2006年1月5日
進化しすぎた日本人 杉山幸丸 中公新書ラクレ

この人は、「崖っぷち弱小大学物語」の作者。

こないだ読んだ、「考えないヒト」の作者である正高信男と同じく、サルを研究してきた第一人者である。

サルを見てきた人たちが、期せずして今の世相を鋭く分析している。
あくまで、人間も生物であり、その行動は生物としての基本原理からは外れていない、というものの見方が、これら二人の優れた洞察を生んだんだと思う。

「はじめに」に書かれている。

「 医学が次々に登場する新しい病気に立ち向かう道は、大きく分けてたぶん次の二つがある。まずは症状を抑える薬を与え、患者の行動を一時的に管理・制御し、症状が少し改善したら、あとは患者の回復しようとする体力と気力の後押しをする。これが第一。もう一方には、病気の原因と発症のメカニズムの追求を行う道がある。目の前の病人を救うには、当面第一の道が必要だが、病気を根本的になくすには、遠回りのようだが第二の道が欠かせない。 
 最近、精神科医や臨床心理士やカウンセラー、またはそれらに類する人たち、さらには体験者によって書かれた、ひきこもり傾向にある人たちに向けた対策の本が書店にたくさん並んでいる。症状の分類から事例紹介、それらへの対策成功例やアドバイスなど、こと細かに書かれている。前記の医学でいえば、第一の対処療法にあたるだろう。しかし、心の問題の場合、当面は対処療法がもちろん必要だろうが、社会も環境も変えず、根本的な原因を究明することもなく、狭い個人の問題に絞り込んで、はたして症状改善以上に「人間らしさ」の回復が望めるのだろうか。
 人間の行動を生物としての原則から考えることはひどく遠回りのようだが、医学における第二の道のように、ほんとうは一番大事な人間理解の道の一つだと私は思っている。」

新聞には最近、「心の・・・」という見出しがよく出てくるが、この作者のような観点で書かれている事はない。この人の意見が正論だと思うのだが・・・。
さらに、作者は言う。

「 幸い、私が長年取り組んできた霊長類学は、基本的には生物学だが、「人間とはなにか」を知ることこそがその鮮明な到達目標であった。とはいえ、世界の最前線でしのぎを削って研究を進めている若手や中堅の研究者に、立ち止まっている暇はない。これは私がしなければならない仕事のようだ。
「これはあなたとあなたを取り巻く社会や環境のことを考えるための本です」
「あなたの子どもたちやあなた自身をじっくり見つめ直し、どう行動すればよいかを考えるための本です」
 これが学生たち、その親たち、そしてそれらの予備軍に送る私のメッセージである。」

これが、この本を書いた意図であるとのこと。
崖っぷち弱小大学での経験をもとに、現代社会に対しての警鐘を鳴らそう、という事だ。

第三講の「子離れは攻撃的に」では、少子化の影響で、結果的に親が多保護にになり、子の自立ができなくなることが書かれている。

「いうまでもなく、子の自立不全を進めてきたのは親が子離れできないことだ。親も親としての自立が不全なので、結果としてもたれ合いの状態になるということである。」

「自立しないでも親の保護を受け続けられると子どもに思わせるようになったところから、そのように思わせるような親が増えた時点から、現代日本人は道を踏み違えたのではなかろうか。」

悪いのは子離れしない大人である。
子どもではない。
どこかの時点で、親子ではあるが、それをベースにお互いに社会人としての関係を結べるようにならないと、子離れしたことにはならないと思う。
それができない親子が増えているのが現実だろう。
ウチも気をつけないと・・・。

第六講の「隔離飼育症候群」のところでは、サルを観察するために一頭だけ隔離して飼育するという「隔離飼育」の研究を通して、今の日本の親子関係を考察している。

隔離飼育された子ザルは仲間遊びをしないし、隔離飼育されて育ったサルの半分以上が出産と初期の育児に失敗する、という事例が紹介される。
その事実を、今の日本の少子多保護状況に当てはめて、作者は「隔離飼育人間」について考えている。

「 最近、人間社会でしばしば話題となる「育児放棄」や「わが子虐待」も、準隔離飼育で育ち、現在も準隔離状況を続けている人に多いのではなかろうか。
 子どもの扱い方の知識なら、どの母親も一応は持っているはずだ。マニュアルなら書店に溢れている。テレビの番組だって至れり尽くせりだ。しかし今日、都会に住む多くの若夫婦は彼らの父母と同居しておらず、隣近所とのつき合いも少ない。そのうえ、このごろの母親は自分自身が準隔離飼育で育てられてきた。だから近所づき合いの仕方も知らない。これはほとんど隔離飼育の条件に合っている。
 わが子を死なせてしまってから「なつかないから放置した」とか、「ご飯をなかなか食べないからやらなくなった」とか、「いつまでも泣きやまないから叩いた」などと告白しているそうだ。
(中略)
 隔離飼育の問題点は、情緒不安定に始まり、親との関係、わが子との関係までもふくむ、あらゆる面での「社会性獲得不全」ということになる。
 社会性獲得不全とは、言い換えれば人間性はもとより、動物性の基本をさえ獲得することができなかったということだ。おまけに探検精神または試行錯誤をしながら壁を乗り越えようとする心の基盤が乏しいから、内へ内へと向かってしまう。これではおとなのひきこもりと大差はない。
 一見同じような顔をしており、同じように行動しているかに見え、そして大きな社会の中でふつうに生活しているように見える。けれど、そこには深くて大きな溝があるようだ。
 人間性の獲得とは、第一に社会性の獲得だ。社会性とは周囲の個体に気を配ることであり、それによって円滑さを維持することである。第二には探検精神だった。そもそも人間性とは、人間になってから突然登場したわけではなく、「進化の中で徐々に育まれてきた一連の性質群」と理解すべきものである。つまり、サルにさえある「人間性」が、現代社会の人間に欠如してしまっているのだ。これが由々しきことでなくてなんだろうか。」

スルドイ考察だと思う。
社会性獲得不全・・・よく言えている。
サルにさえある「人間性」が現代社会の人間に欠如してしまっているという指摘、きついがサルを知りつくした作者ならではだと思う。

第九講「なれのはての自己家畜化・ペット化現象」では、現代の人間社会と、生物の家畜化について考え、今の少子化の影響で子を自立させる必要がなくなった親について考察している。

「子どもの将来を期待しない親はいないだろうが、多くは「自分の予測できる範囲内」での将来への適応しか求めない。だから有名大学を卒業させて、一流会社に就職させようとする。
 でも、その程度の将来予想はたいした役に立たない。安定しているかに思える現代社会でも、社会環境は変動する。神様でもないかぎり、およそ遠い将来の予想なんて無理というものだ。・・・
(中略)
 第一講で示したように、変動する環境で生き残るには柔軟性こそ重要だ。そしてその柔軟性を獲得するためには、たくさんのことを知って視野を広げ、たくさんの経験をして新しい事態に対する対処の方法を知っておかなければならない。そして、いつでも新しい事態に立ち向かえるように冒険心や探検の精神も培っておくことが必要だ。こう見ていくと、柔軟性を獲得するための努力というのは、つまりは個人として自立することにほかならない。
 親がいつまでも、少なくとも心理的には自分の手元に置いて、自分の予測の範囲内の近未来像を勝手に思い描きながら保護を加え続けるのは、赤ん坊かペットに対するのと同じ行為である。
 寿命から考えて親が先に死ぬのが原則だから、子どももいずれは自立しなければならない。しかしペットと見なしたままであれば、子どもには自立の必要がないだけでなく、望まれてもいないことになる。」

子どものペット化。
デパートの子供服売り場に行ってみると、そんなこともあるか、と思える。
個人として自立するということが最も大事、ということは、みんなわかっているんだと思うけれど・・。

第十一講「知能の発達は社会生活から始まる」では「コミニケーションが脳を作った」という見出しで、脳の発達と原猿類の生態についての最新の結果から、人間の知能の発達について、書かれている。

「・・原猿類についてわかったことは、第一に、身体の大きさに比べて脳が大きくなったのは人間だけではなく、原猿類を含む霊長類全体であることだ。これは先述した。第二に、原猿類は完全な四足動物で、手による物の操作能力は他の四足動物と大差がないこと。そして第三に、それにもかかわらず原猿類は一部の夜行性の種をのぞいて集団生活者であり、個体間の社会的な交渉能力は高等な霊長類と変わらないほど複雑であること。以上の三点である。
 これらをこれまで述べてきた相対脳重および大脳新皮質の話とつき合わせると、次のようなことになりそうだ。霊長類の脳を特段に発達させてきたのは「器用な手による物体の操作能力の発達」よりも、集団生活に基づく個体間の交渉、すなわち「コミュニケーション能力の発達」である。そこには、自他はもちろん他と他も区別し、その関係を記憶し理解する能力や、相手がどう考えているかを推し量り、その心を読む「心の理論」、さらに過去の経験を記憶しておいて必要なときにいつでも取り出し、判断に利用できる能力、そんな能力が伴っている。そうした、状況に応じた適切な対応ができるようになって初めて、知能の発達と言えるようななにものかが進化してきたのだろう。だから、たとえば現代社会で急増しているひきこもりなどのコミュニケーションを不全にする行為は、自らの知能の発達を抑制してしまうものだとも言える。」

コミュニケーションこそが脳を発達させた、という原猿類の研究結果。
コミュニケーションを拒否するひきこもりは、知能の発達不全になる。
サル学者としての警鐘である。

これを本のタイトル通り、「進化しすぎた」ととるのか、「退化した」ととるのかはむずかしいところだろう。
あとがきのところに、作者が書いている。

「いかなる学問分野であっても、その時代における現代的意義が問われ、かつ答えられなければならないことに変わりはない。」

霊長類学の権威として、その学問の現代的意義を見事に著した本だと思う。
読みたい方は、ぜひ「崖っぷち弱小大学物語」と併せて読んでください。