2006年4月2日
ランチタイムの経済学 スティーブン・ランズバーグ 日経ビジネス文庫

副題に、日常生活の謎をやさしく解き明かす、と書いてある。
その割には、ちょっとむずかしかったが、アメリカのエコノミストが世の中をどう捉えているか、ということがわかる本。
作者の「エコノミスト」という言葉には、プライドが感じられる。
エコノミストというと、ドライなイメージがあるが、この本を読んでいると、エコノミストはすごくウェットなところもあるのだ、と思わされ、親近感が増した。

この本は、エコノミストを自認する作者が、ランチタイムに友人のエコノミストたちと、世の中の卑近な事について話しあった内容、ということになっている。

6部構成だが、第1部の章立ては、第1章「インセンティブの力」、第2章「合理性の謎」、第3章「情報の経済学」、第4章「無差別原則」、第5章「労働と余暇のトレードオフ」となっている。

少し内容がむずかしいのは事実。でも、おもしろい。

第1章の「インセンティヴの力」のところに、「シート・ベルトの強制で死者は本当に減るのか」という見出しがある。
ここに、作者のいう、経済学の核心が書かれている。

「経済学の核心は、言ってみれば一行に尽きる。「人はインセンティヴに反応する」。残りは注釈にすぎない。」

こういう人が大好きだ。
ホンモノの人は、自分のやっていることを、ひと言で説明できる人だろう。

「「人はインセンティヴに反応する」、なんだ、あたりまえではないかと思われるかもしれないが、たいていの人は、一般論としては確かにその通りだと認めることだろう。エコノミストが違うのは、この原則がどんな場合にもあてはまると本気で主張することだ。一九七〇年代末、連邦政府の規制価格でガソリンを買うために三〇分も行列した記憶がある。エコノミストはみな、価格を自由に上昇させれば、ガソリンの購入量は減るだろうと言った。だが、エコノミストではない人の多くは、そうは思わなかった。正しかったのはエコノミストの方である。価格規制が外されると、行列はなくなった。
 エコノミストはインセンティヴの力を信頼しておれば間違いはないと信じており、畑違いの分野でもそれが指針になると考える。一九六五年にラルフ・ネイダーが、『どんなスピードでも自動車は危険だ』という本を出版し、設計上のさまざまな問題点ゆえに自動車安全法を制定し、シート・ベルトの着用、衝撃を吸収するダッシュボード、簡単に折れて運転者に突き刺さることのないハンドル、二重ブレーキ・システム、破損しても破片が飛び散ることのないフロント・ガラスの使用などを義務づけた。
 規制が施行される以前から、エコノミストなら誰でも規制のもたらす結果の一つを預言できた。自動車事故の件数が増えることだ。なぜか。事故死の危険は、慎重な運転を促す強力なインセンティヴだからである。だが、衝撃吸収ダッシュボード付きの車に乗ってシート・ベルトを締めれば、ドライバーの事故死の危険性は減る。人はインセンティヴに反応するから、当然ドライバーの慎重さも減少する。つまりは事故の件数が増加することになる。」

結果的には、実際に事故の件数は増えたとのこと。ただし、ドライバーの死亡は減った。でも、歩行者の死亡が増えたので、結局は事故死は減らなかったのだ。

「インセンティブは決定的な要素である。経済学には、この命題を証明するための経験的研究が何万とあり、逆を証明したものは一つとしてない。…」

第2章では、経済学では、人は合理的に行動するという仮説を採る、という事が書かれている。
合理性とは、人はインセンティヴに反応するという意味であり、この命題にはかなりの確度がある、と主張する。
たしかに、不合理な行動の事例はすぐに思い浮かべることができるが、エコノミストは、「一見不合理な行動は、それがどんなに珍妙であろうと合理的な説明がつくはずだとがんばってみるという行き方」をするとのこと。

事例として、大物スターが出演するロック・コンサートのチケットの事が書かれている。これらのチケットは、発売早々に売り切れてしまう。ぜひともチケットを手に入れたいと、何日も前から泊まり込みで行列するティーン・エイジャーの姿が、テレビで流される。興行元はもっと値段を上げても完売するのは間違いないのに、なぜ値段は上がらないのだろう?ということについて、合理的な説明を考えている。

ランチタイムに集まったエコノミストは、この問題を議論し、そして次のような説を出した。

「コンサートに行くティーンエージャーは、コンサートの後、レコード、Tシャツ、その他の小物を買う。だが、大人は買わない。したがって、興行元は十代の客に来てもらいたがる。十代の客に来てもらうためには値段を安くしなければならない。その結果、長い行列が現出することになる。大人はローリング・ストーンズを見るために、徹夜で並んだりはしない。」

それでも合理的に説明できない現象もあるが、このような理論を発見することがエコノミストである、ということになる。

「男性はなぜ予防医療への出費が女性より少ないのか」、「イギリスのホテルで一部屋に二人泊まると、シングルの値段の二倍の料金をとられることが多い。アメリカではこれが割安になる。この違いはどこから来るのか」…このような疑問に合理的な説明をつけようとするのが、エコノミストだという。
エコノミーには、効率がいいという意味があると思うが、効率がいいことは善である、という楽天的な信念に基づいて考える、という事がエコノミストの哲学ではないかと思う。

「私たちの論理展開の前提は、人が何をしようとも、それには立派な理由がある、ということだ。私たちエコノミストにその理由がわからなければ、解決すべき謎がまた一つ増えたということになる。」

第4章で取りあげられる「無差別原則」はむずかしい概念だと思う。説明しにくい。

「好みが特に変わっている人とか、例外的な才能の持ち主とかは別として、すべての人間の活動は無差別である。」ということ。

「サンフランシスコがリンカーンよりもいいのなら、リンカーンの住人はサンフランシスコに引っ越すだろう。大量移住によって、サンフランシスコの住宅価格は押し上げられ、リンカーンの住宅価格は下落して格差が拡大する。そう遠くない将来、二つの都市の魅力が同等になるか、もしくはリンカーンがゴーストタウンになるだろう。」

「固有の資源の持ち主だけが、無差別原則の作用をまぬかれうる。俳優の需要の増大は、俳優の得にはならない。新たに俳優になる人数が増えるからだ。だが、クリント・イーストウッドに対する需要が増大すれば、クリント・イーストウッドは得をする。なぜなら、クリント・イーストウッドは固有の資源の持ち主であり、クリント・イーストウッドは一人しかいないからである。彼のギャラが出演一本あたり数百万ドルに達すれば、仕事のない俳優たちは彼を必死でまねようとするが、どんなに努力してもクリント・イーストウッドにはなれない。科学者がそっくりさんを作る方法を発見すれば、クリント・イーストウッドのクローンができて、彼にも無差別原則が働くようになるだろう。
 無差別原則のおかげで、「すべての経済的利益は必ず固有の資源の持ち主に帰着する」。雨に濡れるのが好きな、あるいは普通の人ほどには雨を嫌がらない人がフェアに行けば、雨のおかげで得をする。彼の変わった好みは、固有の資源だからである。…」

「 世界中のどこでも、農民は抜きん出て多くの政府援助にあずかっていきた。アメリカでは、農民は土地を耕作せずに放っておいて補助金を受け取っているが、部屋を開けておくモーテルの所有者に補助金を払う制度はない。これは謎である。違いはどこにあるのか。農民は家族農場というロマンチックな印象を巧みに利用しているのだ、と言う人もいる。だが、家族農場は夫婦だけでやっている小さな雑貨屋よりもそんなにロマンチックだろうか。つぶれかかっている小さな農場主には補助金を出すのに、街角の小さなお店の経営が成り立たなくなるのを放っておくのはなぜなのか。
 無差別原則がその答えを与えてくれる。農民がせっせとロビー活動をするのに、モーテルの所有者や雑貨店がしようとしないのは、政府に補助金をもらってもほとんど得にならないことを彼らが知っているからだ。モーテルの空き部屋に補助金が出るとすれば、まず宿泊費が上がるけれども、じきに新しいモーテルができて、遠からずモーテル産業の利益は元どおりになる。モーテルには固有の資源はない。だが、農地は固有の資源だから、農業補助金をもらうために新しい農場が参入することはありえない。だから、農民は経済的条件の変化によって利益を得られる立場にある。
 したがって、彼らには好ましい変化を起こすよう働きかけるインセンティヴがあるのだ。」

したがって、所有者がいなければ、何の利益も生じない。無差別原則によって、すべての利益は固有の資源の持ち主に帰するか、消えてしまうかのいずれかになる。
だから、エコノミストは「誰も資源から利益を得ないよりは誰かが利益を得た方がいいと考えるがために、私的所有制度の方が優れていると考える」。

このような話は聞いたことがなかったので、すごくおもしろかった。無差別の意味は人は合理的に行動する、ということになるのだろうか。エコノミストとは、人間をある程度合理的な生き物として扱う、ということではないかと思った。


第7章の「税金はなぜ悪か」というところもおもしろい。

「 あなたが買う品物のほとんどは、支払う気のある最高額よりも安い値段で手に入るという意味でお買い得である。今日の午後、私は二四ドル払っても欲しいと思うシャツを二〇ドルで買った。私は店に入ったときよりも四ドル分豊かになって店を出たわけだ。しかも素晴らしいことに、私が得をした四ドルは誰の損失でもない。だから、私だけではなく世界全体が四ドル豊かになったことになる。この四ドルの利益は、エコノミストの言う消費者余剰にほかならない。
 もし付加価値税(消費税と同じ)のせいでシャツの価格が二三ドルに上がるとすると、私が三ドル損して徴税者が三ドル得する。ところが付加価値税率が上がって価格が二五ドルになると、まったく違うことが起きる。税を払いたくない私は、シャツを買うのをやめるだろう。すると、私の消費者余剰四ドルは消えてしまう。私は四ドル損するのだが、だからといって誰も得しない。
 もちろん、二五ドルでもシャツを買う人はいるだろうし、その人たちの損失は徴税者の利益によって(あるいはその税金によって恩恵を被る人の利益によって)相殺される。だが、私そして私と同じような人の損失は、エコノミストの言うデッドウェイト・ロスになる。損失に等しい利得が徴税者のところへも誰のところへも行くわけではないからだ。
 税はほとんど常に善よりも悪である。一ドル徴収するには、誰かから一ドルを取りあげなければならない。その過程でほぼ不可避的に誰かがシャツを買うのをやめたり、家を建てるのをやめたり、時間外労働をしたりするはめになる。制作が善よりも悪をなす方が大きい場合、つまりデッドウェイト・ロスを生じさせる場合、私たちは非効率と呼び、それを嘆かわしいことだと考える。
 デッド・ウェイトロスを避けられる唯一の税は、所得、資産、消費、その他個人が管理しうる事柄とは関係なく、誰もが一定額を納税する人頭税である。理論的にはエコノミストは人頭税が好きなのだが、現実には非効率の解決策としては極端すぎると考える。
 したがって、どんな種類にせよ政府を存続させたければ、そして人頭税によって歳入を確保するという極端な策をとりたくなければ、ある程度のデッド・ウェイトロスを甘受しなければなるまい。だが、生じうるデッド・ウェイトロスは税制の種類によって非常に大きな開きがある。何らかの政策のデッド・ウェイトロスが特に大きい場合、エコノミストは代替え策はないものかと考える。

 この−ここの利益と損失を比較する−分析こそが、エコノミストのエコノミストたる所以なのである。たとえば、関税が外国車に与える影響を評価してくれと頼まれた場合、経済学の勉強をしていない政策アナリストは、自動車産業の雇用やゼネラル・モータース(GM)社の利益、あるいは貿易赤字や財政赤字に及ぼす影響まで議論しようとする。この種の分析の問題点の一つは、善と悪を比較する基準が何もないことだ(自動車産業の労働者の雇用が四パーセント上昇すれば、自動車の価格が三パーセント上昇してもかまわないのか。貿易赤字が十億ドル減少するのはどうなのか)。さらに、ある結果をプラスと評価するかマイナスと評価するかの基準すら明確ではない。(国産自動車の生産高が増加するのは−貴重な資源を投入することを考慮した場合−善なのか悪なのか)。エコノミストはまったく違う方法を採る。私たちは個人への影響だけを考える。(もちろん、個人は自動車産業の利益や財政赤字に影響されるから、そうした要素も考慮しなければならないが、それは中間的な段階として必要なだけである)。経済活動する個々人を私たちは考える。この人物はこの関税によって得をするのか損をするのか、また損得はどれほどになるのか。消費者余剰、生産者余剰、関税を収入源とする給付、等々、個々の価値の変化が損得に勘定される。こうした利益と損失をそれぞれ集計する。利益の方が損失よりも大きければ、差額にデッド・ウェイトロスというレッテルを貼り、この政策は非効率だと断じてデッドウェイト・ロスを政策の稚拙さの物差しにする。」

「 インフレの真の経済的コストは、税金の真の経済的コストと同様、人々がインフレを回避するためにコストの高い行動に走り、その行動が誰の得にもならないことである。インフレの際、人々はできるだけ現金を持ち歩かない。なぜなら、ポケットに入れておけば金の価値が目減りしていくからだ。そこで、セーターを衝動買いしたり、にわか雨でタクシーに乗ったり、毎日のようにATMからお金を引き出す。小売店も手元の現金を減らそうとするから、お釣りが切れる公算が大となる。不測の事態に備える手元流動性を減らす大会社は、予想外の事態が起きた際にコストの高い資金調達をして対処しなければならない。こうした損失はすべてデッド・ウェイトロスであり、これに見合う利益はどこにも見出せない。全体からすれば些細なことだと思われるかもしれないが、インフレによるデッドウェイト・ロスはアメリカ全体で年間一五〇億ドル、国民一人あたり六〇ドルと推計される。破滅的な額とは言えないが、決して少ない額ではない。
 インフレ率が特に高いときには、デッド・ウェイトロスは巨額になる。一九四八年のハンガリーのハイパーインフレの際、労働者は一日に三回に分けて給料をもらい、給料が無価値にならないうちに小切手を現金化しようとする彼らの妻たちが、一日中、職場と銀行の間を行ったり来たりしていた。第一次大戦後のドイツのハイパーインフレに際しては、酒場の客は、値段が上がらないまだ早いうちに、数杯のビールを一度に注文しようとした、とジョン・メイナード・ケインズが言っている。生ぬるいビールを飲むのは、インフレの隠れたコストなのかもしれない。」

真のエコノミストは、広い視野で人間を見られる人、という気にさせられる。

第8章「なぜ価格は善か」というところでは、アダム・スミスの「見えざる手」の話が出てくる。

市場と価格が世界を良くする、という事がわかりやすく書かれている。
この事は、正しいことだと思う。

「 世界には非効率が溢れているし、訓練を受けていない人の目には、そのほとんどが「熾烈な競争」か「市場の暴走」の結果であるかのように映る。だが見えざる手の定理によると、非効率の源泉は、存在している市場にではなく、「欠落している」市場に求めてしかるべきなのだ。価格付けされていない財を探すべきであり、そしてまた私有されていない財を探すべきなのである。
 汚染について考えてみよう。工場が有害な煙を出して、近隣の住民に不快感を与えている。これは非効率的なのかもしれないし、そうではないかもしれない。工場は誰か(工場所有者、製品の消費者、その他間接的に関わりにある人々)に利益を与え、別の誰か(近隣の住民)に被害を及ぼしている。理論的には、すべての利益と損失をドルに換算できる(たとえば、近隣の住民に、工場を移転させるのにいくら支払いますか、あるいはいくらもらえば工場があってもかまいませんか、と訊いてみる)。差し引きすると悪いことよりも良いことの方が多いかもしれず、だとすれば、汚染があろうとなかろうと工場が存在している方が効率的だということになる。だが、悪いことの方が多いことも充分にありうる。その場合には、工場の存在は非効率的ということになる。
 こうした非効率の究極の源泉は何なのだろうか。行きすぎた資本主義市場と愚かしい利益追求の結果だと言う人がいるかもしれない。しかし実際には、これは市場資本主義が不完全なためなのだ。要するに、大気には市場がないからである。
 誰かが工場の周辺の大気を所有しており、大気使用料をとることができるとしてみよう。工場は汚染する権利を獲得するのに代金を支払わなければならず、住民は呼吸するのに代金を支払わなければならない。これは工場の汚染継続を阻止する強力な要因になる。たとえ大気が工場の所有者のものであっても、同じく阻害要因になる。大気を汚染すれば、きれいな大気を隣人に売る機会を失うからだ。大気の所有者が誰であるか−工場の所有者か近隣住民の一部か、あるいは不在「大気主」か−に関わりなく工場は汚染をやめるだろう。事実、工場が汚染を続けるのは、それが効率的な結果である場合に限ることは容易に証明できる。
 これは、大気の市場を作って維持するのがやさしいいことだとか、それが汚染問題の実際的な解決策だという意味ではない。その意味するところは、非効率の源泉が市場の不在にあるということである。非効率が存在する場合、その背景には必ず市場の欠落が隠されている(もっと正確に言えば、必ず存在する)。
 アフリカ象は象牙をとるために乱獲された。この素晴らしい動物は絶滅の危機に瀕している。この問題の簡単な解決策はないだろうが、理由は単純である。誰も象を所有していないからだ。所有者がいれば、事業存続のために必要な象を生存させておこうとするだろう。牛肉の需要の方が象牙の需要よりもはるかに大きいのに、牛は絶滅の危機に瀕していない。この違いを説明するための鍵は、牛は所有されているということだ。」

第19章には、金利について書いてある。
金利について、このような説明をされたのは初めてだ。

「金利は「消費」の価格であり、消費とは実体のある商品やサービスのことで、マネーというような抽象的な存在ではない。さらに正確に言えば、金利は将来の消費と対比した現在の消費の価格である。来年、遺産が入ると見込まれるなら、その時まで待って二万ドルのクルマを買ってもいいし、今一〇パーセントの金利で金を借りてクルマを買い、一年後に二二〇〇〇ドル払ってもいい。一年後に余分に払う二〇〇〇ドルは来年になって車を買うかわりに、現在、車を所有することの価格である。」

「一般に商品の供給が減少すれば、消費者の需要が供給に等しくなるまで商品の価格は上がる。この場合、「商品」とは現在の消費であり、価格は金利を意味する。金利が上がれば、貯蓄する人は貯金を増やし、借金をしている人は借金を減らそうとする。どちらにせよ現在の消費を減らすわけだ。」

第24章は興味深い。
「私は環境保護主義者と対決する」という標題がついている。
自分の娘の幼稚園の卒園式での「地球の友達」という講義を聞いての、作者の反論である。

「娘の幼稚園の無邪気な環境保護主義は、最も評判の良くない各種の宗教的原理主義に通じる、神話と迷信と儀式の寄せ集めを強制している。悪い宗教の解毒剤は、善い科学である。占星術の解毒剤は科学的方法であり、幼稚な天地創造説の毒剤は進化論であり、幼稚な環境保護主義の解毒剤は経済学である。
 経済学は対立する二つの選好に関する科学である。環境保護主義はこの選好の問題をモラルの問題に祀り上げる時、科学の枠を越える。自然を切り拓いて駐車場を作るという提案では、自然を好む者と便利な駐車場を好む者が対立する。その後の争いで、両者とも政治的、経済的制度を駆使して自分の好みを通そうとする。勝敗がかかっているから争いは激しく、ときには熾烈になる。それはすべて、予想されることだ。
 しかし、最初の「アース・デー」から二五年経って、一方の側が自分の好みは正義で相手は悪であると信じるようになり、そこに新たに醜悪な要素が混ざり込んできた。経済学、環境保護主義者が奉る道徳そのものを排除する。
 経済学は基本的な対称性に焦点を当てる。対立は両者が同じ資源を別の使途に配分したいと考えることから生じる。ジャックはジルの駐車スペースを犠牲にして森林を残したいと考え、ジルはジャックの森林を犠牲にして駐車スペースを確保したいと考える。そこで、この両者の関係は倫理的に中立で、ジャックあるいはジルのいずれかの立場が倫理的に勝っているという扱いをしてはならない。
 対称性の分析をさらに進めよう。環境保護主義者は、自然を切り拓くという決定は「取り返しがつかない」から、駐車場より自然を優先するべきであると主張する。もちろん彼らの論理は正しいが、自然を切り拓かないという決定も同じく取り返しがつかないという事実を忘れている。今日、自然を切り拓かないかぎり、明日、駐車する機会は、明日という日が失われるのと同様に失われ、取り返しがつかない。さらに遠い将来に駐車できたとしても、この失われた機会に相当する代替えにはならないだろう。
 環境保護主義者の主張のもう一つは、自然という選択肢をわれわれ自身のためでなく、将来世代のために残しておくべきだというものだ。だが、将来世代が、駐車場からあがる利益よりも自然が残される方を選ぶと考える根拠があるのだろうか。誠実に科学的に究明しようとすれば、最初に浮かぶ疑問の一つがそれである。
 もう一つの主張は、駐車場開発業者の目的はどちらを優先するかという選好の問題ではなく、利益の問題だというものである。これに対しては、二つの解答がある。第一に、開発業者の利益は顧客の選好から生じる。最終的な対立相手は開発業者ではなく、駐車したい人々である。第二に、この主張の奥底には、利益への選好は自然への選好よりも倫理的に劣っているという考えがあるが、この立場こそ、ここでの議論では排除しようと考えているものである。
 「取り返しがつかない」という主張も、「将来世代」という主張も、「利益ではなく選好だ」という主張も、間違った認識を根拠とするもので、誠実な検討に耐えられるものではないと私は考える。では、一部の環境保護主義者はなぜこうした主張を繰り返すのか。おそらく、彼らには誠実に検証するという精神が欠如しているのだろう。多くの場合、彼らは最初から倫理的に高い立場にいるつもりで、したがって人を改宗させるという崇高な目的に役立つかぎり、知的誠実さに欠ける布教活動を広める権利があると思っている。

 科学の特徴は、論理的に議論を進めてその結論に従うという姿勢にある。ある種の宗教の特徴は、都合のいい時だけ論理的で、議論が思わぬ方向に向かうと、すぐに撤退してしまうということだ。環境保護主義者は樹木の重要性に関する統計数字を大量に持ち出し、だから紙をリサイクルすべきだと一足飛びに結論する。だが、逆の結論も同じように成り立つ。もし再生牛が可能となれば、牛の飼育数は増加するのではなく減少するにちがいない。牧畜業者に多数の牛を飼育させたいと考えるなら、大量の牛肉を食べるべきだ。同じく、再生紙は植樹量を増やそうという製紙会社のインセンティブを失わせ、森林縮小の原因になりうる。広い森林を望むなら、できるだけ紙を浪費するか、あるいは伐採会社を補助するよう働きかけるのが最前の戦略かもしれない。環境保護主義者にそう言ってみるといい。私の経験では、戸別訪問の福音主義者が思わぬ逆襲に出会ったときのように、相手は一瞬うっとりとほほえむが、彼の信念はまったく揺るがない。
 このことから考えて、環境保護主義者−少なくとも私が出会った−の真の関心は樹木の保存にはないにちがいない。もし樹木の保存に関心があるのなら、彼らは真剣に紙のリサイクル運動の長期的効果を検討するはずだ。彼らがそうしたがらないのは、真の関心がリサイクルという儀式にあって、その結果には関心がないからではないか。底流にある犠牲の必要性、そして他者への犠牲の押しつけは、宗教的情熱以外の何ものでもあるまい。
 環境保護主義者は発癌性農薬を禁止せよと言う。彼らは農薬禁止によって果物や野菜が高価になり、人々の採取量が減って、癌発生率が上昇するかもしれないという、農薬禁止のもたらす結果を考えようとしない。彼らが本当に癌発生率を減少させたいのであれば、この影響をも考慮に入れないとおかしい。
 環境保護主義者には予言者的なところがある。種が絶滅したらどうなるか、結果は全く予想できないので、そのようなリスクを冒してはならないと彼らは言う。だが、結果が予測できないのなら、逆の結論も成り立つ。経済学が教えていることの一つは、わからなければわからないほど、実験が有用だということである。種の絶滅の影響がまったくわからないなら、いくつかの種を選んで絶滅させてみれば、貴重な知識がたくさん得られる。しかし、科学者がこの分野で本当に何もわかっていないのかというと、それは疑問だと思う。私の関心は、都合がいい時には何もわかっていないと主張し、予想外の結論を突きつけられると主張を引っ込める環境保護主義者の姿勢にある。
 一九九二年一〇月に新種のサルがアマゾンの熱帯雨林で発見された時、マスメディアは、これこそが熱帯雨林を保護しなければならないことを示す好個の事例であると騒ぎたてた。しかし、私自身はむしろ逆のことを考えた。そんなサルが存在することを知らずに長い間過ごしてきたのだから、別に残念なことだとは思わなかった。サルが発見されても私の人生が豊かになるわけではなく、発見されないまま絶滅しても、たいして残念だとは思わないだろう。」

引用ばかり長くなったが、エコノミストを自認する作者の鋭い視点がよくわかる。
日本の経済学者という人たちとはひと味違う、おもしろい本。
ホンモノのエコノミーという事を考えさせられる、いい本だと思う。