これは、「ケータイを持ったサル」の続編。
携帯電話がどんどん多機能になり、IT化が進んで、人間は日常のわずらわしさから解放される・・という風に世の中が進んできた、という視点からケータイを捉えた上で、作者の考えが「はじめに」の部分で書かれている。
「 ただ問題は、それで私たちは本当に、より人間的な営みを実行できるようになるのか、ということである。わずらわしい、生きるための諸々の作業から解き放たれた時間を、有効に使うようになってきているだろうか?
とてもそのようになっているとは私には思えない。むしろまったく正反対の現象が起きているふしすらある。つまり、人間はむしろ非人間化しつつあるのではないかという印象を受けるのだ。実は私たちは、わずらわしい日常に埋もれているからこそ、人間性をまとっていられるのかもしれない。
科学技術が発達し、身の回りが便利な人工物で埋めつくされることは、生活の煩雑さを解消してくれるとともに、私たちの文化的な「まとい」をはぎ取ることにつながるのかもしれない。行き着く先は、「裸のサル」ということになる。現に、今世紀、日本人はそうなっていく可能性が充分高いですよということを、この本で書いたつもりである」
これが、作者の問題意識である。
第一章 出あるく
第二章 キレる
第三章 ネット依存症
第四章 文化の喪失
第五章 サル化する日本人
という章立てになっている。
最初の出あるく、というのは、現在問題になっている「引きこもり」の反対であり、そこに目をつけたところが面白い。
さすが、サル学者だけあって、昔の若い人の家出が今まで行ったことのないところへ出かけるのに対して、今の若い人の家出は、未知の領域に出かけることはなく、自分のなじみのところを徘徊する、というところに目をつけて、それをサルの「遊動」と関連づけている。
「 つまるところチンパンジーは、離合集散しつつ遊動・採食をくり返して生活しているのだが、これは少なくとも形式的には「出あるき人間」の日常と非常に酷似している。
渋谷センター街を歩いてみよう。平日の昼下がりであっても、通年、若年層を中心とした「遊動」が観察できる。彼らはまずまちがいなく、仲間とともに行動し、単独でいることは少ない。グループ同士が出会うと、軽く立ち話を交わす。
チンパンジーもパーティー同士が遭遇すると、「ホッホッホッ・・・」と音声を交換する。ダーウィンは、この種の音声から人間の笑い声が生まれた、と主張した。そののちおもむろに別れる。
別れる際、メンバーは以前と入れ替わるかもしれない。それは、渋谷でも変わらない。しかも行動範囲を追うと、結局のところ渋谷を出ることはなく、さほど遠くへ足を伸ばさない点も似ている。新宿はおろか、原宿へもいたることはないのだ。新宿・原宿をそれぞれ拠点とする者とは、「遊動域」を異にするのである。
(中略)
こうした「出あるき人間」の数は、ここ五年で劇的な増大を遂げたと私は推測している。
(中略)
増加の引き金となったのは、疑いもなくケータイの普及である。そもそも、何日も家を空けたままにしておいて家人は心配しないのかと、ふつうなら誰しも不思議に感ずるのではないだろうか。
しかしあにはからんや、「出あるき人間」の家人はもう達観していることが多い。そして、「ケータイを持っているから」という。
ケータイを持たせてあれば、いつでも連絡が可能である。だから夜になって寝に帰ってこなくたってかまわない、と「出あるき」を容認するのだ。どんなに離れていたところで、「いつもつながっている」という感覚が安心感として作用する。」
実際にこういう家があるのは聞いたことがある。
この後、出あるき人間のパーティー(グループ)の原則が書かれているが、作者は、ケータイメールの利用によって、共時的な共存感覚を作り出す、という事を観察している。
「 結果として、以前にあったような家族、友人、そして知人という、つき合いの同心円構造が解体してしまった。一つ屋根の下に家族として集まって暮らしていること、すなわち空間的近接性は、共時性の重視の前には、大したことではなくなってくる。ケータイは、空間を飛びこえるのだ。
そして友人、知人の一部が、平等主義の下に穏やかに組織された社会の中で生活している。いわゆる家族などというものが、いかに人工的にこしらえられた、文化的産物であったかがわかる。」
第二章の「キレる」では、今の日本人の特徴である、キレるという事象についての考察が書かれている。
キレる、という事を生み出す土壌として、コミュニケーションの仕方や質の変化というところに目をつけている。そのあたりがさすがである。
言語的なコミュニケーションは、言葉の意味だけではなく、言語の情報を手がかりに、推論によって相手が何を伝えたいのかを推しはかるものであり、言語を使って会話しているだけで、「言語的」な意志疎通をしているとはいいきれない、という事らしい。
それは、音の組み合わせである言語以外に、イントネーションや声の調子、顔の表情、ジェスチャー、話がなされた場の状況、過去の記憶から話し相手に関する知識も引き出し、総合的に相手が何を伝えたかったのかを判断する、という行為であるらしい。
つまり、言語という記号性の高い情報伝達手段であるが、その記号の指示する意味の適切な解釈を支えているのは、全く記号的ではない側面だ、ということになる。
このような「意図明示的で推論的なコミュニケーション」がケータイメール依存などで衰退している、というのが作者の指摘。
一方で、「キレる」という現象は、「行動に走る者の短絡性と動機の不明性」が特徴であり、それが衝動的としか把握できない点が、従来との違いであるという。そして、その解釈不能性が「心の闇」と取り沙汰されている。
しかし、実際には「心の闇」と衝動的な行動というものは、全く反対の関係だ、という。
「心の闇」には想念が必要であり、想念は言語化されていることが必要である。言語には文法構造が含まれており、ここに知覚された情報を流し込むことで内容が心の中に貯えられる。
「 そして現実に、ことばを操る程度には個人差が存在するのだ。端的に自分の身にふりかかってくる出来事を、心の中で言語的に再構成する傾向の高い人間と、そうでない者がいる。その後者にあたる、しかも著しく言語操作を行わない例として、「キレ」やすい人間を位置づけることができるのである。」
この後、脳の中のワーキングメモリーが視覚的情報と言語的情報を一時的に貯える、という人間の機構的説明があって、それと生活のIT化が結びつけられる。生活のIT化は、視覚的情報に頼る人間を生み出すのではないか、ということだ。
しかし、人間を人間たらしめているのは、言語的情報であり、それが退化していっているのが「キレる」という行為の原因であり、「心の闇」というようなものではない、という。
「 人間は生物である。生物は自己の生存のために、瞬間、瞬間に判断を下す。その即時的判断を一時的に停止し、「私はこう思っている」と自らの心中を再認しはじめたとき、人間は単なる生物から脱却したのだが、今や出発点に逆戻りしてきている。「一匹」の存在として暮らす者に、「心の闇」などありうるはずもないのである。」
第四章の「文化の喪失」というところでは、人間の認知的集団という興味深いことが書かれている。
人類学者ダンバーのフィールドワークによると、現代の人間が社会的生活を営む環境の規模は、150人を平均としたまとまりが最適な形態だという。これは軍隊や会社、宗教組織の機能単位の規模とも一致している。
機能集団としてのまとまりが維持されるか否かの鍵は、ひとえに集団内のメンバーが直接的な個人的つながりを保てるかどうかにかかっており、その臨界値が150人という規模であるらしい。ここ200年のうちに兵器や戦術は大きく変化したが、中隊の規模は安定して150人のまま、という事が傍証になっている。
この観点から見たケータイの普及とはどういう事かというと・・。
「 個々人がケータイを所有することで、いつでも誰とでも情報交換できます、という。しかもなしくずし的に、今までの集団のまとまりは度外視してやっていこうというムードで、日常が変わりだした。いわば、ケータイで通信が便利になったから、従来150人構成であった中隊の規模を四倍にして、さあそれで戦争に行きましょう、というようなことを始めてしまったとも受けとめられよう。
けれども人間の心というのは、そうおいそれと状況の変化についていけないらしいのだ。またケータイをはじめとするIT機器も、とても対面的コミュニケーションに代替えできるほどのキャパシティーを有していないことも無視できない。
実際のところ、私たちは以前とは比べものにならないほど多くの他人と、「つながる」ことができるようになったのは事実である。じじつではあるが、「私」への「他人」からのフィードバック−−それは「私とは何か」を決める重要因子である−−は、たいへん曖昧模糊とならざるをえない。結局のところ、そのまとまりはダンバーのいう認知的集団のまとまりには及ぶべくもないものである。」
それによって、私たちの「自分」は外界へと大きく拡げられてしまい、自他の区別の境界が曖昧になって、「自分探し」をしないといけなくなったり、あげくのはてに、「出あるき集団」の下に離合集散をくり返したりするようになった、という。
そして、オウムの事件を例に引きながら作者は言う。
「・・人々がお互いに、自分の思いをぶつけ合うことがない一方で、コミュニケーションの手段ばかりが簡便で効率的になる技術を研究したところで、それが一体何になるというのだろう・・」
第五章「サル化する日本人」の冒頭で、人間はいつ人間になったか?という問いが出される。それに対して、
「しかもやっかいなことに、人間をサルから分けるのは何によってなのかという問いかけは、それ自体、問題設定が科学のそれではすでになくなってしまっている。もはや、思想・哲学の領域の問いかけとなっている。それというのも、人間を人間たらしめるのはどういう点においてであるのかは、その人の世界観によって大きく左右されるからに、ほかならない。」
作者はそうことわった上で、おおよその最大公約数的な人間観として、ホモ・ロクエンス−ことばを持った動物−と捉えよう、という。
言語の獲得が、社会性やルールの認識、公共性というものを生み出し、思考や社会のあり方を大きく変える原動力となったのだ。
そして、その結果、「私」という存在を他者のとの関係のなかで把握する、という人間の世界ができたということになる。
ところが、IT化によって、その関係の枠が途方もなく拡大し、かつ輪郭が曖昧になり、結果として、「私」というもの自体が、とらえどころのないものに変質してしまった。
「 ひとりひとりが誰であるかがはっきりしないのだから、個人をベースとした社会的交渉は成り立たなくなる。私の世界と公の世界の区分は不明瞭となり、もっぱら前者での暮らしに甘んずる者が増加する。おのずと後者と区分された形での生活単位である家族も、形式的なものとなっていく。」
「 要するに人間は、言語遺伝子が進化した10万年あまり前のすがたに近いところへ、戻ってしまったことになる。これをサル化と呼ぶことに、私自身はあまりためらいを感じないのだ。
近代合理主義は、啓蒙思想以後、神に取って代わる存在に人間を据えようとしてきた。そういう潮流の下で培われた技術が、依然として伝統的なあり方の人間が暮らす地域での生活を、いびつな形で変容させたのが、二一世紀の私たちの姿といえるのかもしれない。
むろん、影響を被るのは日本人にとどまらないだろうというのが、ここから得られる私の推論である。以前、私は社会のIT化をケータイに代表させ、昨今の日本人を「ケータイを持ったサル」と表現した。わが国におけるケータイの普及率には目を見張るものがあるものの、地球上には日本よりさらに、流布している地域があるのも事実である。北欧がそうであるが、興味深いことに「ケータイを持ったサル」は彼の地には出現していないらしい。
この事実を、彼の地が成熟した個人主義社会であることと結びつけずに考えるのは、困難だろう。他方、韓国などは反対に、急速に日本型のケータイ文化に「汚染」されると予想される。おそらく台湾やインドネシア、そして中国も同様なのではないだろうか。
(中略)
あげくのはてに、人間は時と場合によって、10万年あまりをかけて習得してきた人間らしさを、かなぐり捨てざるをえないような状況に追い込まれているのかもしれない。「裸の人間」こそが二一世紀の人間像の典型であるとすれば、それは何とも科学の進歩の皮肉な結末というしかないだろう。」
さすが、霊長類研究所でサル学をおさめた人だ、と感心した。
極論だ、という異論もあるだろうが、大局的にみて、賛同できる。
特に、「キレる」という行為を、言語能力、コミニケーション能力と結びつけるというのは、正解だと思う。
「心の闇」というようなものではないだろう。
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