す個人の存在を前提とすることになる。この「何か」こそが、「社会的な責任」であろう、という。
この「社会的責任」が具体的にどのような内容であるかは、時代や社会によって変化するが、このような市民意識の成熟が、同じ社会の中で法人として活動している会社に対して、それをヒトとして承認するための社会的な存在理由として、たんなる利益の追求を越えた何か、法的な義務を越えた何か、を要求し始めているという事実が、世界的なCSRに対する関心の高まりの背景だという。
「・・人間は、歴史の中で、徐々にそのファンダメンタルズを増して、少しでもまともな社会を実現しようと努めてきたのです。
「会社はだれのものか」というこの本の問いかけにたいする基本的な答えが、ここにあります。語呂合わせに聞こえてしまうかもしれませんが、会社は社会のものなのです。」
これが第一部の結びの言葉となっている。
自らの住む社会を肯定的に捉え、自己利益を越えた「何か」を自らに課す個人のを前提にする、という倫理観・・これは日本的な考えなのかもしれない。すごく共感する。
第二部は対談である。いずれも示唆に富む対談だが、最後に糸井重里と対談している内容が面白い。
著者が「なぜ社会科学が存在するか」という事について話している。
人間は、「言葉」と「法律」と「おカネ」を使うからサルと違う、という。そのような「人間が作り出しちゃったもので、その媒介によってはじめて人間が人間になるような存在」を扱うのが、社会科学である、というのが話の内容。
後半で、神の存在、命が有限であること、「わけのわからない使命感」、「人間はどうしようもないけれど、偶然、何かいいことをする」ことなどについて語っている部分は、著者の生き方、倫理観が出ていて興味深い。
すごく、面白い本だった。読んでから、だいぶ考えさせられてしまった。
|