2006年1月14日
勝っても負けても 池田晶子 新潮社

自信がある、というのはいいことだ。
もちろん、すべてのことに自信があると言われると、ちょっとおかしいと思うが・・。

この人の本を読んでいると、頭がすっきりする。
考えていることに自信がある人の明快さがある。

この本は週刊誌に連載していたコラムをまとめたもの。掲載当時の世相に対する時評にもなっている。

パソコンの書き込みでもめて、子どもが殺人を犯した事件について、「パソコンに罪はない」で書いている。

「 互いの顔が見えないと、人間というのは、どうやら失礼になるらしい。顔が見えると言えないことも、顔が見えないと言えるようになるらしい。しかし、もしもそれが、そも言われて然るべき正しい言葉ならば、顔が見えようが見えなかろうが、言えるのでなければおかしい。顔が見えないから言えるというのは、そも正しくない言葉である。そういう正しくない言葉を大声で盛り上げているのは、多くの場合、匿名の人である。ゆえに、これは完全に卑怯な行為である。言葉の仕事をする者として、そんな言葉には関わりたくないと私は感じる。
 私はそうだけれども、その種の事柄を好む人も、世の中にはいるのである。あたかも汚物をこそ好んで群がる蠅の如く、だれかの悪口が言われている現場に、それらの人々は群れ集う。誹謗、中傷、揶揄、嫉妬、人間の感情の最も低劣な部分を互いにさらけ出し、その汚なさに、集う蠅たちは生き生きとしている。人として生まれて、なんでこんなところでウツツを抜かしておられようか。」

「 なのに、慌てた文部科学省が、これまた阿呆な対策を講じて、言うには、パソコン教育を徹底し、モラルの向上を図りたい。パソコン技術をもった教員が少ない、それが子供にモラルを教えられない原因だと、こう言うのである。本気なのかと問いたくなる。
 この伝でなら、彼らは本気でこう教えるはずである。悪口を書かれたからと言って、友達を殺してはいけません。
 どうして殺してはいけないのですか。どうして悪口はいけないのですか。少々考える子なら、問い返すはずである。この問いに答えることこそが、モラル教育というものではないか。
 モラル教育が必要なのは、子供だけではない。現代社会の我々全員である。人間は、その貧相な内容に不釣り合いな技術を所有してしまったのである。進歩したのは技術であって、間違っても人間の側ではない。我々は未だ、夢の技術に群がる銀蠅なのである。」

パソコンは道具であり、大事なのは、それを使う人間の側だ、ということだ。
道具の使い方と、何をするのか、は別のことだろう。それをはき違えているという指摘だと思う。

この人は、「言葉」の大事さをずっと書き続けているが、今回も「言葉の力を侮るなかれ」でまたそれを書いている。

「 言葉の力を侮ってはならない。人は言葉なしには生きてゆけないのだから、言葉とは、すなわち命なのである。言葉は命なのである。死ぬときにもまた、人は必ず言葉を求める。「死ぬとはどういうことですか」。必ず人は問うのである。この時初めて、人は正しい言葉を求めるのだ。間違った言葉で救われても、救われたことにはならないからである。」

本の題名になっている、「勝っても負けても」では、そもそも勝ち負けとは他人との比較から出てくるのであって、自分の幸福とは何か、について明快に書いている。

「 私に言わせるなら、内的な幸福を得ずに外的な勝ちを得る、そのような勝ちとは、すなわち負けである。そのような勝利は人生の敗北である。イエス・キリストは言った。「もしも全世界を得ようとも、己れの魂を失うならば、人は何を得たことになるのか」。
 そう語った当のその人は、磔にかかって死んでいる。ソクラテスもやはり死刑だし、お釈迦様は乞食になった。王子の地位を捨てて、何をわざわざ、乞食になって暮らしたのである。彼らは、人類最初にして最大の負け組なのである。」

覚悟がなければ書けない言葉だろうと思う。
この人の言葉には気迫があって、それが伝わってくる。そこがすごいところだ。

「小説を書こうかな」では、話し言葉と書き言葉、携帯メールについて、書いている。

「 話し言葉とは、思っていることを口にすることである。口にする前によく考えることもあるが、たいていは書くよりは考えられていない。書くという過程は、思っていることをよく考えるという過程を、必然的に強いるのである。これはなぜかというと、そこに反省という意識が働くからである。反省は、思考が思考についてひとりきりで行なうものである。これに対して話すという行為は、複数で行われるものである。ひとりで考えこんでいる暇はない。伝達という機能が優先されるからである。
 携帯メールとは、話し言葉のこの伝達機能を、書き言葉にして代用するものだろう。ゆえに、話すように書くとは、考えずに書くということと、ほぼ同じである。これで人間は馬鹿にならずにすむものだろうか。おしゃべりをそのまま書いたような文章が、文学と言うことでいいのだろうか。私は思うに、そんなものは人間の言語以前、やはり何かサルの雄叫びか鳥の囀りに似たものである。人間とは考える動物である。思惟された形跡のない言葉は、動物の示威行為に等しいのではなかろうか。」

「ケータイを持ったサル」に書かれていたことと近いと思う。
人間とサルの違いの最も大きなものは、言葉を持ったことだろうし、そのメリットは言葉を使って、考えることができるようになったことだと思う。だからこそ、書き言葉を重視する、という作者の考えは正しいと思う。

「いまいましいゴミ問題」というところでは、ゴミの分別のことを書いているが、これは面白い。
自治体のマニュアルにそったゴミの分別がややこしい、ということで、区役所に電話をして聞いたりした後、

「 案の定である。場所によって異なるような相対的なルールを守ることが、なんで正しいことなのか。相対のものを絶対と思い込み、ルールを倫理とする時、人は誤るのである。行政はサービスである。相対のルールを強要するのは逆である。なるほど、ゴミ問題は今は過渡期なのだろう。それなら、そのように説明してルールを理解させればすむことである。たかがゴミの問題ではないか。
 その、たかがゴミの問題が、今や地球規模の大問題なのだと、環境派の人々は言うだろう。それは認める。しかし、それでも私はあえて言いたい。やはりゴミは、たかがゴミである。たかがゴミのことなんぞで頭を悩ませているよりも、我々にはもっと考えるべきことがある。四六時中ゴミのことばかり思っていると、ゴミのような頭になってしまう。じっさい私は、マニュアルに従ってゴミを分別しようと気をつけ始めてから、そのことを実感した。この包装の材料は何だろうとか、ホチキスの針がついた紙のラベルをどうしようとか、そのつど注意が動いてしまうのがいまいましい。これを続けていると、人間は確実に馬鹿になるぞ。」

やることはマジメにやる作者が、ゴミを捨てるときに、考えこんでいる姿が浮かんできて、笑ってしまう。
あきらめて、分別はしないと仕方ないが、たしかに自治体の周知の仕方はおかしいと思う。

このコラムのシリーズは面白い。
この人、文部科学大臣になってくれないか。